4話『初恋姫の祝福』
俺が操舵室に寝具類を持ち込んで呑気に睡魔に負けた頃、海底都市マリンピアでは上へ下への大騒ぎとなっていた。
「アクアリーナはまだ見つからんのか!」
目に入れても痛くないと豪語する程に溺愛している愛娘の行方がしれず、苛立たしげに部下である人魚や魚人達を一喝したのは、マリンピアの領主マリリンの配偶者であるラグーン・アーリエだ。
ラグーンは彫りの深い顔を迫力満点に顰めさせ、イライラと自身が立つ宮殿の正門で直接部下たちに檄を飛ばしている。
古代遺跡に書かれた歴史には旧時代、地上の暦で西暦と呼ばれていた頃に、第三次世界大戦と呼ばれる大きな戦に突入したと記されてある。
黒いクラゲのような雲が地上各地に上がってから、人間達は恐ろしい速度で大地をそして同胞である同じ人間族を次々と殺していく。
当時海底に国家を建設し独自の文明を築いていた人魚と魚人達で構成されたマーリーン族は地上の戦禍を他人事だとして静観していた。
もともと国交はなかったし人間族はマーリーン族とは違い水中では生存できない。
そのためマーリーン族の領土を侵されることはないと判断していたのだ。
船に乗って海に出てくる少数の人間族など全くの無害、無力で脆弱な生き物。
その無力で脆弱な生き物に手を出すことはマーリーン族にとって恥ずべきことだと教わってきたからだ。
しかし、第三次世界大戦の影響はマーリーン族の生命線である海を確実に蝕んでいった。
空からは煙を上げた無数の鳥のように空を飛ぶ鉄の乗り物が降り注ぎ、要塞のような巨大な船がいくつもいくつも海へと沈められる。
船や空を飛ぶ乗り物から不吉な黒い油が海へと流れ出てマーリーン族を始め、海に棲む沢山の生き物が死滅したり、重篤な病に掛かるなどの被害が出始めた。
人間族の言う放射能と言うものに汚染された土砂や真水が次々と海へ流れ込むようになったのだ。
それまで楽観視していたマーリーン族達は己の安直な考えによって沢山の生き物が犠牲となった海を見てこれ以上被害を増やさない方法を模索し始めたのだ。
事態を重く見た当時のマーリーン族の代表は人間族でも影響の強い国に争いを辞めるよう進言したが、傲慢な人間族はあろう事かマーリーン族の使者を捕らえ自らの奴隷としたのだ。
それ以来西暦からデストピアース紀年に変わったこの世界では人間族とマーリーン族の長い確執が続いてきた。
「ラグーン様! アクアリーナ様がお戻りになられました!」
「本当か!? それでアクアリーナはいまどこに?」
ラグーンは知らせに来た魚人騎士に問い詰める。
「アクアリーナ様は現在自室へ移動されております」
魚人騎士の言葉に自慢の尾びれを俊敏に動かし、アクアリーナの私室へ急ぐ。
アクアリーナの私室は領主館の上階にある。
海底都市は地上の日の光を海中深くまで通す透明なマングコンブのおかげで明るい。
それでも出来るだけ海面へ近い上層階が好まれた。
海底都市マリンピアはもともと巨大な珊瑚礁を利用した都市だ。
巨大化したサンゴに横穴を彫りその中に暮らしている。
水中を泳ぐ事ができるマーリーン族にとって階段なんて必要ないのだ。
そんなマリンピアの中でもひときわ美しい紅サンゴが領主館となっている。
アクアリーナの自室の扉を叩こうとしたラグーンは室内から聞こえてきた楽しげな娘の声に安堵する。
ラグーンの愛娘溺愛はマリンピアどころか各氏族に分かれて暮らすマーリーン族の中でも有名だ。
中には娘の美しい尾鰭に惚れ込み、ラグーンのもとに娘を妻に迎えたいと世界中の海に住まうマーリーン族からの求婚が押し寄せることもあったが、それらすべて巻き貝の口に、つめこんで深海に葬り去った。
しかし愛娘が無事に帰ってきたという喜びに破顔したラグーンの顔は室内から漏れ聞こえてきた娘の声に渋面を通り越して憤怒に変わる。
「しッー! マーシャ声が大きいって」
「まぁ、アクアリーナ様ってば無断でマリンピアを抜け出して人間と逢い引きしてくる不良姫様の声のほうが大きいですわ」
逢い引き……しかも人間だと!?
紫色の毒海を抜けて清浄な海水がある清海に出てこられるような高度な技術を有する船を人間たちは所持していないはずだ。
ならいったいアクアリーナはどこで人間と逢引などしたと言うのだ!
「しかも既に『初恋姫の祝福』まで贈ってしまわれるなんて軽率すぎます」
「だってマーキングしておかないと他の雌に取られそうだったんだもの」
『人魚姫の祝福』は雌が自らの番となる雄に贈る力だ。
第三次世界大戦以降、放射能の影響か雌個体が減少し、求愛順位を巡り争いいつからか強い雄が雌に求愛行動を取ることが許されるようになっていった。
しかしマーリーン族は雌が番を選ぶ権利を有する。
雌個体は出来るだけ多くの優秀な仔を後世に残すため、雄よりもはるかに寿命が長い。
仔をなせる身体になれば、自然と自らを守る力がある強い雄の番を選ぶのだ。
番関係はその雄が死ぬまで継続されるため番となったからと言って雄は油断できない。
自らが番にならんとする雄を蹴散らさなくてはならないからだ。
『人魚姫の祝福』は人魚姫のみに与えられた特別な力だ。番の命を永らえる事ができる。
長寿の雌の天命を口づけに祝福の力を込めて分け与えることで他の雄よりも強くなる。
しかし基本的に種の本能か、多くの優秀な雄の遺伝子を後世に残すために、わざわざ『人魚姫の祝福』を授ける人魚姫は少ない。
番が死ねば次の番を見つけるだけだから。
その『人魚姫の祝福』のなかでも強力な祝福が『初恋姫の祝福』と呼ばれるものだ。
『人魚姫の祝福』は人魚姫の天命が残ってさえいれば自分の意志で長さを決め何度でも分け与えることができるが、『初恋姫の祝福』は人生に一度のみ、しかも一度も番を選んでいない人魚姫にのみ施すことができる。
人魚としての寿命の半分を番に渡し番と生涯をともにする為の力。
『初恋姫の祝福』を贈った人魚姫は番を喪えば海の泡となって消えてしまう。
実際にマリリンから『初恋姫の祝福』を受けたことがあるラグーンにとって他人事ではない。
なっ……なんてことを!
「アクアリーナぁ!」
「きゃあ!」
怒りに身を任せて自室に踏み込んだラグーンにアクアリーナは愛らしい悲鳴を上げた。
「おっ、お父様! いっ、いきなり入ってこないでください!」
明らかに何かを隠したアクアリーナの様子に眉根を上げる。
「アクアリーナ、『初恋姫の祝福』を人間に贈るなどいったい何を考えているんだ!」
「なっ!? お父様盗み聞きなんてひどいわっ!」
「ひどいことがあるとしたらあと先考えずに自分の人生の重要な決断を他の雌に奪われないようにマーキングする為だけに贈ったことだ馬鹿娘!」
ラグーンとアクアリーナのやり取りにアクアリーナの乳母がオロオロとしている。
「領兵! この馬鹿娘を懲罰房へ監禁しておけ!」
ラグーンの命令にそれまで黙って様子を伺っていた領兵達が困惑しつつも無言の攻防を繰り広げている。
「よっ、よろしいのですか?」
どうやら敗者に決まったらしい領兵の魚人が恐る恐る口を開く。
「かまわん! 絶対に、絶対にっ、ぜ〜ったいに出してはならん!」
そう言ってアクアリーナの部屋を出て行こうとするラグーンの後を追い掛けて衰える気配がない逞しい縋り付いた。
「お父様何をなさるおつもりですか!?」
必死な様子のアクアリーナを見やる。
「その人間『初恋姫の祝福』を受けたのならばそう簡単には死なん! 儂がお前前の番にふさわしい雄か判断してやる!」