火星統合暦〇〇八四 リューリック事件
『リューリック事件』とは、あの『百家の災厄』が猛威を奮ったちょうど百年後、西暦で二一八四年。火星統合暦〇〇八四年に二つの惑星世界を揺るがした大事件として永らく記憶されているものだった。
これは、事件が起きる一〇年ほど前から政治運動家であるセオドア・ヴァン・リューリックなる人物が提唱した『地球回帰運動』なるムーブメントに端を発する。
リューリックは神聖ローマ連盟の首府城『イル・ド・フランス』と精神的な拠り所として隠然とした勢力を顕示しつづけている教皇庁のある『セント・ロマーナ』の二大軌道要塞を中心に自らの信条に基づく政治運動を展開していた。
セオドア・ヴァン・リューリック。彼を知る人物は一様に、この人物の印象を”黒い縮れ毛の癇癪玉”と評した。
背は低い。が、体躯は豪壮、常に早歩きで四角い顔に四角いメガネ。黒く縮れた頭髪を掻きむしっては口角泡を飛ばし、舌鋒鋭く相手を論破する様を癇癪玉と周囲は見立てた。
その主張の骨子はこれまで移住事業を推し進めてきた地球側宗主国陣による一方的な地球への渡航禁止令。
並びに惑星間航行とゲノムフリーズの技術供与を拒否してきた事に対する抗議運動を興し、火星人民が自由に惑星間の移動と生存の権利を獲得しようと言うものであったのだ。
碧い星の頑なな態度に疑問を持つ、赤い星の人々の間では当然の如く彼が提唱する『地球回帰運動』は確実に支持を集めていった。
やがて、彼の存在は一介の政治運動家という立場を越え、その運動を強固に実現しようとする狂信者団体の教祖的立場に押し上げられる結果を生み出した。
リューリックは再三の抗議活動に進展が見られず宗主国の顔色ばかり気にしている各連邦政府首脳陣と自分の支持者に向ってこう宣言した。
「よろしい! もう議論は尽くした。実際的な行動に移る段階となった! 地球が我々の要求する、惑星間渡航ノウハウをあくまで拒むならば我々は今ある技術を持ってして宇宙を押し渡ってみせようではないか! 我々には軌道要塞がある。約一年に及ぶ旅路を自給自足で補いつつ母なる惑星を目指そうではないか!」
この宣言を受けた各国要人、有識者また常識的な一般人の大多数は彼の言動を鼻白み、埒もないと無視する傾向が多かったが、一部熱狂的な支持者、団体も確実に存在したのもぬぐえない事実ではある。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「何て言いましたっけ? リューリックの信者って言ったほうが適切かな。その連中三千人も乗っけて地球に向った軌道要塞は?」と、坂崎はレーダー用モニターに気を配りながら首を傾げている。
「『夢の苑』だよ。我が国の軌道要塞『スゴン・セダン』向け農業資源用小型衛星基地だった。と言っても直径三キロメートル、長さ六キロメートルに到る立派なものさ。〇〇八二年にリューリック一派は武装化してこれを占拠。住民一万人を人質にした」
「無茶しますねぇ~」坂崎の半笑いがルナンの耳朶に届くと艦長は更に
「奴らは人質解放の条件として、地球に向う加速度を得るために軌道要塞の曳航を要求。そしてリューリックを崇めるテロリスト集団は人質解放の後にとうとう火星空域を出奔してしまった」と、忌々しげに自分の記憶を披露した。
ルナンは艦長が珍しく饒舌で、表情も柔和になっている事に訝りながら
「……以前そこに住んでおられたのですか?」こう尋ねてみた。
「その時分私は巡洋艦『リヴェルテ』の主計士官。いやぁ壮観だったね。軌道要塞そのものを火星の引力圏を脱する加速を得るまで延々と大型タンカーやら、それこそ艦隊総出で曳航したものさ。バカ騒ぎだよ」こう言いつつ艦長はさらに付け加えた。
「武装化にしたって装備はどうやって手に入れた? 確かにリューリック信奉者の中には軍関係者だっていただろうがね。手口が玄人はだしで当時からおかしいって声はあった。でも誰も深く追求しようとはしなかった」
「最終的に『夢の苑』で火星を旅立った面々は一般市民ばかりだったって話ですよね」と、坂崎。
「そう! いつの間にか襲撃の実働チームは姿を消していた……」
艦長は事件の未だ究明されていない謎に関して巷に溢れる陰謀説を始めとする諸説をまるでニュース解説員のように二人の若者に披露して見せ、二人もしばし聞き入っていた。
「あれだけの騒ぎを起こしておきながら、結局彼らは生きて地球には辿り着けなかったとはとんだ顛末ですね」と、ルナンが艦長の言を受けて事件の終着点を口の端に乗せた。
「全滅の原因は、いろいろ憶測されたなぁ。派閥抗争説に集団自殺説。その中で最も有力なのが、あの中で『本土病』が猛威を振るったのではないかと言うものだったな。もう確かめようがないが」艦長はまた、無精髭を右手の甲で擦り始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
制御を失い惑星間航行速度を維持しつつ、天文学的数値に達した危険極まりない質量を有した『夢の苑』は、地球西暦二一八四年、約二年に及ぶ旅路を終えた。三千人の亡骸と共に巨大な隕石と化したそれは地球ではなく月に衝突した。
地球の人々は直接的な被害を免れたと安堵したが事態は思わぬ方向へ。
火星からの脅威は月の表層深さ一五〇〇メートル、長さ三〇〇キロメートルの深い溝を抉るようにして激突。月の冷たい大地に核爆弾数万倍に匹敵する破壊的なエネルギーをまき散らしてしまった。
その様子は、夜空に浮かぶ月が突如太陽のように輝き、ほんの数分だったが地球の夜側を完全な昼に変えてしまった。
月全体を、この天体が冷え固まってから初の大地震が襲い、衝突の余波で膨大な土砂と巨大な岩石の礫が火山のように吹き上がり、地球―月間の軌道上にばら撒かれた。
それらは単なる土くれではない。礫の全てが秒速一〇キロメートル以上の軌道速度を有したエネルギー体であり、言わばショットガンの弾のような物。
無秩序かつ破壊的な飛礫群はまさに天と大地を覆いつくす蝗の如くに地球へと襲い掛かったのだった。
大津波をも凌駕する勢いと規模を持って、人類がこれまで営々と築き上げてきた五基の宇宙ステーションと地球上の赤道部に建設されていた、火星移住向け船団の発進基地を担う三基の軌道エレヴェーターの全てに押し寄せて薙ぎ払い、破壊し尽くしてしまった。
この日まで穏やかであった地球と月の軌道空間は一夜にして“荒れた内海”へと様相を変貌させた。
加えて性質が悪いのは破壊されたそれらの残骸が、新たなデブリ”二次デブリ”として加わり、”ケスラーシンドローム”に更なる拍車をかけた事が事態を深刻化させていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「その所為で地球は今や、ガガーリン時代以前に逆戻りって訳ですよねぇ。ネットもGPSも失われているんだろうから恐ろしい」と坂崎がルナンのすぐ前の席で、肩をすくめている。
今度は坂崎のほうから、問題の後輩が熱心に収集していた画像の一枚をモニター上にアップして
「見てくださいよ”竜”が走っているよ! 不気味だなぁ」と指し示した。
そこには、母なる惑星の周囲を覆う霞の中に数条の青白い雷光が閃いている様子が捉えられていた。
見ようによってはそれらが濁雲の中を縦横無尽に飛び回る竜を連想させるに充分であった。
この画像を垣間見たムーア艦長が今回もまたも親切に
「ストーム内の漂流物質の密度の濃い所で金属同士がこすれ合い、衝突を繰り返した事による帯電現象だな。イオン化したエネルギーの奔流だ。大きいものでトレーラーサイズから、小さくてボルトの類に到るものが、やたらと攪拌していやがる。これがもう二〇年だ」と、二人の若者に解説してくれている。
「本当にあと何年続くのでしょう?」ルナンは問う。
「何らかの人為的な解決策を見出さない限り数百年では収まらん。しばらくお隣さんとは疎遠のままだな。……いい機会だ。貴官らに尋ねてみたい」
ムーア少佐は先程の厳しい表情に変わりこう言った。
「地球がこのまま黙っていると思うかね?」
これに坂崎とルナンは顔を見合わせたが、ルナンの方が
「我々の知らぬ所で彼らは反抗の機会を伺っているはずと、小官は考えます」と、答えた。
「貴官もそう感じるか? だからさっき私は聞いたのだよ。ジョンスンの観察の意図をな」
「二人ともよく聞け。このリューリック事件は我々にしてみれば、一部の狂信者団体の暴挙、不幸な事故であるとの認識しかない。しかし、地球側は完全に『火星からの先制攻撃』と見ているに相違ない」
艦長はルナンへ視線を向けると
「彼らにして見ればこの事件は火星からの”パールハーバー”だという事を忘れるなよ」
艦長の忠告に耳を傾けながらルナンは
「『地球からの総攻撃』があるという事ですか?」と問う。
「いずれはな。三年後なのか、二〇年後さらにその先になるかは分からん。だが必ず彼らは来る! 貴官ならどう迎え撃つ?」と艦長はここで一旦口を閉じて、部下の女性士官の顔をしばし見つめてから相好を崩してみせた。