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聖女のヒモ

作者: 織部良 絆人


 シャロンガーデンと呼ばれるその国は、愛を司る女神を奉る小国だった。

 その興りは侍女と駆け落ちした王子を寵愛した女神の手によるもの、愛を知らぬまま打ち捨てられた少年に与えられた楽園が国になった、などと定かではないが、その点は然程問題視されていない。

 国外の人々にとって重要なのは、神殿に赴いてシャロンの力を与えられた“聖女”に頼めば、自分と他者の愛がどれほどのものか、目視で理解できるということだった。

 円満を喧伝している王家でも、一途な素振りをする令嬢でも、胸の内に秘めた心を白日の下に晒されるかもしれないのだ。今でこそ望んだものにしか力は行使されないが、女神の気が変わればその“制限”がなくなるとも限らない。

 外聞を気にする者や国ほど、この女神の権能を恐れる。

 故に、小国でありながらこの国は長らく平和だった。



「愛の女神シャロン様の名の下に、この者達の愛を赤き縁へ」


 おごそかな雰囲気の聖堂に凛とした聖女の声が響く。

 聖女はまだ年若い娘だった。

 肩の上で切り揃えられた髪は黒く、その瞳も同様に黒い。この国では珍しくない外見より、朗々と響く優しい声の方が印象深いような少女だ。

 その前には、若い男女が手を組んで、真剣な様子で目を閉じ祈っている。

 二人は結婚したばかりの夫婦だった。


「彼らの愛が真なれば、その形を示し給え」


 聖女の手が複雑な印を結ぶと、光が放たれる。

 その光が止むと、並んで跪いた二人の小指に、しっかりと絡んだ帯のような赤い糸が現れていた。


「お二人とも、もう目を開けても大丈夫ですよ」


 聖女が優しく声をかけると、二人はおそるおそると言った様子で自分達の小指を見て、それからわあっと歓声をあげた。


「やった! 本当に赤い糸だ!」

「糸なんてもんじゃないわ! リボンよリボン! 可愛くて素敵!」


 神聖な場所で子どものようにはしゃぐ二人を見かねたのか、端に立っていた老神官がコホンと咳払いをする。

 それだけで気づけたらしく、二人は、あ、と小さく声を出して「すいません」と口を揃えて謝罪する。似た者夫婦らしい。

 微笑ましく思ったのか、聖女もかすかに声を出して笑った。

 そこに神官が進み出てくる。


「では、シャロン様が認めし真の愛で結ばれた夫婦の証として、後ほど聖印石をお渡ししよう。縁が形を失うまで待ちなされ。繋がったままでは危ないですからな」

「え、これ、外で見せびらかしたらいけないの?」


 妻の方が残念そうに言うが、神官は首を振った。


「赤き縁は形こそ我らの知る繊維のそれですが、まぎれもなく神の御業による繋がり。刃でも炎でも切ることはかないませぬ。絡まったり引っ掛けたりすれば指の方がなくなることもあるのですぞ」

「やめておこうぜ。俺はお前とこんなに強く結ばれてると分かっただけで十分だ」


 夫がそう言えば、妻は唇を尖らせたものの頷く。

 老神官が安心したように下がると、女が進み出て糸で繋がった二人の手を取った。


「シャロン様のご加護によって、お二人の愛が末永く続きますように」


 それは、聖女直々の祝福の言葉だ。


「ありがとうございます! 聖女ローバラ様!」

「わたくしはシャロン様の指先に過ぎません。その感謝は、どうぞ祈りとしてシャロン様へ」



 夫婦が何度も礼を言いながら帰っていった後、休憩用の部屋で世話役としてつけられているシスターに淹れてもらった紅茶を飲みながら、ローバラは一息ついた。


「今日も愛の儀式を受けたいと来る方がたくさんね」

「世界は広く人に手を差し伸べる神は数多しと言えど、愛を証明してくださるのは女神シャロン様だけ。特に今は、そのシャロン様に選ばれた聖女ローバラ様がいるのですから当然でございましょう」


 分かりやすいおべっかには無反応で、ローバラは首を傾げた。


「最近は、獣人の方が多いのよね。ちょっと前までは全然見なかったのに」

「獣人の国は今建国神が不在なので、外国の神に愛を誓うのが流行しているそうですよ」

「神が不在? それなのに平民が外国まで来る余裕があるの?」

()の国の民は九割が獣人と聞いております。彼らは武勇を誇るばん――種族。私達と違って魔物が攻めてこようと、作物が実らずとも、困らないのでしょう」

「そう。あの方達は、そんなに強いのね」


 ローバラの常識では、人間は神の庇護下になければ生きていけない。

 それは彼女に限った話ではなくシャロンガーデンの民、更にはその外にある諸外国や、国として認識されていない未開の地に住まう少数民族さえそうである。

 誰も彼もがなにかしら神と奉られる上位存在の加護を受けており、国家の運営も恩寵を賜った王族や神殿が行うのが普通だった。


 ローバラはそこまで考えて、不意に眉をひそめる。

 シスターはなにか聖女の不興を買ったかと冷や汗をかいたが、それは杞憂だった。


「あの人は無事かしら」


 ローバラはティーカップを置き窓の外を見た。

 そこから見えるのは国の名にちなんで作られた女神の為の庭園で、見上げれば晴れ渡る青空があるのだが、彼女の顔は物憂げに曇って遠くを見ている。


「あの人、とは」

「分かっているでしょう? ラークスよ」

「ラークス……ああ……」


 それまでローバラの顔色を伺っていたシスターが、思わずといった様子で顔をしかめた。

 彼女にとって、その名前は尊敬に値しない――むしろ侮蔑すべき人物の名前だった。


「……あなたでもそんな顔するのね」


 ローバラの驚いたような指摘に、シスターは、あ、顔を青ざめさせる。

 だが、自分のご機嫌取りに一生懸命だった女の隠された顔を見ても、ローバラは気分を害した様子もなく微笑んだ。


「そんなに怖がらなくていいのよ。わたくしはあくまでシャロン様の指先だもの。シャロン様の権能をお預かりする任を持つだけで、寵愛されているわけでも、重要視されているわけでもないの。シャロン様は指先が罵られようと気にしないわ」


 怯えた子どもをなだめるような優しい声だ。


「色んな人が言うわ。娼婦から産まれた下賤な女。無教養を笑顔で誤魔化す木偶(でく)人形。微笑み以外を知らない聖女……他にもあったかしら」


 全て、ローバラが実際に聞いた陰口だった。

 シャロンガーデンを奉じる教会の中でも、聖堂で働くものは通常高い素養を持ち、また勉学や作法にも通じたものでなければならない。そのためには時間と金がかかり、高位神官ともなればさらなる努力や時間を要求されるのが常だ。

 それを父親も分からぬ孤児だった当時十歳のローバラが聖女として選ばれ、高位神官と同じ身分として働き、人々の尊敬を集めているのである。

 妬みやっかみを買うのは当然と言えたが、それを十五歳の娘が淡々と語るさまは異様だった。 


「あなたは貴族の出なのでしょう? 王家の侍女としてならともかく、神殿に取り立てられただけのわたくしの世話係なんて腹立たしいと思ったかもしれない。本当にいやだったら、角が立たないように辞めさせてもらえるようにするわ。――でもね」


 優しい印象を与える目が、鋭さを帯びた。


「ラークスを蔑んだり貶めたりするのだけはだめよ。それだけはだめ。許せないわ」


 自分はあくまで権限を持たない神のしもべであると言いながら、まるで脅迫でもしているかのような語調の変化に、シスターは困惑した。

 しかしローバラは反論がないからよしとしたのか、人前に出ない時の子どもらしい雰囲気に戻った。


「ラークスは旅が好きだけれど、本人には戦う力なんかちっともないのよ。それなのにどうやって旅なんかしてるのって聞いたら、隊商とか傭兵団とか、そういう人達の仲間にいれてもらうんですって。すごいわよね。見知らぬ人達の仲間に入れてもらえるなんて」


 ローバラは楽しそうにそんな説明をする。

 その口振りは恋する少女そのもので、聖女として人々の前に出ている時の彼女よりよほど人間らしい顔をしている。

 だからついつい、シスターは疑問が口に出た。


「あのような根無し草の、なにをそんなに気に入っていらっしゃるのですか」


 ローバラは話すのをとめた。

 沈黙が落ちる。

 口に出してしまってから、シスターは自分のしてしまった行いを省みて息を詰まらせた。

 彼女は実家である子爵の令嬢であった頃、その失言のために神殿に追いやられた背景があった。

 気をつけなければと思った矢先に、蔑むなと言われた言葉の余韻も消えぬ内に、そんな言葉を口にしてしまったのである。

 ローバラ本人は自分に力などないように言っていたが、嫉妬する者と同程度に、民の前に立って神の権能を行使する聖女におもねろうという上位神官はいるし、逆に純粋に尊敬している者達だっている。

 彼女が一つ不満を口にすれば、たかだか貴族家出身でしかない自分など、たちまち追い出されるか、もっとひどい目に合わされるだろう。


 しかし、彼女の緊張はノックに破られた。


「聖女ローバラ、客人です」


 男性神官の声だった。

 シスターを映した黒い瞳が扉の方を向く。


「まあ。お約束はしていたかしら」


 ローバラは首を傾げる。

 次の儀式の予定まではまだ間があるし、それらは参拝者であって、神殿の者は客とは呼ばない。


「それがその……ラークス……殿でして」


 少し苦々しさを感じる返答だったが、ローバラは顔を輝かせた。


「まあ……まあ! すぐに行くから待っていてと伝えて!」

「……ですが、聖女ローバラ。まだ儀式の予定は残っております」

「それまでには必ず戻ります。彼が行ってしまう前に早く伝えてください!」

「……かしこまりました」


 扉から気配が遠ざかるより先に、ローバラは服を脱ぎ始めた。

 儀式装束を汚さないための上衣、儀式のための絹装束、と、大事な正装をまるで平民が眠る前のように脱ぎ捨てる。

 シスターは慌てて窓のカーテンを閉め、床に投げられた衣を拾いあげてしわにならないようにする。

 そうしている間に、ローバラは身支度を終わらせてしまっていた。

 平民の娘が普段着にする、裾の長いワンピースだ。

 短くなった髪はわざわざ結う必要もない。

 儀式のためのきらびやかな化粧がややちぐはぐに見えたが、再び施すのは大変なのでそのままに。


「じゃあ私、行ってくるわね!」

「は、はあ……いってらっしゃいませ」


 あまりの勢いに、シスターはそう返すしかない。

 聖女も外出は許されているし、その場合は必ず供がつくが、それは彼女ではない。

 なら見送るしかない。


 が、出ていきかけて、ローバラは振り返った。


「そうそう」

「え?」

「紅茶、明日も淹れてくれたら嬉しいわ」


 そのまま返事も聞かずに出ていく。

 シスターはぽかんとしつつも、彼女が怒っていないことが分かって安心し、自分の役割として残されたティーカップを片付けた。



 物々しい武装の護衛騎士を連れたローバラが向かった先は、聖堂の裏門だった。


「ラークス!」


 その声に、壁にもたれていた男が顔をあげた。

 顔の片側で緩く結われたプラチナブロンドの髪、空を映した水面のような青い瞳。二十歳という実年齢より若く見える風貌。身につけているものこそ平民の旅装だが、黙って微笑むだけで気品を感じさせるその佇まいは、目の肥えた貴族の令嬢すら一目で篭絡してしまいそうな魅力を放っている。

 彼は吟遊詩人だった。

 様々な国をめぐり、歌や外国の面白おかしい話を披露することで生計を立てている流れの芸人だ。


「やあローバラ、久しぶり。元気そうでよかった」


 形のよい唇から紡がれる柔らかな声とともに、彼は自然な仕草で跪き、その手に口付ける。

 ローバラは後ろから睨みつける無粋な護衛神官を無視して、その挨拶を嬉しそうに受けた。


「こんなに早く帰ってくるって思ってなかったの。知っていたらきちんと招待の用意をしたのに」

「僕もこんなに早く戻れると思わなかったんだ。偶然シャロンガーデン行きの隊商に出会ってね。荷物と一緒に乗せてもらえた」

「今日は忙しいから時間もないのよ。お化粧だって落とせないの」

「それでも僕のために時間を割いてくれたんだろう? 聖女の顔のまま昔みたいな格好で現れるローバラも魅力的だよ」

「もう、心にもないこと言って――ねえ、今度はどんな国へ行ったの?」

「色々だよ。風の神がおわす風車の国、ヤギと馬を追って走る草原の国、鋼を打つ音が夜もやまない武神を奉ずる国――」


 説明しながら、ラークスは旅装のマントを外し、手近な

木陰に敷く。そこに自分の背負っていた荷物で席を作りローバラを促せば、彼女は当然のようにそこにちょこんと座る。


「あ、そうだ。これ今泊まってる宿の女将さんにもらったんだけど、美味しいんだ。ローバラも食べなよ」

「まあ、ありがとう」


 色紙で包まれリボンをかけられた開封済みのクッキーを、ローバラは平然と受け取って食べる。


「美味しいわ」

「ね。ナッツがいっぱい入っていて贅沢だし」

「その女将さんはお菓子作りが上手なのね」

「あ、こっちの焼き菓子も食べていいよ。酒場の娘がくれたんだけど、僕にはちょっと甘すぎて」

「ありがとう、ラークス」


 しばらく、そんな風にお菓子を食べながら喋った後、ラークスは手に持ったリュートを一つ鳴らして歌った。


「"風の民は笛を吹く。人の声は神のそれに比べればか細く貧相で、とても届きはしないからだ"」


 二人の後ろで武装した護衛神官の一人が動こうとして、もう一人に止められた。

 動こうとした方は、なぜだと言わんばかりに相手を見た。

 彼らが仕える女神シャロンは人の声を聞き入れる神であり、人の声をか細いなどとは言わない。明らかに別の神の国の歌である。


 ――それをよりによってシャロン様の膝下である大聖堂で歌うなど!


 彼を動かしたのは神官としての義務感ばかりではない。

 先程からラークスが聖女に渡していた菓子は、明らかにラークスへのためだけに作られ、ラークスを想って贈られたものだ。そのようなものを食べかけにして、あまつ別の女性に食べさせるなど、彼の常識や良識からすれば許しがたいことだった。

 だが、止めた方は冷静に彼を押えつけ、甲冑越しにしか聞こえないように囁いた。


「お前はまだ新入りだったな。シャロン様は、自らの指先が異教の歌を楽しむことを禁じてはいない」

「!?」


 見てみれば、歌を歌うラークスという男も、それを嬉しそうに聞く聖女ローバラにも、なにも起こらない。

 女神シャロンの言い伝えには、神の意に沿わぬ者には神罰がくだり、神の手によって縛り首にされるとあった。


「それに十分に知っているはずだが、シャロン様は愛ある贈り物を寿ぐことはしても、それを相手がどうするかまでは頓着しない」

「――なぜです。我らの女神はなぜそのようなことをお許しになる」

「分からぬが、よいと神託があった。それが全てだ」

「あのような軽薄な根無し草をなぜ――」

「女神様の御意思だ。我らはそれに忠実であらねばならぬ」


 ひそひそと話す騎士達を尻目に男は様々な歌を歌い、聖女は時に質問し、時には一緒に歌い、終いにはよその神をあがめる言葉を歌に合わせて唱えた。

 それは、老神官が儀式の準備をするよう言いに来るまで続いた。


「……もうおしまいなんて残念だわ」

「僕もとても名残惜しいよ」


 まるで恋人にそうするように、ラークスは自分の肩ほどの大きさしかないローバラを抱き寄せる。

 ローバラも同じようにラークスを抱きしめ、それからゆっくりと離れた。


「すぐには旅立たないでしょ? 新しい歌をたくさん覚えてきたんだもの。しばらくはシャロンガーデンにいるわよね?」


 すがりつくような眼差しでローバラが問う。

 しかしラークスは首を横に振った。


「実はそうもいかないんだ。前々から行きたいって言ってた東の国を覚えてる?」

「龍神が納める運河の国?」

「そう。あそこに向かう商船があるんだ。それに乗せてもらえることになった。一週間後には出発する。あちこちに挨拶をしなきゃいけないし、長い旅になるから、準備も必要だ」


 真剣な顔で言われれば、ローバラに彼を止めることなどできない。


「そう……また寂しくなるわね」

「大丈夫。半年で一度戻る予定と聞いている。商人はその辺りきっちりしてるから、今度みたいに早まることはないよ」

「でも長いわ」

「半年後は君の誕生月だろう? 向こうの国のお土産を持って帰るよ。その時こそはゆっくり話そう。――あ、いけないいけない。君との一時が楽しくて渡しそびれてしまうところだった」


 ラークスはポケットの中から、小さな包みを取り出した。

 きれいとは言い難い布袋に、やや色褪せたように見える飾り紐がかけられている。

 先程出された菓子の数々に比べればゴミと言って差し支えのない代物だ。


「旅路の最中(さなか)にみすぼらしくなってしまったけど、プレゼントだよ」

「わあ! 開けてもいい?」

「もちろん」


 袋を開けると、中に入っていたのはボロ布に包まれた木の指輪と木彫りの小鳥だった。

 どちらも色付けもされていない木そのものの色をしているが、特殊な加工が施されているのか、指輪の方はまるで磨いた琥珀のような光沢を持っている。彫刻の出来は素晴らしく、木彫りの小鳥は広げた翼の羽の一枚までが細やかに形作られ、今にも飛び立ちそうだ。


「素敵! ありがとう!」

「喜んでもらえてよかった」

「大事にするわ!」


 贈り物を抱きしめ、声をあげてはしゃぐローバラを、咳払いが現実に引き戻した。

 老神官の催促だ。

 ラークスは笑って肩をすくめると、ローバラが座っていた荷物を拾い、敷いていた衣を軽く払って元通り着直した。


「じゃあ行くよ。また会える日を楽しみにしているよ」

「その前に、これを持って行って」


 今度はローバラが袋を取り出す。

 ラークスの手に乗せられた袋は重く、じゃらりと特有の音がした。


「これ、お金かい?」

「長旅をするなら必要でしょう? 持って行って」

「……ありがとう。助かるよ」


 ラークスは一瞬ためらって見せたものの、礼を言って懐にすぐにしまいこんだ。


「無事に帰ってきて、また色んな事を聞かせてね。あなたの旅路に加護がありますように」

「わかったよ。ローバラ」

「また来てね、ラークス」


 裏門から出ていったラークスを、ローバラが見送ることは叶わない。

 次の儀式の支度のために、半ば引っ張られるようにして聖堂の中へ戻っていった。



 ラークスからもらった小鳥を私室の窓辺に置き、指輪をはめるようになって数日後。

 ローバラは高位神官の一人に呼び出された。

 人払いのされた部屋は、奇妙なほどに静かだった。


「なにか御用でしょうか、デルフィ様」

「聖女ローバラ。なぜラークスと話しているの」

「え?」


 挨拶もなしにそんな風に言われて、ローバラは思わず相手の顔を見た。

 若くして高位神官となった有能な女性であるデルフィ·ニウリスカ。

 生家は裕福な商家であり、金で地位を買っただとか、年嵩の神官を篭絡したのだとか、口さがない噂が立つほどの色香を放つ美女であった。


「なぜ? それにその指輪をしているのも、気にいらないわ」


 返事をしないローバラにいらだったのか、彼女は更に言葉を重ねた。怒りでも美貌が歪むことはなく、むしろ女神の化身に叱られているように錯覚しかねない迫力だ。

 並みの人間なら平伏しそうな勢いだったが、ローバラはいつも通り静かに答えた。


「わたくしは、彼とは幼馴染なのです。それで彼が気にかけてくれるのです。この指輪も、ただのお土産ですわ」

「ただの幼馴染が肩を抱いたり抱きしめたりするかしら」


 指摘されて、ローバラは肩をすくめた。

 今までにも彼とそういう接触はあった。未婚の女性がするには褒められたことではないという認識もあった。

 だが、それでも彼女は口を開く。


「彼はこの国の民であり、吟遊詩人です。どんな女性に対してもあのようにします。他意はありません。わたくしは……それを受け入れているだけです」


 吟遊詩人は基本流れものであり、芸を披露するだけでは食べていけないこともあれば、安全に旅ができないこともある。そういう時、彼らが売り物にするのは自分の"顔"だった。

 一夜のロマンス、一時の恋人。そういう関係になれば、不自由のない食事や温かい寝床にありつける。

 ラークスがそういう生き方をしていて、そういう振る舞いが身についているとローバラは知っていた。


 この国で殺人事件に巻きこまれて孤児院に入るまで、自分の母親と言えるような年齢の女性の愛妾として生きていた彼は、穏やかな日常を手に入れ真っ当な生活を経験した後も、女性の心につけこむ生き方をやめなかった。

 彼にとってはそれが簡単で、そんな風に生きていくのになんのためらいもなかったのだ。

 むしろ顔と歌以外に取り柄もないのにそれで生きていけるのだから、天性の才能があると言ってもよいかもしれない。


「相手がどんな人物であっても、聖女がどんな気持ちを持っていても、シャロン様は否定なさらないはずです」


 女神シャロンは愛を司る神だが、その“愛”の許容範囲はかなり広い。

 種族、性別、身分はおろか、人数や立場に制限などなく、妻がいる男が恋人を作るのも、妻が夫を二人持つことも、結婚している別々の男女が愛を育むことも、神の御名においては許されていた。女神が聖女として召し上げた者の記録には、一度に百人の恋人を侍らせた絶世の美女の名が残っている。

 

 ――咲く花のように愛を示せ。


 ――花は咲き乱れるからこそ美しい。


 世界で最も知られている女神シャロンの言葉だ。

 今でこそ国としての治安を保つために法律である程度の規制はされたものの、こと恋愛に関してシャロンガーデンより自由な国はないだろう。


 だから少しべたべたしたくらい問題ないはずだ、と、ローバラは主張したのだ。


 だが、デルフィは黙らなかった。


「もう会うのはやめなさい」


 その口から出たのは、明確な命令だった。


「なぜです」

「彼の隣にあなたは不似合だからよ」

「それは――そう思いますが」


 身分は関係ないが、凡庸な見た目のローバラと華やかな見た目のラークスでは、並んでいても誰も恋人などとは思わないだろう。

 そもそもローバラ自身、ラークスが自分を幼馴染として見てくれているのか、もはや金づるとしてしか見ていないのかすら分からない。

 しかし、ラークスと過ごす時間が、彼女にとっては一番の楽しみだった。


「ですが、不似合かどうかなど、教えには関係ありません」

「そうね、女神シャロンは気になさらないでしょうね――でも私は気にするのよ」


 デルフィの声が低くなった。


「他の女もそうだけれど、あなたが一番目障りなのよ」


 ローバラは思わず息を呑んだ。

 それほどに、デルフィから感じられる情念はすさまじかった。


「お金が欲しいだけなら私でもいいはずでしょう! なのになぜ高位神官の私じゃなくて、聖女のあなたなの」

「そう……そう言われましても」


 ローバラはそうですねと言いかけたのを飲み込んだ。

 ローバラがラークスに特別にしていることといえば、会う時にお金の用意を忘れないことくらいである。

 ただ金が欲しいだけなら、実家が大金持ちのデルフィに近づいたほうが得だろう。


 ――もしかして、まだ私はラークスの中で可愛い女の子なのかな。


 よぎった考えに、少しだけローバラの顔がほころぶ。

 その様子に苛立ったのか、デルフィはますます早口になった。


「ラークス、花の間を渡り歩く蝶々! どうして私を選んでくれないのかしら! 私を選べば指輪をばらまいて機嫌取りをする必要もない! むしろどんな贅沢だってさせてあげられるのに! 「あなた一人のものにはなれない」だなんて!」


 ローバラのもらった指輪は、どうやら他の女性達も持っている物であるようだった。それについてローバラは特に悲観しない。分かっていたことだ。

 むしろ彼女は、デルフィを可哀想だと憐れんだ。

 彼女は彼に好意を持つたくさんの女性が手にした贈り物すらもらえず、それでも彼を自分のものにしようとして拒まれたのだ。

 まあそうだろうな、と、ローバラは他人事のように思う。


 ラークスは確かに女に寄りかかって生きるのが得意なよろしくない男だが、ただ楽がしたいだけなら都合のよい人を選んで、夫なり情夫なりに収まればいいのだ。長らく平和の続くシャロンガーデンであれば、美しい彼に贅沢を許す富豪などいくらでもいるだろう。

 しかしそれでは、旅ができない。


 周辺国家と穏やかな関係を結ぶこの国では海外旅行もできるが、ラークスはそれではだめなのだ。

 この国より遥かに離れた土地、見たこともない国、聞いたこともない文化、言い伝えでしか知らない神々。彼はそういうものを見たがっている。そこでしか知れない歌を知りたがっている。それが彼の中の一番なのだ。

 彼を囲いたいほど愛して執着する人間が、そんな安全かも分からない場所への旅を彼に許すとも思えない。ラークスはそういう“都合の悪い”女性に対する嗅覚が抜群に高いから、一度危険を感じれば二度と近づかない。


 ラークスを本当に独占できる者がいるとすれば、どんな場所にも喜んで着いていって文句を言わず、彼が必要なときに必要なものをすぐさま与えられる魔法使いくらいだろう。

 旅路に必要がなければ、ラークスが別の女を頼ることはない。


「仮にわたくし一人を遠ざけても、彼は別の女性のところに行くと思いますよ」

「あなたには関係のないことよ。あなたは「はい」と言って命令を守ればいいの」

「わたくしだって、彼を諦められないからお金を渡してるんです。デルフィ様に言われたくらいで頷くとお思いですか?」

「頷くわよ。――そうしないと彼が死ぬもの」

「――へ?」


 間の抜けた音が出る。

 デルフィの口から出た言葉が信じられなくて、ローバラは一瞬異国の言葉でも聞いたのかと見当違いの思考をした。

 しかし、デルフィは唇の端を美しく上げて、三日月のような笑みを浮かべた。


「あなたが彼を手放さないなら殺してしまうわ。そうしたら気分もいくらか晴れるでしょう」

「そ、そんなこと……」

「できないと思う?」


 先回りして放たれた言葉に、ローバラは背筋を凍らせた。

 神の加護で守られた国から出たことのない彼女は、嫉妬や敵意を浴びせられたことはあっても、殺意を感じたことはない。

 そんな少女でも理解した。


 目の前の女性は、本当に愛する男を死なせるつもりだ。


「で、デルフィ様も彼を好きなんでしょう! それなのに殺すだなんて!」

「私のものにならないなら、いっそ誰のものにもならない方がすっきりするわ」

「人を殺すなんて、そんな簡単にいくはずない!」

「我らがシャロン様は、愛ゆえの殺人を肯定なさっているわ。もちろん国の法は容認していないけれど……ただ旅慣れているだけの流れ者なんて、急に死んでも誰も怪しまないんじゃないかしら。強盗に襲われるとか、乗せてもらった船から落ちるとか」


 ローバラは真っ青になった。

 デルフィの生家は大きな商家だ。国中にいろんな店を出しているし、外国とも取引をしている。

 国内で殺人が起きればいくら平民といえど調査はされるはずだが、国の外、特に神の加護の薄い国境や海の上ともなれば、平民が一人行方知れずになったところで誰も歯牙にもかけないだろう。

 デルフィならいくらでも手を回せる。


「……正気ですか」

「そうでなかったとしたら、ラークスが狂わせたのよ」


 まだ昼間であるのに、酷薄に笑うデルフィは蒼白い月のようだった。

 ローバラはどうにかしなければと思考を巡らせる。

 しかし、なにも思い浮かばなかった。女神の天啓すらない。


 デルフィの言うとおり、女神シャロンは愛のための殺人――ひいては罪と呼ぶべきあらゆる事柄を、愛のための行いであれば 肯定していた。

 外聞が悪いので秘匿されているが、聖堂内の膨大な記録の中には、思いあった二人が自分達を引き裂く政略結婚の婚約者を殺害した結果女神の祝福を受けた話や、愛する者の病を治すために男が殺した赤ん坊を女神が生き返らせて罪をなかったことにした話が残されている。

 そのような側面を持つ女神が、この場面において聖女を贔屓してくれるとは思えない。


 結局、ローバラは頷くしかなかった。



 夜。私財で豪勢に整えた自室で、デルフィは一人ほくそ笑んでいた。

 デルフィがローバラに命じたのは三つ。

 ラークスに二度と会わないこと、ラークスの様子を人に尋ねないこと、彼に金品その他を渡さないことだ。

 ローバラは基本的に聖堂から出ないし、ラークスは必ず裏門から来て門番に伺いを立てるのでその時は断ればいい。ラークスは一応この国の民だが決まった家を持たないので、直接会えなければ贈り物など渡しようがない。

 あまりに簡単ではあるが、肝要なことだ。


「これで邪魔者はいなくなったわね」


 独り言ちて、デルフィはくすくす笑う。

 彼女の狙いは、ローバラがラークスの行方を確認できなくすることだった。

 この国に、ラークスを慕う人間は多い。

 だがそのほとんどが平民であり、更に言えば彼をいついなくなっても不思議ではない人物と考えている。好機と見ればどんな遠くの国にでも飛び出していってしまうので、その認識は間違っていない。

 いなくなっても惜しがられこそすれ、誰も心配しないのだ。

 だからこそ、ローバラを引き離す必要があった。

 いつも彼の行き先を聞き、予定を聞き、心配していたローバラがそうしなくなれば、誰もラークスがどこへ行ったかなどわからなくなる。

 しばらく帰って来なくても、遠い国を旅をしていると思うだろう。

 数年ほどすれば、とうとう死んだか、などと言われるかもしれない。

 ローバラが後から気づいて誰かになにかを言っても、もはや手遅れだ。デルフィが彼を殺すと脅した証拠すらないのだから。


 デルフィの配下に誘拐されて、この国に密かに連れ帰られて閉じ込められたとしても、誰にも分からない。


「うふふふ、楽しみだわ。彼と私、ようやく二人きりよ」


 デルフィは寝台で眠るラークスを想像した。

 彫像のように整った白いかんばせ、閉じた瞳を飾るけぶるような睫毛、もはや他の女のために言葉を紡ぐことはない唇。

 思わず吐息がもれた。

 薬で眠らせて連れてこさせるつもりだけど、その後はどうしようかしら、と彼女は思案する。鎖で繋ぐのは背徳的で昂るが肌を傷つけるのは困る。かといって最初から薬で正気を失わせては愛を囁いてもらえない。自分がどれだけ彼を愛しているか告げて、受け入れてもらわなければならない。それからそれから――。


「あーあ、とっても残念よ、デルフィ」


 名前を呼ばれて、熱を帯びた狂おしい妄想は泡のようにはぜて消える。

 足を絡めていたシーツを胸の上まで引きあげて裸体を隠した彼女は、自分の名前を呼んだ誰かを見る。


 一人きりだったはずの部屋に、音もなく人が立っていた。


「だ、誰!? 護衛神官はなにをしていたの!」

「誰、はあんまりじゃなくって? 数時間前に脅迫した相手なのよ?」


 そんなことも忘れてしまったの? と嘲るような物言いをした相手は、指を窓へと向ける。それだけでカーテンは勝手に開け放たれて、月光を部屋へと招き入れる。


「ろ、ローバラ……なの?」


 デルフィは困惑したように呟いた。

 確かに、目の前に立っているのは聖女ローバラである。

 だが、普段民衆のために装っている落ち着きのある優しさや、年相応の平民らしい幼さの垣間見える表情はそこにはなく、国内では珍しくない凡庸な特徴の顔には、高みから下界を見下ろすような高慢な笑顔が浮かべられている。

 普段のローバラなら、やろうとしてもできないであろう顔だった。


「そうよ。この肉体はローバラのもの。まあ、今はあたしが借りてるのだけど」

「だ、誰か! 誰か来なさい! 無断で人の部屋に入るなんて!」

「無駄よ。誰にも届かないわ」


 引きつってきんきんと響く高い声を、ローバラは一笑に付す。

 その言葉の通り、誰かが飛んでくる気配はない。高位神官の部屋の周囲には、護衛神官が常駐しているはずなのにだ。


「ローバラ! あなたなにをしたの!」

「ローバラはなにもしてないわ。したのは、あ、た、し」


 たわむれのように言って、ローバラが寝台に向かって歩き始める。

 なにか恐ろしい予感のしたデルフィは、枕の下からなにかを取り出し、ローバラへと向けようとする。

 しかし、その手は途中でぴたりと止まった。


「まあ。心臓破裂の簡易魔術紙(スクロール)なんて、物騒なもの持ってるじゃない。命を狙われる心当たりでもあるのかしらね」


 うふふ、と少女らしい笑い声を立てて、ローバラは中空で止まったままの手から禍々しい力を放つ羊皮紙を奪い取る。彼女が指を鳴らすと、羊皮紙は青い炎に包まれて一瞬で燃え尽きた。


「どうして……」

「なにが、どうして? どうして簡易魔術紙(スクロール)をローバラが簡単に破壊できるか? どうしてローバラがこの部屋に入れたのか? どうして、体が動かないのか?」


 なぶるように、いたぶるように、ローバラは疑問点をあげていく。それらは間違いなく、デルフィの中に浮かぶ疑問だった。


「答えてあげるわデルフィ。それはね、あたしがシャロンだからよ」


 言いながら、彼女はデルフィがまとっていたシーツをはぎ取る。

 一糸まとわぬ豊満で美しい肉体に、いつの間にか赤い糸が幾重にも巻き付いている。

 ひっ、とデルフィの喉が鳴った。


 女神シャロンに選ばれた聖女は愛の縁を糸として実体化させる力を持つが、それには二人の愛しあう誰かがいなくてはならない。

 そんな"制限"を無視できるのは、その気になった女神だけだ。


 デルフィは悲鳴をあげた。


「なぜです!? なぜですか女神様! 私はあなたの教えに背くことは一切しておりません!」


 人間の尺度で考えれば唾棄すべき計画を実行しようとしていたが、確かにシャロンの教えにはなにも背いてはいない。

 愛するものを、その手に掴もうとしただけだ。

 それに対し、シャロンはそうね、と頷いた。


「あなたは私にとって好ましい人間だったわ。誰のものにもなろうとしない根無し草を自分の庭に閉じ込めるなんて、あたし大好きよ」

「では! なぜ!?」

「仕方ないのよ。あなたの思い通りにさせちゃったら、ローバラが使いものにならなくなるんですもの」


 小鼻を指先でつついて、シャロンは大げさにため息をついた。


「あたしだって、あなたと彼がどうなるかは興味があったわ。最近は人間達のおねだりを聞いて法律を認めてあげたせいか、あなたみないな子はめっきり見なくなったもの。どうなるか見届けたかったわ。でもねえ、ローバラったら、縁の糸がズタズタになるほど泣くのよ。それは、困るの」


 そう言って、女神はデルフィに見えるように小指を立てて見せた。

 部屋の中には月明かりしかないのに、拘束されたデルフィにはそこに結ばれた赤い紐が見えた。どれほどの糸が撚り合わせられたのかも分からない、細い縄と形容できそうな太さだ。


「あたしの権能の源は人間達の愛。向けられる想いが多いほど、誰かに向ける想いが強いほど、その使い勝手はよくなるの」


 言葉と共に、小指に巻かれた紐が音もなく解けていく。

 縫い針ほどの長さしか無い小指から落ちる紐は、デルフィの腹の上に落ち、とぐろを巻き、それでも途切れることなくこぼれ、やがて寝台の外まで溢れていく。

 シャロンの言葉が事実ならズタズタになった部分があるはずなのに、そんな様子は見えず、長い紐が垂れ続ける。

 それどころか、どこからかほどけて広がりだした紐の先は四方八方、壁や天井にさえ伸びていって、部屋を赤い糸で彩っていく。


「もうラークスに会えない、悲しい、でも会いに行ったら殺されちゃうってずーっと泣いて、それにあわせて国中に張ってた守りの糸がほつれたり切れたりしちゃって。魔物はあたしの庭に入ってくるし、領海は濁るし、最悪よ。十歳の逸材を捕まえてしばらく楽ができるわって思って油断してたから、本当に大変だったわぁ」


 シャロンがそう語る間にも、指から噴き出すように糸は伸び続け、拘束されて目玉と唇しか動かせないデルフィの視界は赤一色になっていた。

 もはや、寝台が糸の中に埋もれているような有様だ。


 普通の縁の糸は、実体化されてもこんな長さにはならない。

 たまにリボンのように幅が広いものや鎖のように編み込まれた形は見られるが、ただ一人を想うだけの人間の指からこれほどの糸が出てきたという記録はない。


「分かったでしょう? あたしを満足させてくれる人間はこの先でも生まれるかもしれないけど、今これだけの力を発揮してくれる"あたしの指"はローバラだけで、そんな彼女の想いをこれだけ引き出せるのはラークスだけなのよ。だから、あなたは邪魔なの」


 女神の言葉に、光景に圧倒されていたデルフィはようやく我に返った。


「申し訳ありません! シャロン様の邪魔をするつもりなどなかったのです! 二度とラークスには近づきません! ローバラにも近づきません! 神官は辞任いたします! この国から出ていきます! どうかお許しください!」


 必死に許しを請い、叫ぶ。

 女神は自分の権能が阻害されたからデルフィの前に現れたという。

 なら、その前提を消せば許される可能性はゼロではないはずだとデルフィは思った。思い込みたかった。すがりついた。


「だめよ。あなたの一族は国の外にまで力を広げているのでしょう? どこで何が起きるか分からないじゃない? 必要のない花は根絶やしにしなくちゃ」


 しかし無情な声とともに、デルフィの意識は絞め落とされた。



 翌朝、シャロンガーデンは騒然となった。

 女神シャロンによる神罰が下されたのである。

 対象者は高位神官デルフィ·ニウリスカとその生家、ニウリスカ商会の人間総勢十四人。

 神罰を下された人間はシャロンガーデンの地に葬ることを許されておらず、その骸は死んだ時の姿のまま首に巻き付いた赤い糸によって吊るされ、鳥に突かれ腐り落ちるまで晒されることが決まっている。

 恐怖の形相で裸のまま吊るされることになったかつての美女を目にし、女神の怒りを買えばああなるのだと人々は胸に刻み込んだ。

 ニウリスカ商会の人間が皆殺しにされることはなかったが、神罰を受けた一族に世間の目は冷たく、その後一年と経たずに生き残った者達は国外へと出ていった。


 高位神官だったデルフィとその親族達がなにをしでかして神の怒りを買ったかを人々は知らない。

 女神シャロンは罰を与えるだけであり、わざわざ人間達に理由を教えるような優しさは持ち合わせていないのだ。



 ラークスはまた、ローバラのところにやって来ていた。

 また前と同じように並んで「もらった」菓子を食べている。

 ローバラはその中にまざっていた可愛らしい手紙をラークスが捨てないように荷物に戻してから口を開いた。


「じゃあ、大河の国にはいけなくなったの?」

「神罰を受けた一人が船の持ち主だったみたいでね、出港自体が取り止めになってしまったんだ。せっかく旅の準備をしたのにな」

「それは、残念ね。他の船はないの?」

「遠い国だからなあ。まあ、地道に探すよ。新しい歌をたくさん覚えたから、しばらく暮らしにも困らないはずだしね」


 ラークスはそう言って立ち上がり、また歌を披露する。

 やはり他所の国の神をたたえる歌だったが、彼の首に赤い紐が巻き付くことはない。

 ただ、ローバラはいつもと違って、ラークスの歌を聞いていなかった。


 頭の中に、女神シャロンの声が響いていたからである。


『よかったじゃない。憧れの君が出かけずに済んで。あたしのおかげね』


 ローバラは顔に出さないように注意しながら、心を不信感でいっぱいにした。


『まあ悪い子ね。このあたしにそんな感情を向けるなんて』


 それに対し、わたくしの指先としての機能が変わっていなかったらなにもなさらなかったでしょう、とローバラが思えば、悪気もなく、そうね、と肯定が返ってきた。


『でもローバラもいけないと思うのよ。この相手を押し包むほどの想い、一度くらいラークスに伝えたらいいのに』


 唆すような言葉に、そんなことはできない、とローバラ思わず首を振った。

 ラークスは旅と自由を愛する人だ。自分のような重く大きく絡みつくような気持ちを伝えてしまったら、逃げ出されてしまうかもしれない。そんなことになったら耐えられない。


「ローバラ、気分でも悪いの?」


 優しい声が、意地悪な女神の声を破ってローバラに届く。

 顔を上げれば、リュートを引くのをやめたラークスが膝をついて彼女の顔を覗き込んでいる。

 キスができそうなほど近くにいるラークスに心をときめかせながら、それでもローバラは子どものように笑って見せた。


「ううん、違うの。誕生日プレゼント、もらいそこねたなって思っただけよ」

「ん――ああ、そうだね。なら、他の国に行こうかな。髪飾りなんてどう? 南の鳥神が治める国には、髪の短い女性用の髪飾りがたくさんあるんだよ」

「無理に出かけなくていいのよ。南なんて、これからもっと暑くなるでしょう? もう少しシャロンガーデンにいたらいいのよ。一ヶ月もしたらお祭りなのよ。ラークスは最近帰ってきたから知らないかもしれないけど、最近は変わった美味しい屋台が出るのよ」

「へえ、それは興味があるな」

「でしょう? 御馳走するから、それまでは旅はやめたらいいわ」


『乱れる想いを秘めたまま咲かない蕾の聖女。なんて可愛らしいのかしら』


 (あざけ)るような女神の声も、今のローバラには気にならなかった。



 シャロンガーデンと呼ばれるその国は、愛を司る女神を奉る小国だった。

 その興りは侍女と駆け落ちした王子を寵愛した女神の手によるもの、愛を知らぬまま打ち捨てられた少年に与えられた楽園が国になった、などと定かではないが、その点は然程問題視されていない。

 民にとって重要なのは愛する人達と自分達の生活であり、女神にとって重要なのは、自分の庭の平穏と、その中で生きる人々の愛が生み出す過程と結果だけなのだった。



「聖女のヒモ」というワードを最初に思いつき、そこに「上位存在からの恩恵を忘れてざまぁされてる作品はたくさんあるけどちゃんと生活してる作品なろうではあんま見たことないなあ」という発想を経て生まれたわりと出オチ作品です。

ファンタジー特有の架空の文化がしっかり形成されてる作品が好きなので自作他作オススメあったら教えてください。

お読みいただきありがとうございました。

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