5話『番(つがい)の彼』
ラグーンの命令によって領兵に懲罰房へ監禁されたアクアリーナはなんとか脱走できないかと室内を落ち着きなく泳ぎ回っていた。
どうしよう……はやくあの人の所に行かなきゃ!
焦る気持ちを押さえつけ、珊瑚扉に体当たりをするけれど、二の腕や尾びれに擦り傷が増えていくだけ。
『初恋姫の祝福』は人魚姫の寿命の半分を削り相手に恩恵として与える特別なもの。
その力を相手の了承を得ずに施したのはアクアリーナのかってだが、それはアクアリーナを釣り上げた男性をマーリーン族と人間族との長い確執に巻き込みたかったわけではない。
私の番がそう簡単に負けることはないと思うけど……
大陸で使われている普通の釣り糸ではマーリーン族のアクアリーナを釣るなどほぼ不可能。
しかし水中では見えにくい透明な一本の糸はいとも容易くその不可能を可能にした。
好奇心に任せて大陸に近づきすぎ、人間族が放った網に掛かり奴隷にされそうになったアクアリーナはなんとか逃れる事ができたが、逃亡抑止のためか数日お食事を抜かれていたためアクアリーナは空腹が酷かった。
しかし絶食で弱った身体では体力が無く、自力で魚を捕らえる事が出来ない程に腹が空いていたアクアリーナが思わず魚に食いついてしまう程に巧妙な罠だったのだ。
海の中で揺らめく魚はまるで生きているかのように海中を泳いでいた。
普通に考えれば一匹でフラフラするような魚類ではなかったのに、気がつけば食い付いて針が唇を貫通していた。
ろくな抵抗をすることすら叶わず、あっさりと釣られるなどマーリーン族の恥、特に若い人魚姫と呼ばれる雌個体の価値は、その身に宿る恩恵の事もあり絶大。
逃げなきゃ……
しかしあの人間の男は言葉も通じず警戒するアクアリーナに身振り手振りで口に刺さったつり針を引き抜いてくれた。
日に焼けた肌と潮焼けて赤茶に変色した短い髪、そして白い歯を見せてニカッと笑った精悍な顔立ちに、ドクリと一瞬で全身の血液が沸騰したような感覚を覚え、気がつけば唇に『初恋姫の祝福』を贈っていた。
これが噂に聞く初恋なのかしら? そろそろ私も番を得る時期にきていたけど、まさか種族を越えた大恋愛!?
相手の男を殺しかねない憤怒のラグーンを止めるためにも早く逃げ出してかの男のもとに行かなければならない。
しかし桃色な妄想に取り憑かれたアクアリーナは真紅の尾びれに負けないほど顔を赤面させ細い腰を振りながら自分の妄想に悶える。
はっ!? こんなことしている場合じゃないわ! もう一度っ
扉から離れて体当たりするべく、岩をくり抜いた部屋の最奥へ素速く泳ぐと力強く尾びれで水をかき扉へ突っ込む。
「アクアリーナ〜開けるわよ〜」
「えっ……」
目前で急に開いた扉に、身体は勢いがついたまま突撃するしかない。
水中最速と言われる人魚は、急には止まれないのだ。
「きゃぁぁあぶつかる!」
細身とはいえスピードがついたまま突っ込まれれば、水中に限り相手を吹き飛ばすくらいの攻撃力は有る。
「もぅ、何やってるのかしらうちの馬鹿娘は」
扉を開けたどっしりとした重量感がある熟女人魚は素速く横に身体を反らしてアクアリーナの突撃を回避すると、アクアリーナの細腕をムンズと掴み、自分を軸にして勢いを殺して壁ではなく先程までアクアリーナが監禁されていた部屋へと放り投げた。
「お母様! お願いここから出してください! あの人の所に行かせてください」
「いいわよ〜」
鬼気迫る勢いでの母、マリリンへの懇願はアクアリーナの予想を裏切りあっさりと承諾された。
「……よろしいのですか?」
まさかこんなにあっさりと承諾されると、逆に不安になるわね、もしかして何か無理難題でも要求されるんじゃ……
内心戦々恐々としながら目の前のマリリンの挙動に注視する。
「そんなに警戒しなくてもとって食いはしないわよ、忘れたの? 私も貴女のお父様に『初恋姫の祝福』を贈ってるのよ」
クスクスと笑うとゆっくりと出入り口を塞いでいたふくよかな身体をずらした。
「人魚姫の初恋を邪魔するものは鮫に噛まれる愚か者よ、本能のままに生きなさい」
「ありがとう!」
母の言葉にアクアリーナは城を外海へと飛び出した。