1話『青紫の海ってなんだよ……』
突如天候が悪化し荒れ狂う海に漂流した俺、恵比寿海人はひとり愛船の舵を必死に握りしめていた。
押し寄せる波に舵を取る手が震える。
漁師という職業を選んで、海に出るようになってからもうしばらく経つ。
見習い漁師として亡き祖父の助手として船乗るようになって、祖父が天寿を全うしてからはひとりで漁に出るようにもなった。
本来ならばひとりで漁に出るのは安全上推奨されるものではないけれど、一人気ままに漁に出て釣りたい魚を狙って生活費を稼ぎ、船上で暮らす日々はマイペースな俺の性格に合っていた。
たまに船釣りを希望するお客を載せて沖に出る事もあるし、知り合いに頼まれて本州から離れた島へ物資や人を運ぶこともある。
そう……それが俺の日常でまさかこれ程の大時化に出くわすとは思ってもいなかった。
こんなはずではなかったのだ、いつも通り生きていくのに必要な金銭を得れる分だけ魚を捕獲して港へ戻るつもりだったのだ。
それなのに、それなのに異常事態に巻き込まれてしまっている。
「クソッタレ、なんなんだよ! この悪天候は波が高すぎて舵が効かないっ」
まるで港へ帰るのを阻止するように突如荒れだした天候と、打ち寄せる波をなんとか船体を弾ませるようにして乗り越える。
早朝に港から出港した時は波は穏やかだったし、風もそれほどなかったはずだ。
出港前に確認した近海の天気予報にも台風の発生なども掲載されていなかった。
それなのに突然猛烈な台風の中に放り込まれたように真っ黒な積乱雲が船の上をものすごい速度で覆っていったと思ったらあっという間に荒れはじめたのだ。
襲い来る高波に船体をひっくり返されないように操縦しながら、ひたすら耐える。
まるで安全バーのないジェットコースターと化した愛船を転覆させないように必死に舵をきる。
突然雷鳴とは明らかに違う轟音が背後から迫り、俺の頭上を高速で数基のミサイルが飛んで行った。
くそっ! 戦争になるほど外交関係が悪化しているなんてテレビで言ってなかったぞ!?
元々沖に出たとはいえ、日帰りで獲った魚を魚市場に水揚げする予定だったから陸地が見えないほど遠くまで来ていたわけではない。
それなのに高波にさらわれてどんどん外海へと押し出されていく。
激しい閃光が遠目に見える故郷を包んだかと思えば、時間差で爆風が船体へと吹き寄せる。
紅い炎が勢い良く燃え上がり黒煙が渦巻きながら雷雲へと立ち上がった。
住み慣れた街が……俺の故郷が業火に飲み込まれ燃えていく。
まるできのこのような黒雲が上がるのを方向すら定まらない船上で必死に睨みつける事しかできない。
「くっそ〜!」
上げた雄叫びとともにいまにも持っていかれそうな舵輪にしがみつく。
そうでなければきっと俺の身体は荒れ狂う大海原へ投げ出されていたに違いない。
波とは明らかに違う爆風が二度三度と船体に当たり、強い衝撃を受けてバランスを崩し背中から壁に激突し俺は意識を手放した。
頭と背中の痛みに目が覚めると、すでに嵐は過ぎ去ったのか穏やかな揺れを身体に感じる。
痛っ……てぇ、俺はどんだけ気を失ってたんだ?
錨も下ろさずに荒れ狂う波に任せて、海上を彷徨ったのならいったいどれだけ陸地から流されてしまったのだろう。
不安になる心を叱咤し、船体の被害状況を確認するべく、ズキリと痛む身体を床からゆっくりと起した。
痛む頭を右手で押えながら船内に視線を走らせる。
漁船は激しく揺れたせいで物が移動し散らかってはいるが、突然の台風とミサイルによる爆風を受けたわりに、目視で確認できる場所に関しては大きな被害はでていないようだった。
問題なのは……やっぱりこれだよな。
「なんで海が青紫なんだよ……」
操舵席から見える青い空と地平線に面している毒々しい青紫の海。
しかもすげぇ色してやがる……つぅかこれ海か?
「はははっ悪い夢だっ、落ち着こう……」
渇いた笑いを上げながら数度深呼吸を繰り返す。
操舵席を離れて外に出ると、俺はサイドデッキから愛用の釣り竿を取り出して、糸の先にある釣り針へ捕獲してあった生き餌の小アジの背中に刺して青紫色の海に投げ入れる。
正直にいってこれが本当に海なのか判断がつかないが、まぁ、なにか釣れればわかんだろ。
ポチャリと小さな音を立てて海に落ちたアジはリールから次々と糸を引き出しながら紫色の海へと潜り、あっという間に姿を消した。
とりあえず水質の変化で直ぐにアジが死ぬことはないようだ。
泳ぐに任せて地平線をまったりと見つめていたら、釣り竿がグンと海に向かって撓る。
釣り糸が巻き付けられたリールからは速度を増してどんどん糸が水中に向かって引き出されていく。
「掛かったぁ!」
釣り竿を固定台から外してこれ以上糸が出ていかないようにロックをかけるとグンと引きに合わせて竿を引き上げる。
ギリギリと金属音を立てながらリールが軋み悲鳴を上げる。
まるで本マグロでも掛かったのではないかと思えるほどに重くしなり限界まで曲がり竿の先が水面を何度も叩く。
力強い引きに確信する。
「よっしゃ! これはきっと大物だ!」
まさか適当な仕掛けでこれほど抵抗する大物が掛かるとは思っていなかった。
完全に不意打ちも良いところだ。
釣り上げようとする俺から逃げようと船の下に潜り込もうとする獲物を船の甲板を歩いて移動しやり過ごす。
一進一退、巻く度に引き出される糸をじりじりと少しずつ少しずつ巻き上げる。
力を抜けばあっという間に竿ごと海へと引きずり込まれるだろう。
汗で滑る掌を服で拭き、袖口で額の汗を拭い去る。
魚とのやり取りは長時間におよび、相手がやや疲れたのか抵抗が弱くなってきた所で一気にリールを巻き取る。
ゆっくり、ゆっくりと細い糸を手繰り寄せていくと水中の底にキラリと魚影が映り込んだ。
「予想以上にでかいなこれ、1メートル……いやもっとか。 五十キロ以上は確実にあるんじゃないか?」
海底に微かに見える美麗な長い尾びれは金目鯛の様に鮮やかな真紅のようだ。
まだ逃げようと必死に海に潜り続ける上半身はまだ見えない。
「大人しく釣られやがれ、うぉりゃァァァ!」
五百キロのクロマグロすら釣り上げられるとのうたい文句で販売されている釣り糸と、伝説の漁師と謳われた亡き爺さん直伝の結び方で糸と針を結びつけてある。
多少無理に引いたって切れる心配はしなくていいため力いっぱい竿を引き上げる。
フッと竿が軽くなり一瞬針が外れてしまったかと身構える。
次の瞬間……水中から空をかき船の甲板に打ち上げられた獲物を確認し俺は自分の目を疑った。
抜けるような青白く美しいきめ細やかな人肌、豊かな胸元には帆立貝の殻に似たの胸当てがされており、水中で泳ぐ際激しくに動かすだろう腹部から腰はスラリと引き締まり括れている。
へその下辺りからはまるで魚のような真紅に輝く美しい鱗に覆われており、長く美麗な尾ビレが神秘的だ。
白い肌に貼り付く濡れた長い艷やかな髪は真紅から薄紅へとグラデーションが掛かって濡れた肌に張り付きそれがまるで真紅の入れ墨のようにみえる。
完璧に美しさを追求したような黄金比で各パーツが配された顔は見惚れるほどに整っており、何より目を引くのはぱっちりとした神秘的なロイヤルブルーサファイアのような一対の瞳。
昔話やテーマパークにいる伝説の生き物……そして男たちの永遠の憧れの生き物……
どこからどう見たって……
「人魚だろこれ〜!?」
どうやら俺は住んでいた世界ではない異なる世界に来てしまったらしいと理解した瞬間だった。
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