我が愛しきアンナよ!
雑木林の中には、木々の間を縫うように阻止線テープが張り巡らされている。先頭には警察官、その後に母、そして自分が最後に藪の中歩を進める。
昨晩降った雨のせいでぬかるんでいる。記憶の中の季節は晩夏。
昼なお薄暗く、蒸し暑い上に草の生臭い匂いが鼻についた。顔に羽虫がまとわりつく。本来なら近寄りたくもないが、そうも言っていられなかった。
(イヤだ。嘘だ。人違いであってくれ)そんな気持ちが心を満たしていた。
警官が歩みを止め、母と自分に草むらに埋もれるようにして置いてあるグレーの死体袋を指差した。
既に私服警官と鑑識らしき人物が数名。彼らはこちらを認めると手招きする。私服警官がジッパーを少し開けて袋の中に収められている被害者の顔が判るようにした。
それはルナンの妹アンナだった。
アンナは二卵性双生児として生を受けた。姉は金髪で小柄、ソバカスが目立ち少年のような顔立ちをしているが、妹は容姿も雰囲気も一回り大人びている。背丈はルナンの頭一つ越えていた。
彼女はいつも茶色の髪をお下げに編み、たれ目がちで円らな瞳が特徴だ。美女というより可愛らしいという印象を受ける。
人当たりが良く、細かいことにも気を配れる良く出来たアンナを、近所では姉でルナンを弟と勘違いしている人もいるほどだった。
その妹の顔からは完全に血の気が失せて白い陶器のようだ。母はしばらく立ち尽くしていたが、そこへ私服警官の事務的で抑揚の無い声が。
「娘さんで間違いありませんか? ブッセルさん」
これがきっかけとなり、泣き声とも唸り声ともつかぬ叫びをあげた母。気が触れたように号泣し、娘の身体を袋から引っ張り出し抱きかかえた。
ルナンはここまでの淡い期待が裏切られ、最悪の予想が的中してしまっている事に、ただ呆然と袋の前で泣き崩れる母の背中を見つめていることしか出来なかった。
そこへまた鑑識らしき人物が近づいてきて
「一応、確認して欲しいんだけど。……悪いね」と、携行していたタブレット端末から、ルナンに一枚の画像を見せた。
そこには発見された時のアンナの遺体の画像が映し出されていた。うつ伏せ下半身を露出させたままで靴も無く、ソックスは片足のみ。上半身には白いブラウスがおざなりに掛けてあるだけの状態で草むらにうちすててあった。
愛する妹がこうなる前にどんな恥辱を受けたかは聞くまでも無い。
さらに不幸の上書きするように直接の死因も告げられた。過剰な薬物投与によるショック死との事。要するに妹をさらった連中は彼女を慰み者にする前、大人しくさせるためドラッグを脇の下、太ももといった血管が集中している部位に投与したらしい。
「わかったから! もう止めて」ルナンはそれを投げ返すようにして、母の後ろでしゃがみ込んでしまった。泣き叫ぶ母の背中越しに見える妹の顔。
アンナは母と瓜二つ。ルナンは多忙な母の笑顔をよく覚えてはいなかった。が、その分妹が事あるごとに笑いかけてくれていた。常に愛してくれていた。
そのかけがえのない妹は、今はもう何も言わない。それでも、彼女は妹がただ眠っているように見え、母の背後を回り込み、頬に手を伸ばそうとした時
「あたしのアンナに触るな!」と母が今まで聞いたことが無いくらいの大声を挙げ、姉ルナンの手を乱暴に跳ね除けた。
「母さん?!」あまりに突然の母の変貌ぶりに戸惑うルナン。
「お前、この子が連れて行かれるのを見たんだろう? その時何していた!」母は明らかな嫌悪と非難の色を湛える、血走った眼を向けて来た。
「だって、母さん。あの時オレは……」と言いかけた姉の言を母の辛辣な言葉が遮った。
「お前がこうなれば良かったんだ! ハンナァー!」と。
ルナンはこの言葉を思い起こし、時折り眠れぬ夜を過ごす事もあった。
雷に打たれたかのように、ルナンはその場で動けなくなった。さらに、母は彼女が忘れたいと願うかつての名前を繰り返す。
「あたしはアンナさえ無事なら良かったんだ! ハンナお前はいつだってあのクソ亭主と同じ顔で家の中で踏ん反り返ってばかり。胸くそ悪くってしかたなかった。あんたの顔が心底嫌いなんだよ!」
気がつけばルナンことアンナの姉ハンナは現場から少し離れた木の根っこに座り込んで泣いていた。
泣きじゃくり鼻をすすり上げて、涙で滲んだ目で周囲を見渡すと、今まで判らなかったが、そこかしこで自分たちと同じ境遇に苛まれて死体袋に縋って悲嘆にくれている被害者家族の姿が見て取れた。
ハンナの脳裏に銃を携えた集団がアンナと同僚の女性たちを兵員輸送トラックの荷台に物のように詰め込む様子が甦ってきた。
(奴ら妹を。アンナの友人まで殺しやがった! 傭兵くずれの海賊どもめ)
膝を抱え込んだまま拳を強く握り、こみ上げてくる怒りに身を震わせるハンナ。
「来ちゃダメェー! 兄ちゃん逃げてぇ」連れ去られる際に聞いたアンナの声がくり返し、くり返し彼女の胸を抉るのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
(そう、オレには家族なんてない。あの日以来、母とは縁を切った。親父……。思い出したくも無い! 奴は行方をくらましたままだ。どうでもいい!)と、現在はルナン・クレールとして生きているかつてハンナ・ブッセルと名乗っていた女性は記憶の奥から立ち戻り
(オレは構わない! 妹を見殺しにした人並みの幸せを得る価値のない人間なのだから。ただ他のクルーには帰りを待っている人がいる。オレのせいで累を及ぼす訳にはいかんのだ!)との思いを新にした。
「クレール艦長。艦長、大丈夫ですか?」
突然の声に思わず身を硬くさせるルナン。声の主は甲板長のクラーク少尉だった。
「何か? 問題ない」彼女はそっと液晶画面の電源を落とした。
「赤外線センサー、3D測位レーザーの修理完了。といっても現状では通常の六割程度です。船首区画の第三砲塔及び魚雷発射管二番、四番は封鎖。残りは使用可能です」
「了解した。ご苦労。あとは?」
「如何でしょうか? 『モンテヴィエ』との邂逅の件は……」
そこに航法士官ベルトラン准尉の声が割って入ってきた。
「艦長、可能であれば『モンテヴィエ』に曳航してもらう事も検討して戴きたいのです。メインエンジンがこのままですと自力による帰還が難しくなります」
『ダ・カール』の惨劇から既に三時間余りが経過していた。
ルナンは前に佇む二人の部下とは目を合わせようともせずに、発令所中央の吊下げ式大型モニターに表示されている『ルカン』と『モンテヴィエ』の位置関係を確認しながら
「旗艦との邂逅は無い。本艦はあくまで自力航行を目指す。これは艦隊司令シェーファー少佐の命令である」こう二人に告げた。声の抑揚を低く、極めて事務的に。
そのタイミングで旗艦からのルナン宛の通信が入ったとの報告が上がった。
「読め!」と、ルナンに命ぜられた通信士は部署から立ち上がり、発令所全体に響き渡るほどに声を張り上げ
「『本艦はこれより帰還軌道へ遷移。一次加速に入る。貴艦におかれては予ての指示通り、現状を維持せよ』であります」と告げる。
その途端に、発令所に詰めるクルーの間からどよめきが湧き上がった。ルナンの前に控えている二人の士官も怪訝な表情を顕わにしている。
「置き去りかよぉ!」と不満と苛立ちを込めた声がふいに上がると、場の空気が張り詰め沈黙が支配した。
「任務中である。発言は慎め!」とルナンはその沈黙の帳を薙ぎ払うかのように一喝した後
「現宙域は通信状態が芳しくない。ゆえに一旦、ここを離れるだけだ。二日もすれば救援の艦隊が来る手はずになっている。見捨てられたわけではない」と、今度は声を柔らかく、高圧的な物言いから努めて明るく宥めるように諭した。
未だ何か言いたげな二人の士官を、艦長は目だけで部署に戻るように促した。ベルトランは寡黙に辞去するものの、クラークが去り際に目ざとく舌打ちしたのを見て取ったが、咎めようとはしなかった。
次に液晶モニターを『ルカン』が漂流している宙域から『モンテヴィエ』の映像に切り替えさせた。拡大映像で映し出されている僚艦はゆっくりと船体を一八〇度回頭。三角形状に配置された船尾部をこちらに向ける形となった。
一同が見つめる中、三つのオレンジの光彩が各噴射孔から迸りはじめた。一次加速が開始されたのだ。彼女が、ほぼ反射的にその映像に向けて艦長席に座ったまま敬礼を送ろうとした時だった。
青白い破壊の閃光が走った。
それは『ダ・カール』を屠った時と同じように旗艦のエンジン部を貫通。そして次なる碧き死の宣告は船体中央部を真っ二つに粉砕。
前半分はすぐさま閃光の火球と化し、残った機関部は制御を失いあらぬ方向に暴走。それも数秒後には爆裂四散して虚空に溶けた。
ルナン・クレール艦長は敬礼をやり掛けた手を下ろせぬまま、その場で体躯を強張らせるのみとなった。




