3話『人魚の口づけ』
俺の所有する船はいわゆる漁猟船と呼ばれる種類の船だ。
『第八豊栄丸』と名付けられたこの船は、基本的には釣り船を持たない一般客の為に沖まで船を出す遊漁船だ。
依頼がないときには1本釣りや延縄漁も行えるだけのスペックは取り付けてある。
俺の相棒兼自宅ともいえるこの船は、もともとは祖父の持ち船を遺産相続したものだ。
祖父の代から付き合いのある造船所で特注で改造を施した。
海面に触れる船の外面はブラックで塗装されており重厚感がある仕上がりでお気に入りだ。
デッキにはしっかりしたサイドレールが取り付けてあるため転落予防はバッチリ。
まぁ仮に海へ転落しても船が転覆するのを防ぐために船体の横に浮きとなるアウトリガーが装着されているため足場にして登ってこられる。
ディーゼルエンジンを搭載したシャフト船のため、軽油で動き燃料タンクは長期航海に耐えうる八千リットルもの容量を誇る。
またブリッジの上にはソーラーパネルと取り付けてあり、ディーゼル発電機と併用してバッテリーに蓄電してあるため、エンジン停止中はそこから電力を補う仕組みだ。
船の全長は十八メートル、船幅は四メートル半程と一人乗りには少し広いが、おかけで改造し放題だった。
陸に自宅を持っているわけでも無いし、自動車を所有しているわけでもないから、船に釣具にと祖父から譲り受けた全財産を惜しみなくぶっこんだ。
なぜか陸に上がると不運に見舞われる謎の体質のせいで陸地で暮らすよりも船で過ごす方が快適に過ごすことが出来るのだから、一年の大半を海上か港に寄せた船上で引きこもるだろう普通に……
ほぼ自宅兼用のためフロントキャビンへの入り口横には個室のマリントイレと温水器を搭載しているため狭いながらも湯船と簡易シャワールームもある。
船内では燃料の加熱、ギャレー(簡易キッチン)での調理、給湯、船内暖房などのために大量の蒸気を利用しており、その大部分を補助ボイラーで賄っているのだ。
大人五人がゆっくりと横になれる広々としたフロントキャビンにはクッションベッドがあり折りたためば椅子になるし、もちろんシート下の大型収納には救命胴衣などの法定装備も収納してある。
フロントデッキ下は広々とした収納スペースになっておりキャビンからも取り出せる仕組みだ。
マリンエアコン搭載でいつでも快適だし、キャビンにギャレー(簡易キッチン)とレンジや冷蔵庫などの各種家電類、テレビなどプレジャーボート並みの装備が取り付けてあるため生活には事欠かない。
それこそ陸に上がるのは釣った魚たちを港へ卸す時と航海に必要な水や食料、燃料などを補充する時くらいだろう。
飲み水や調理用には陸上から補給した水を使用するが、冷却水やトイレなどの水は、造水器を使用し海水から蒸留水をつくりまかなっている。
人魚が居座ったフロントデッキからキャビンの幅を広く取ったためにやや狭くなってしまったサイドデッキをすり抜けた。
日よけのオーニングが施された船尾にあるアフトデッキには循環式生簀が二つ、氷間と呼ばれる冷凍庫が二つ、物入れが二つあるが、全てフラットに設計されているため段差で足が引っかかる心配がない。
足早にアフトデッキから操舵室へ続くの扉を開けて船内に入る。
先程は動揺して操舵に必要な機器の動作確認を怠ってしまっていたのだ。
この人魚をどこかに乗せていくにしても、俺が陸地へ帰還するにしても計器や動力源のエンジンが動かなきゃはなしにならねぇ……
鍵を回してディーゼルエンジンを動かすと、様々な機器に電力が供給されていく。
幸い燃料タンクは出港する前に入れたばかりだったため満タン値を示している。
これならしばらくは燃料は持つはずだ、補給できるかどうかは微妙だがな。
ディーゼルエンジンは無事だったが残念ながら、備え付けてあったレーダーとGPSナビゲーション、GPS魚群探知機の画面が正常に作動しない。
電源は入るが、データとして機能していないのだ。
計器関係は軒並み駄目そうだが海面を照らすサーチライトや船を照らすデッキライト、船を止めておくためのアンカーとアンカーを巻き上げるためのアンカーウィンチ、デッキウォッシュとデッキシャワーも問題無く使えるのでまぁなんとかなるだろう。
「よし、これならイケるな」
舵輪を握りしめスロットルを前進の位置に移動すると、船はゆっくりと動き出した。
ブリッジからはフロントデッキに座り込んだ人魚が見えてなんとも見慣れない景色となっている。
突然動き出した船に驚いた様子だったが、今はサイドレールにしがみついて、海面を割いて進む景色や、頬に当たる海風を楽しんでいるようだった。
歌でも歌っているのか不思議な旋律がブリッジまで聞こえてくる。
セイレーンの歌とか、俺本格的に遭難しそうだな……つうか、もはや遭難してるよな。
三十分ほど船を走らせると、ようやく海の色が青紫から見慣れた深い青色に変化したため船を一旦停止させる。
ブリッジを出てフロントデッキに移動すると、それまでの歌をやめて振り返った人魚にもう警戒の色はない。
こちらをジッと見つめられて、その視線の強さに負けて目をそらす。
こんなに見つめられたら照れるだろうが、いっちゃぁ悪いがこれまで生きてきて女にモテたことも、彼女がいた事もない。
身近にいた女は港の近くに住む爺婆ばかりで、三十半ばを過ぎた俺はこれでもこの周辺では若手漁師だって言うんだから驚きだよな。
そんなわけで女に、それも人魚の可愛いねぇちゃんに見つめられて平気で居るなどどだい俺には無理な話なんだよ。
「ほら、もう大丈夫だろ? 海へ帰れ」
そう言って海を指差すが、なぜか去る気配がない?
いつまでもこちらを見つめ続けられるのも居心地が悪い。
もしかして他にも怪我でもしてんのか?
だから海へ帰れないのだろうか、人魚の血が俺と同じ色をしているのは先程釣り針を外すときに確認済みだが、俺が気が付いていなかっただけで他にも傷口があるのなら、水に入れば大量出血に繋がる可能性もある。
「確認するか……でもなぁ……くそっ、しゃーねぇか」
バリバリと頭を掻き、しばらく悩んだあと面倒くさくなってそらしていた目を人魚に向ける。
「騒ぐなよ……ちょっと確認するだけだからな?」
ゆっくりゆっくりと距離を詰めて1メートルほど離れた場所まで近づくと、突如両手を伸ばした人魚に救命胴衣を掴まれて引き倒された。
「おいっ、いきなり危ないッ」
苦情を言った唇にふわりと柔らかく重ねられた冷たい唇の感触に目を見開く。
なっ、なななっ、何が起きたんだ!?
えっ、き……す、鱚!? ちがうなそれは魚だ落ち着け俺!
僅かな口づけに動揺して動かなくなった俺を船に残して人魚はサイドレールの下をくぐり抜け海へとダイブした。
キラキラと水しぶきを上げて紅い尾びれが翻る。
キレイだな本当に……
サイドレールに掴まって海面を見ると、少し離れた場所で人魚がこちらへ手を振っていた。
「もう釣り針なんかにひっかかんじゃねぇぞ!」
「ありがとう!」
「おうよ!」
それだけ告げてから人魚は海中へと一度消えて、海面へ飛び出すとまるでイルカのショーのように空中を一回転して見せてくれた。
「行っちまったな〜、さてとカップ麺でも食べて寝るか」
背伸びをしてキャビンへとデッキの上を歩き始める。
あれ? あの人魚「ありがとう」って言ってなかったか?
はっ! っと気がついて海面に人魚の姿を探したがその姿はどこにも見当たらなかった。