最後の大一番 ルナン・クレールはもののふである
火星統合暦 MD:〇一〇四年三月二八日 払暁
ラパス級フリゲート艦『ルカン』は特務工作艦『マルヌ』への入港を果たした。
巨大なリング状船体を五層にわたって連結し、船体を常に回転させて遠心力による擬似重力を発生させながら航行するこの艦船は、もはや宇宙に浮かぶ巨大な移動船渠と言っても差し支えない。
傷付いたフリゲート艦は今、その五層のリング状船体を貫く、太いボンレスハムのような中央船体内部に設けられたプラットホームに横づけされていた。修理と補給が急務であった。
プラットホームは他に三基あり、少し距離を隔てて民間輸送船や小型タンカー等、多種多様な船舶も補給あるいは長旅を癒すために停泊していた。そこで寝起きする船員たちは船上から、あるいはホームに降り立ち、瀕死の状態で生還を果たしたフリゲート艦を心配そうに眺めていた。
入港してから既に三時間が経過していた。プラットホーム内の気密は確保され、疑似重力も安定した状態で維持されていた。
船外ではクレーンが忙しなく移動を繰り返し、推進剤補給用の太いチューブが接続され、オレンジ色の作業着を着込む『マルヌ』の専属チームが、船体各部で装甲が剥がれ落ち、内部機構をもさらけ出している箇所に群がり、溶接機の火花を散らして応急処置に余念がなかった。
船外では喧騒の態であるが、船内はいたって静謐であった。
数時間前まで死闘を繰り広げてきたクルーの姿は見られず、その代わりグレーの作業着を着込んだ総務部の係官らが、船内各所にて制御機器類にかじり付き、自前のタブレット端末への記録データ収集に躍起となっていた。
「いや、少佐殿もまめですなぁ」と、カラシ色のスーツに身を包んだ男が言った。
その男は、艦長室にただ一人残り、白線の入った艦長帽を乗せた専用デスクにて、何やら書き物に没頭している女性艦長の傍らにて尻を机の端に乗せ、足を組み膝に乗せた同系色のソフト帽をいじりながらこうも言った。
「弔辞文なぞテンプレでメール送信すれば良いではないですか? わざわざ手書きで郵送なぞ……」と、彼は水色に黒線で縁取りされた綺麗な封筒に収められたそれらの一つを手に取った。
「レオン・ドーデ義勇二等兵曹のご遺族向けだ。ぞんざいに扱うなよ。査察官殿!」と、艦長ルナン・クレールに釘を刺された、スーツ姿の査察官と呼ばれた男は
「歳はいくつだったんですか?」と、問うた。
「一八歳だった。船首区画にて亡くなった。……オレの所為だ」と、ルナンは声を細めた。
彼は指先で封筒をくるりと回し、宛名を確かめてから“ヒュー”と口笛を鳴らすと、注意されたにも拘わらずデスク上に放り投げた。
「今のオレ、いや私がご遺族にしてやれる事はこれくらいだ。それに艦長としての最期の責務でもある」と、ルナンはそれを丁寧に元あった場所に戻して、六畳一間ほどの艦長執務室に居座る、招かれざる客をやぶ睨みしてから
「で? 『シュルクーフ』で問題が発生したようだな? 査察官殿いや軍務省公安第四課」と、白い歯を覗かせた。
さして広くもない艦長執務室の扉は閉ざされ薄明りの照明の下、二人きりの状態であった。
査察官殿は、不躾にも艦長に背を向けたまま、頭だけを廻らし
「思いのほか頭の切れる女のようだな」と、剣呑な顔付きを見せた。
「あんたらの初動態勢を見れば一目瞭然だったよ」ルナンもまた鷹を思わせる鋭い眼で応酬した。
『ルカン』がプラットホーム底部に備えられた頑丈な鋼鉄製架台へと船体を連結させて、舫を繋ぎ、船外気密扉を解放すると同時に真っ先に乗り込んで来たのは、物々しい武装警備隊であった。漆黒のプロテクターに短機関銃を装備した一団が船内通路を駆け、各区画にてクルーらを一気呵成に武力制圧せんと試みた。
だが、警備隊の面々はその場であっけに取られてしまった。クルー達はこぞって両手を上げて“抵抗はいたしません”の態で待ち構えていた。加えて持ち場の機器を全てオープンの状態で迎え入れたのだった。
苛烈な暴力による実力行使が叶わなくなった彼らは拍子抜けしたまま、各クルーから軍籍カードを受け取ると、あとは死闘の果てに鬼籍に入った人員の遺体収容と生還した乗組員の船外退去を看過する他に手はなかった。
これは全てルナン・クレールの事前通告による対処の為せる業であった。
「少しでも抵抗の兆しあらば、あなた、いや第四課付きエージェントの思う壺だったわけだ」と、ルナンが意味深で狡猾な面付きを見せると
「あの艦同様に有無を言わさず処断できる最後のチャンスだったが、それをふいにしてくれたな! 貴様は」と、プラチナ色の髪を七三分けにした、細身で背の高い有能な官僚然とした白人男性は、素早く机から降りるとグイっと憤懣に満ちた冷酷な面持ちをソバカス顔の艦長へと寄せた。
「我が僚艦の乗組員は皆殺しか?」
「ここでもそうなれば願ったり叶ったりだったがなぁ!」と、彼は机を平手で叩くとその顛末を語り始めた。
後年「ベーオウルフ事件」と称される案件の当初に、艦隊を離脱し寄港地の軌道要塞「ヴェルダン」に向かっていた、フリゲート艦『シュルクーフ』はその道程半ばにして臨検のために邂逅せんとした駆逐艦『アジャックス』の接弦を拒み、逃走を開始した。
故よりメインリアクターを損傷していたフリゲートが、格上で重武装の駆逐艦に敵うはずもなく、小規模な戦闘の後にほどなく拿捕された。
「『アジャックス』の突入隊が艦内を制圧した。その際に指示役の海賊に鼻薬を嗅がされ、武装蜂起した士官と下士官数名は射殺。艦長は責を負って自室で自害された」と、第四課の男はこめかみに青筋を立て、薄茶色のレイバン越しに錐のような鋭い視線を彼女に向ける。
それでもルナンは落ち着いた様子で何度か頭を振り
「自決ね……そういう事にしておこうか……」と、上目使いで応えそして更にこう問い質した。
「残りの乗組員とその指示役は?」
「駆逐艦に強制収容され、軌道要塞『ツーロン』へと回航中だよ」と、彼は不気味な笑みを浮かべたのだった。
『ツーロン』。ルナン・クレールが軍籍を置く自由フランス共和国内にあって、悪名高い囚人矯正施設ヴァスチーユを収める軌道要塞である。
その名を聞いたルナンは肩眉を吊り上げて
「穏やかじゃねぇな……。だが、衆人看視の中じゃその手法はもう使えんわなぁ?」と、さらに相手を嘲ろうする人を喰った薄笑いと共に見つめ返した。
「ああ! そうとも。貴様が艦長権限を盾に彼らを船外に解散させた時点で、『マルヌ』保安課の管轄に入った! 我々にはもはや手出しできんのだ」と、男は今にもルナンに掴みかからん勢いである。
「それは……ご愁傷様です。今頃は全員広々としたベッドでいびきをかいてるだろうさ。それとケイト・シャンブラー博士は?」
「もう『マルヌ』を発った。軍務省開発局のチャーター便でね。件のマシーンも一緒だ!」
「結構ですねぇ。VIP並みの扱いってわけだ。開発局主査サンデル少将も次期決戦兵器の有用性を認めざるを得なくなったわけだな」
「それもこれも貴様が、あの果たし状みたいな通信文を垂れ流しにしてくれたおかげだ!」と、彼は再びデスクを平手打ちにした。
その勢いで艦長帽がずり落ちそうになるのを彼女は手でそっと抑える。
「貴様の軽はずみな行動で上層部はマスコミ対応で大騒ぎになってる! 暗号を付帯すべき極秘案件に関する電文を連中が嗅ぎつけたんだ。これは重大な規定違反だぞ」
この詰問にだけルナンは申し訳なさそうに、おざなりに首を引っ込めて見せたが
「何分にも、小官にとって代理艦長の任は初めてでありまして。いささか配慮に欠けた点はございますな」と、いけしゃぁしゃぁな態度でおとぼけを決め込んだ。
男は大きく一つため息をつくと、身体を大きく反らせて腰に手を置き、ルナンを見下ろす位置にそっと移動した。
「……それで小官の身柄は?」この問いかけに彼は苦虫を嚙み潰したように
「貴官は第三者委員会と議会が主催する公聴会に出頭することになるだろうさ」と、吐き捨てさらに半歩下がって、ソフト帽をかぶり直した。
二人の間にはちょうど、人一人分ほどの空間が生じていた。
「いいでしょう。応じますとも。ですが……捜査の主導権をほぼ失ったあなた方は“冥府の王”と綽名されるキュヒナー長官にどう申し開きするつもりですかな?」
畏怖すべき上官の名を耳にした、白人男性は目ん玉をひん剥きながら
「ご心配には及ばんよ。まだ間に合うさ」と、言うや否やスーツの内側からベレッタ型拳銃を見事な所作で抜き、ピタリと黒光りを放つ銃口をルナンの顔へ向けたのだった。
「命令不服従と重要証拠の隠匿を図った罪状で処罰すればいい」と、査察官を名乗る公安第四課の刺客は冷笑を浮かべている。
「ふむ。それは困りましたね」と、ルナンは呟くと男から顔を背け、デスク上の封筒をまとめて郵便用通信袋に入れ、最後に万年筆をキャップに収めた。
「私を射殺した後の罪状はいくらでも筋書きがあるようですな」と、彼女は椅子の背もたれに身体を預け、両手を後頭部で組んだ。なおも余裕綽々で刺客を前に上半身をのけ反らせた。
「教えてやるよ。貴官は海賊との共同謀議を疑われ、前任ムーア少佐を展望艦橋にて爆殺したのさ。そして発信機の存在をひた隠しにして『ダ・カール』『モンテヴィエ』両艦の撃沈をも黙殺した」
「ほほう……なるほど。そうなりますか……」
この時、ルナンの制服の内ポケットに収められた携帯メディアがヴァイブ機能で二度だけ着信を告げた。
「『ベーオウルフ』撃退時は我が身の保身と潔白を証明するために本来の仲間を裏切った経緯で辻褄を合わせる寸法さ。面白いだろう? この話を冥土の土産にするがいいぜ」と、四課の刺客はしたり顔でゆっくり親指だけの動きで安全装置を外した。
「だとさ。アメリア」
この声が上がると同時に、閉じていた艦長室の自動ドアが開きアメリア・スナールが銃を構えて乗り込んで来た。
「狙いは?」と、ルナン。
「バッチリです。外しません艦長」
アメリアは右手に銃を。左手に携えていた携帯メディアで二人を被写体に収め画像を記録した。
「こちらも頂きました。どうする? 査察官とやら」アメリアは凶暴な目付きでスーツ男をねめつけた。
「アメリア・スナールだな? 一体どこに潜んでいた? 私の連れはどうした?」
「あらぁ~嫌ですわぁ。私が“スルタンのハーレム”でお召し替えの途中に、殿方がノック無しで乗り込んでくるんですもの」と、アメリアは艶っぽい標準語で答えながら、背中を自動ドアの反対側に預けタイトスカートから伸びる見事な美脚の片方を高く上げ、閉じようとするドアを押さえつけていた。
貴様に逃れる術は無いぞという示威行動であった。
なるほど今のアメリアの出で立ちは先刻の武骨な動甲冑グライアに代わり、白に近い薄水色の詰襟型制服にタイトスカートという尉官用典礼軍服姿であった。
ベージュのパンプスと白いパンストに包まれ、スカートから覗く差し上げた太腿も艶かしい。
アメリアは狙いをピタリと査察官殿のソフト帽に定め、涼し気な笑みを湛えながらも眼光だけは鋭くこう言った。
「お連れさんはなぁ、私に前歯折られてハーレムで転がってるぜ。撃つか? ルナン」
これにルナンは銃口を自分に向けつつ、歯軋りさせてアメリアを睨みつけるスーツの刺客に
「我らにも自衛権と艦内裁量権がある。此度の不祥事は四課に因があるのは、スナール中尉の画像を証拠として提出すれば充分説得力があると思うが……」と、囁いた。
「わかった! 今回は貴様の勝ちだ! ルナン・クレール」と、刺客は忌々し気に声を荒げ、空いた手を大きく開きアメリアに向けながら、ゆっくり銃を天井へと差し上げてから
「撃つなよ」と、言った。
「そのまま安全装置を掛けな。ゆっくりだぞ!」と、アメリアの訓告に男は銃のそれを掛け直してスーツの内側へと戻し、そのまま両手を肩の位置まで上げて降伏の意を表したのだった。
それでもなおアメリアは射撃姿勢を解こうとはしなかった。それどころか左手のメディアを上衣のポケットに収めて、その手を銃床に添えるスタンダードポジションで、男の頭部に的を絞ったまま
「このまま私と出ろ! クレール艦長もお召し替えだ」と、言った。
「そうだな。 レディのお色直しを邪魔しちゃ悪いな」男は両手を上げたまま執務室を後にしようと歩み始めた。そこへルナンが
「ここまで周到に私とアメリアをつけ狙った訳をお聞かせ願おうか?」と、声を上げた。
彼はアメリアの魅惑的な美脚の前でピタリと歩みを止めると、ルナンに背を向けたまま
「君とスナール、あんたらはあの女と接触し過ぎたんだよ」と、小刻みに身体を揺すらせた。笑っているのだ。
「あの女とはケイトの事か?」と、問い質すアメリア。脚を降ろしても、灰色狼の銃口はしっかり奴のこめかみ、数センチの所を押さえていた。
それを承知の上で公安第四課の男はせせら笑いながらもこう言った。
「そうだよ。ケイト・シャンブラーが提唱する新たな文明の担い手とやらに、我々を始め軍上層部は大いなる懸念を抱いている」
「……続けろ」これはルナン。
「先の『モビィディック』との戦闘で、次期決戦兵器としての有効性は実証された。だが、余計な物があり過ぎるんだよ」
「彼らの想像力と感情への共感力だな」
「話が早い。いいかい少佐。覇者は常に一人だけだ」
「覇者だと?」
「そうだよ。新たな文明と我々人類との共存なぞ誰一人望んではいない。彼らはあくまで覇者である人の被造物だ。人の管理から外れる事は許されない」
三人の間に暫し静寂が生じ、またルナンの方が口を開いた。
「いま『モビィディック』と言ったな。それが猟犬の国許での正式名称か?! 初耳だよ。どうやら君の親玉とブライトマン機関とはずい分と昵懇らしいな」
ここで初めて刺客は“チッ”と舌打ちをすると、手を上げたままでルナンへと振り返り
「知りすぎたんだよお前さんは。あんたらにその名前を公表されると我々も動きづらくなるんでね」と、それが至極当然のように言ったのだった。
「それが本音か。了解した。先の公聴会とやらでも私と彼女はその名を明かさない事をお約束しよう」
「確約できるのか?」
「アトランティア秘密機関の名を明かせば、それを探ろうとする記者さん達にも危害が及ぶからね。それ位の分別はあるつもりだよ。査察官殿」と、言うとルナンはゆっくりと立ち上がった。
第四課の男は、頭をドアの外へ向け一度大きく息をつくと
「いいでしょう。それで手を打つしかないようですな。少佐」と、答えてからアメリアに
「銃を降ろしてくれんかね。話は付いたんだ。もうじたばたせんよ」小首を傾げてほくそ笑む。
アメリアは黙したまま、サッと肘だけを曲げ銃口を天井に向けたが、獲物を狙う眼差しはそのままである。
「一つ聞かせてくれませんか? 少佐」彼は手を降ろし、襟元を正しながら船内通路へ顔を向けたまま語り始めた。
「手短に。私もお召し替えしたいんでね」
「なぜ、こうも抗いますかね? あなた方は士官だ。当初から我らの作戦を黙認してくれれば、それなりの恩典をご用意できたのですがね」
「乗組員の粛清に目を瞑って組織の面子を保てと言う事かな?」
査察官は“イエス”の代わりに「フフフッ」と、こともなげな様子で口元を歪め
「水兵の替えなぞいくらでも効くでしょうに」とも言ってみせた。
「『ルカン』の乗組員はもはや単なる部下ではない。全て私の戦友だ。彼ら全てをご家族の下に還すのが私の役儀だ」
「滅多にない破格の昇進を棒に振ってでも? いやはや」
男はレイバン越しに目を細めて、ルナンに向けて勝ち誇ったように哄笑する。だが、次に艦長ルナン・クレールの大音声に驚愕へと表情が一変した。
「勘違いするなよ! 私が星の海を往くは数多の声なき人々のため! 連邦国家の枠を越えた火星市民のために戦うと誓った私、ルナン・クレールは“もののふ”である!」
これまで、ルナンとアメリアを亡き者にせんとしていた刺客は小柄でソバカス面の女を呆けたように見つめていたが、ふとその場で目を落とし
「そんなバカげたお題目を……大真面目にさぁ……」と、またクスクス笑いながら呟き、こうも言った。
「まぁ、あんたの旗色は見届けた。これだけでも来た甲斐はあったかな?」
「それでは小官も『マルヌ』艦長へ出頭のために着替えるとする。失礼しますよ」ルナンの言葉を皮切りに、銃を構えたままのアメリアとスーツ男は艦長執務室を後にした。
閉じられた自動ドアの前に佇むアメリアと第四課の男。
口を開いたのは男の方だった。
「あんたも気苦労が多そうだな? え?! 忠犬スナール」アメリアはここで初めて銃を降ろし、彼から視線を逸らせぬまま腰のホルスターに銃を収めて
「どうだい? あいつはな私の“ツレ”で、殿様なのさ」と、誇らしげに胸を張って見せた。
男はこれまでの殺気が完全に失せリラックスした様子で、スラックスのポケットに両手を突っ込み背を船内通路の壁にもたれかけて誰に言う風でなくこう呟いた。
「あんたら二人、嫌いじゃないぜ」と。
そこへ、女子専用休憩室にて昏倒していたはずのダークグレースーツ姿のお連れさんが口をハンカチで押さえながら、駆けつけて来たが、査察官は黙ってそいつの尻を思いきり蹴り上げたのだった。
ほどなくして執務室のドアが開き、アメリアと同じ尉官用典礼服のルナン・クレールが姿を現した。
彼女は小脇に例の郵便袋を抱え、自動ドアの前で見事な回れ右を。
アメリアが無言でその袋を預かり、二人はそのまま背筋を伸ばし無人の執務室へと敬礼。
そのデスク中央には、ルナンが継承した前任ムーア艦長の艦長帽が正面向きで丁寧に置かれていた。
音もなく執務室が閉じられると、ルナンは慣れ親しんだ中尉の略帽を被り、第四課の男へ無言で己が手首の裏を合わせて突き出した。
カラシ色スーツの男はこれまでとは打って変わった柔和な笑みを浮かべ、
「ご同道いただけるなら、必要ありません。エスコートさせていただきます少佐殿」と、言うや踵を返してルナンとアメリアを先導し始めた。最後尾についたのはお連れの人。彼は平身低頭してアメリアから弔辞書簡を収めた郵便袋をあずかり後に続いた。
四人は黙したまま無人の船内通路を行く。そして、『ルカン』中央の船外気密扉からプラットホームへと降りる数段のタラップに差し掛かった時だった。
「ルナン・クレール艦長ぉー! 離艦!」と、聞き慣れた安井技術大尉の一際大きな声が静寂広がる『マルヌ』艦船収容デッキ内へと響き渡った。
タラップ上でルナン・クレールとアメリア・スナールが目にしたのは、これまで老朽フリゲート艦で共に戦い抜き勝利した戦友、乗組員たちの姿だった。
船体に孔が穿たれ擱座し、煤けて装甲破れ、勇ましい砲身をも焼き付かせ、もはや宙を駆ける事能わぬ『ルカン』。その前に各部署の士官を先頭に据えた横二列横隊で、艦を後にしたはずの全乗組員が二人を待ち構えていたのであった。
そして、後継艦長としての任務を果たし、生還に導いた彼女らを認めた輩は一斉に踵を打ち鳴らし、敬礼を贈った。
ルナンとアメリアは無言でその場で気を付けを取り敬礼を以て返礼。ゆっくり手を降ろし再び歩み始めると、士官を除く全員が即座に見事な所作で直立不動の姿勢を取り、
「ウラァ! ウラァ! ウラァァァー!」と、万歳三唱の鬨の声を上げたのだった。
次に技術大尉はまた立派な声量で
「総員、帽振れぇぇー!」の号令をかけた。
機関科安井技術大尉、整備部ヤンセン技術中尉、航法科ジュディママことジュディ・ベルトラン少尉、そして初老の古参サンダース砲術班長らが敬礼を贈り、その後ろで各部署で立派に務めを果たして来た乗組員らが手に手に略帽を頭上高く大きく振り上げていた。
さらに『ルカン』乗組員らが整列している正反対のプラットホーム上でも歓声が沸き上がった。横一列に居並ぶ民間、軍属、男女を問わない様々な作業着姿の人々が集まり二人を迎えてくれていた。
拍手を贈る者、敬礼をする者、クルーらと同じように帽子を高々と掲げる者など様々。
「よくやったぁー!」「お帰りなさい!」「奮戦天晴でした!」と銘々が声をかける。
歓声に沸く人々の間を、先導されたルナンは黙したまま、ただただ真っすぐ眦を上げ往く。両の碧き眼は猛禽が如くに研ぎ澄ませ、何者をも畏れぬ威風を漂わせつつ進んで行った。
『ルカン』乗員の列の端に、軍医に付き添われたジョナサン・クラーク少尉と天田二等兵曹が佇んでいるのをルナンは認めた。
クラークは顔と上半身を包帯で覆われ軍服を肩に掛け松葉杖でやっと立っている痛々しい姿。天田はそんな彼に寄り添い愛しい人を支えていた。
軍医は敬礼を。だが、それが適わない二人はそろって深々とお辞儀している。二人が顔を上げると天田の方は目に涙を湛えて感謝の笑みをルナンへと捧げた。
ルナンは、一度だけ凛とした表情から大きなタレ目を細めて朗らかな笑顔で小さく肯き二人へ応えて見せた。そしてまた雄々しく堂々と歩んで行ったのであった。
『マルヌ』の艦船収容デッキ通用口の先から燦燦と光が差し込んで来ていた。査察官らに先導される艦長ルナン・クレールと先任アメリア・スナールはその眩い逆光の中へ溶ける様にして姿を隠して行った。
それでも乗組員たちの帽振れと船員たちの上げる歓声が止むことは無かった。
いつまでも……いつまでも。




