表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

プロシア参謀本部~モルトケの功罪・拾遺集

ヘルゴランド沖海戦(1864)

作者: 小田中 慎


 第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争によるデンマーク海軍の海上封鎖は2月末、シュレスヴィヒとホルシュタイン両公国全ての港湾に対して開始され、ユトランド半島のバルト海沿岸では新鋭の装甲砲塔艦「ロルフ・クラケ」と数隻のフリゲートや砲艦により時に陸上の敵と戦いながら続けられ、北海側では汽帆走フリゲートの「ニルス・ユール」が単艦で哨戒任務に就くと、後日汽帆走コルベットの「ダグマル」が加わり、「ダグマル」は手始めに3月18日、オランダ沖まで遠征するとテッセル島沖でハンブルク船籍のスクーナー「テクラ・シュミット」を拿捕した。


 当時北海側にプロシア海軍の艦船は殆ど存在せず、数隻の砲艦やガンボートではデンマーク海軍に対抗することは無理があったため、オーストリア帝国は海軍に対し「デンマーク海軍に対抗可能な」艦隊を北海へ送るよう命じた。

 オーストリア海軍は唯一の戦列艦「カイザー」、就航したばかりの装甲フリゲート「ドン・ファン・デ・アウストリア」に「カイザー・マックス」、汽帆走フリゲートの「シュワルツェンベルク」と「ラデツキー」、汽帆走コルベット「エルツヘルツォーク・フリードリヒ」、外輪砲艦「カイゼリン・エリザベート」と「サンタルチア」、砲艦「ゼーフント」と「ヴァル」という強力な艦隊を組織しようとした。

 先ずは直ちに出撃可能な艦を送り、後から追いかける形で第二弾、第三弾と艦船を追加しようと考えた海軍は、東地中海でオーストリアの権益を保護していたヴィルヘルム・フォン・テゲトフ大佐(当時36歳)率いる「レバント分遣隊」を先発させることとなる。


挿絵(By みてみん)

テゲトフ大佐


 64年3月上旬、海軍一の俊英で将来を嘱望されていたコモドーア(戦隊長)、テゲトフ大佐は汽帆走フリゲート「シュワルツェンベルク」と「ラデツキー」、砲艦「ゼーフント」の3隻で遥々北海へ向かい出撃した。この時、戦隊の1隻、汽帆走コルベットの「ダンドロ」も参加する予定だったが機関の調子が思わしくなく遠洋航海に耐えられそうになかったため、東地中海に残されている。

 テゲトフ戦隊はジブラルタルを通過して大西洋に出ると、給炭水のためポルトガル、フランスの港に寄港した後、英仏海峡を通過するが、針路を誤った「ゼーフント」が浅瀬に乗り上げて損傷し、修理のためイギリスの港に寄港したため、「シュワルツェンベルク」と「ラデツキー」の2隻だけが5月1日に北海へ入った。


挿絵(By みてみん)

シュワルツェンベルク


 同じ頃、同じ東地中海にプロシア海軍の小戦隊が派遣されていた。こちらは政情不安に陥っていたギリシャでプロシア人の居留民を保護し、同じくクリミア戦争後の秩序維持のため黒海に入るなどの活動を行っており、元商船乗りのグスタフ・クラット少佐が率いる外輪推進通報艦(アビソ)「プロセッサー・アドラー」、1等砲艦「バジリスク」、同型艦の「ブリッツ」で、63年12月3日、デンマークとの戦争が現実味を帯びたために帰国命令を受け、クラット少佐らは地中海を後にする。ところが、「プロセッサー・アドラー」に機関故障が相次ぎ、その度にスペイン、ポルトガル、フランスと寄港して修繕を行ったために4ヶ月を費やしてしまい、64年の4月14日にようやくオランダのデン・ヘルダー(アムステルダムの北65キロ)に到達するが、ここで開戦を知ったクラット少佐はエンジンに不安がある旗艦と小さな砲艦2隻ではバルト海に入るまでにデンマーク海軍に捕捉されてしまう、と考え、暫く中立国オランダで待機を、と海軍本部に打電したところ、間もなくオーストリア艦隊がテッセル島近海に到着するので、これを待って合流するよう命令を受け、5月1日、両戦隊はテッセル島沖で合同し、テゲトフが統一指揮を執ることとなった。


 一方、デンマーク海軍は3月下旬、北海側の哨戒任務を組織的に行うため「北海艦隊」を編成することになり、海外派遣も豊富なベテランのエドゥアルド・スエンソン海軍大佐(当時59歳)が戦隊長として就任する。

 スエンソン大佐にはそれまで北海で活動していた汽帆走フリゲート「ニルス・ユール」と汽帆走コルベット「ダグマル」に加え、バルト海から回航されて来た汽帆走コルベットの「ヘイムダル」が与えられ、その主な任務はオーストリアから向かっているという艦隊からデンマークの船舶を保護し、プロシア船舶を拿捕し、最終的には敵艦隊を撃滅することとされた。


 それまで「ニルス・ユール」と「ダグマル」はドイツ連邦の船舶15隻を拿捕、中立国の船舶も弾薬など禁制品を運んでいたことで4隻を拿捕していた。ハンザ自由都市のハンブルクとブレーメンはこの2隻によりヴェザー河口とラベ(エルベ)河口、そして両河口の港湾、ブレーマーハーフェンとクックスハーフェンを封鎖されていた。

 5月6日、スエンソン戦隊に汽帆走フリゲート「ユラン」が到着し、代わりに「ダグマル」が外れてバルト海へ向かった。

 スエンソン大佐はこの3隻で北海を哨戒しつつオーストリア艦隊が現れるのを待つのだった。


※64年5月9日のデンマーク海軍「スエンソン戦隊」


 戦隊司令官  海軍大佐エドゥアルド・スエンソン

○汽帆走フリゲート「ニルス・ユール」

 艦長 ゴットリーブ中佐

 排水量1,934トン 兵装/30ポンド前装滑腔砲x30、18ポンド前装施条砲x12 最大速力9.3ノット(時速17.2キロ) 兵員・422名

○汽帆走フリゲート「ユラン(ユトランド)」

 艦長 ホルム中佐

 排水量1,988トン 兵装/30ポンド前装滑腔砲x32、18ポンド前装施条砲x8、12ポンド前装滑腔砲x8 最大速力12ノット(時速22キロ) 兵員・437名

○汽帆走コルベット「ヘイムダル」

 艦長 ルンド少佐

 排水量892トン 兵装/30ポンド前装滑腔砲x14、18ポンド前装施条砲x2 最大速力9.5ノット(時速17.6キロ) 兵員・164名


挿絵(By みてみん)

 ニルス・ユール


挿絵(By みてみん)

 ユラン


挿絵(By みてみん)

 ヘイムダル


※64年3月17日のオーストリア/プロシア海軍「テゲトフ戦隊」


 戦隊司令官 海軍大佐(コモドーレ/戦隊指揮官) 男爵ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ

○オーストリア汽帆走フリゲート「シュワルツェンベルク」 

 艦長 テゲトフ大佐

 排水量2,614トン 兵装/60ポンド前装施条砲x6、30ポンド前装滑腔砲x36、24ポンド後装施条砲x4 最大速力11ノット(時速20キロ) 兵員・498名

○オーストリア汽帆走フリゲート「ラデツキー」

 艦長 イェレミア中佐

 排水量2,334トン 兵装/60ポンド前装施条砲x4、30ポンド前装滑腔砲x30、24ポンド後装施条砲x3 最大速力9ノット(時速17キロ) 兵員・372名


○プロシア外輪駆動通報艦「プロセッサー・アドラー」

 艦長 クラット少佐

 排水量1,171トン 兵装/36ポンド前装滑腔砲x4 最大速力10ノット(時速19キロ) 兵員・110名

○1等汽帆走砲艦「ブリッツ」

 艦長 アーヒバル・マクリン少佐

○1等汽帆走砲艦「バジリスク」

 艦長 スコウ少佐

 排水量415トン 兵装/24ポンド前装施条砲x1 12ポンド前装施条砲x2 最大速力9ノット(時速17キロ) 兵員・66名


挿絵(By みてみん)

プロセッサー・アドラー


 5月7日早朝。

 テゲトフ戦隊は当時はイギリス領のヘルゴランド島(クックスハーフェンの北西64キロ)を視認するところまで来ていたが、島の沖合に1隻の軍艦を発見する。お互いの素性を旗旒信号の交換で確認すると、これはイギリスの汽帆走フリゲート「オーロラ」ということが判明する。「オーロラ」は交戦海域にある孤島の自国領を守り、交戦国の軍艦を監視するためにヘルゴランド周辺を遊弋していたのだ。

 テゲトフは中立海軍の軍艦注視の中、ヘルゴランドの領海(当時は3海里。5.6km)を侵さぬよう十分に離れて通過し、単縦列の戦隊を北フリージア諸島に向けて北進させ、この日はズュルト島の遥か西方海上で停泊した。


 翌8日朝。「オーロラ」はまたも艦隊を視認するが、今度はデンマークのスエンソン戦隊だった。「オーロラ」艦長フランシス・レオポルド・マクリントック中佐は「ニルス・ユール」から「敵を見たか」との信号を受けると、素直にテゲトフ戦隊が北へ去ったことを知らせた。しかしこの頃、テゲトフ戦隊は給炭水のためラベ河口のクックスハーフェンに向かって既に南下していたので、ヘルゴランド島から北上したデンマーク戦隊とは遠く離れてすれ違い、この日は会敵することはなかった。


 日付が5月9日に変わって間もなく。クックスハーフェンに入ったばかりのテゲトフは、デンマーク艦隊がヘルゴランド沖に現れたことを港湾からの諜報報告で知った。テゲトフは迷わず麾下に出撃を命じ、10時頃、ヘルゴラント島の南方海上で再び英フリゲート「オーロラ」を視認する。すると直後に北方から進み来るデンマーク艦隊が上げる煙を発見した。

 ほぼ同時刻に、スエンソン戦隊の見張りも南南東方向に5本の煙を発見する。お互いに間違いなく「敵」を発見したと信じた両戦隊はそのまま反航する針路を取り、3時間後の13時15分前後、双方艦上から目視出来る距離となり、「オーロラ」は海戦になることは必至と、双方に自国領海・即ち中立海域を守らせるため沿岸から3海里付近に停泊し観戦を始めた。


挿絵(By みてみん)

ヘルゴランド1864(プットナー画)


 13時30分過ぎ。デンマーク側スエンソン、オーストリア・プロシア側テゲトフ両者殆ど同時に戦闘開始を命じる。更に13時57分、最初にテゲトフ座乗「シュワルツェンベルク」の艦首側60ポンド砲が射程3,430mで砲撃を開始した。しかしデンマーク側は必中の距離になるまで砲撃を控える。オーストリアの2艦は進み来るデンマーク3艦の単縦陣に対し直前を横切る「丁字の横棒」になるよう北西へ針路を取り、デンマーク艦が僅かに取舵を切ったのを見て、こちらも僅かに面舵を切った。この機動を見逃したプロシアの3艦は左舷側に遅れ離れ始めてしまう。同時にデンマーク側も砲撃を始め、たちまち「ニルス・ユール」からの一弾が「シュワルツェンベルク」の右舷側砲門に飛び込み、1門の30ポンド砲を破壊するとその砲員を死傷させた。テゲトフは構わず進み続け、お互いに激しい砲撃を続けながら約1,800m離れて反対方向へすれ違った。ここでテゲホフは面舵一杯を命じて右舷側へ旋回しデンマーク戦隊を追い、プロシア戦隊を率いるクラット艦長もテゲトフが右旋回するのを見ると、こちらも右旋回を行って何とか付いて行こうとした。スエンソンはスエンソンで、テゲトフのオーストリア2艦とプロシアの3艦を合流させぬよう旋回で速度が落ちた「シュワルツェンベルク」と並走するように針路を西へ向けた。


挿絵(By みてみん)

ヘルゴランド沖海戦


 これでデンマーク戦隊の先頭を行く「ニルス・ユール」と「シュワルツェンベルク」との距離が僅か370mほどに縮まり、スエンソン戦隊とテゲトフ戦隊は激しい砲撃の応酬で互いに損害を与え続けた。デンマークの3隻は短時間「シュワルツェンベルク」に集中砲火を浴びせたが、やがて「ユラン」と「ヘイムダル」は目標を「ラデツキー」に変えた。この間プロシアの3隻はテゲトフ戦隊の右舷側やや後方に700m以上離れて並走しており、時折デンマーク戦隊(1,200m以上離れていたと思われる)に向かって射撃を行っていたがほとんど命中しなかったという。

 しかし、オーストリアのどちらかの艦が放った1発は「ニルス・ユール」に命中し、先ほど「シュワルツェンベルク」でも発生したように1門の砲を破壊するとその砲員全員が死傷した。文字通り「お返し」となった一撃で、この砲の両隣で砲撃を行っていた砲員たちは血溜りの中で腕や足を吹き飛ばされ身悶える瀕死の者や胴体を切断された遺体を目の当たりにして逃げ出すが、義務を思い出した一人が勇気を出して戦友に戻るよう声を掛けながら砲側に戻ったため、恥じた仲間も殆どが砲に戻って砲撃を再開した。


挿絵(By みてみん)

ヘルゴランド海戦中のスエンソン


 15時30分頃、最初の被弾以来砲弾を浴び続けていた「シュワルツェンベルク」では3度目の火災が発生する。最初の2回こそ乗組の努力で消し止めたものの、この3度目の火災は大きく、フォアマスト(艦首側)に着火し燃え広がったため消火活動は困難を極めた。

 火災は消し止めることが出来ずに延焼し、16時過ぎにはフォアマストの艤装と船首が焼け落ちたため「シュワルツェンベルク」は後落し始める。

 さすがのテゲトフもこれ以上戦うことは出来ないと判断し、交戦打ち切りを命じるとヘルゴランドの中立海域に逃げ込むことを選択、「ラデツキー」とプロシア戦隊に向け旗旒信号を送った。

 

 テゲトフ戦隊は唯一応射が可能な「ラデツキー」の援護射撃でヘルゴランドの中立海域へ逃走する。この時、幸運な一弾が「ユラン」の艦長室を撃ち抜き、人的被害はなかったものの艦長室床下にあった操舵索を切断したため針路が定まらずに「ユラン」も後落し、スエンソンも損害が大きい「ニルス・ユール」と「ヘイムダル」だけでは追い切れず、更に中立国の義務を果たそうと目前に進み出た「オーロラ」のため16時30分、追跡を中止した。


挿絵(By みてみん)

ヘルゴランド沖海戦・戦闘図


 この日の戦闘でデンマーク側は戦死14名、負傷55名を記録し、これは全て旗艦「ニルス・ユール」で発生していた。

 オーストリア側は戦死36名、負傷108名の被害を受け、これは旗艦「シュワルツェンベルク」が戦死31名、負傷81名、「ラデツキー」が戦死1名、負傷27名と圧倒的に旗艦に多く発生している。海戦中操艦の拙さもあってかオーストリア艦の右舷後方に離れてしまい、テゲトフ戦隊の向こうに見え隠れするデンマーク戦隊に対し同士討ちを恐れて砲撃も侭ならなかったプロシアのクラット戦隊では何の損失も発生していない。


挿絵(By みてみん)

シュワルツェンベルクがヘルゴランド海戦で被弾した箇所


 中立国の義務として、交戦国の一方の軍艦が損傷修繕を名目として中立海域に入った場合、相手側の軍艦は同じ中立海域に入ってはならない、というルールを遵守させようと、「オーロラ」艦長マクリントック中佐はイギリスの領海3海里外で待機し始めたデンマーク戦隊と対峙し、スエンソンは「オーロラ」と向かい合いながら必ず脱出を図るはずのオーストリア・プロシア戦隊を待った。

 しかし、テゲトフは「シュワルツェンベルク」の簡易修繕を急がせ何とか航行可能とすると、深夜の暗闇と波浪の音を利して戦隊をヘルゴランドから西に向かって発進させ、島の南東3海里に構えるデンマーク戦隊から遠く離れて姿をくらませた。


 テゲトフ戦隊は1隻も欠けず5月10日の明け方4時過ぎにクックスハーフェンへ入港することが出来た。

 港に到着したオーストリア艦は、早速戦闘で受けた損害の修復を開始した。

 朝になりテゲトフが夜のうちに脱出したことを知ったスエンソンは、戦死者と負傷者を未だ占領されていない北フリージア諸島に送ると、ヘルゴランドとラベ川の間の北海南部でパトロールを再開した。


挿絵(By みてみん)

クックスハーフェンへ帰還したテゲトフ戦隊


 この時、テゲトフとスエンソンは知る由もなかったが、「ヘルゴランド沖の海戦」当日の9日、ロンドンではデンマークとオーストリア、プロシアによる休戦協定が署名されており、休戦は5月12日からと決まっていた。

 スエンソンは損害を押して封鎖を維持しようとしたが、「ニルス・ユール」は定員の6分の1に及ぶ水兵を失い、艦体や艤装も応急修繕だけでは維持も困難だったためコペンハーゲンへ帰ることとなった。その直後、休戦開始により「ユラン」と「ヘイムダル」にもコペンハーゲンへの帰還命令が届けられたのだった。


挿絵(By みてみん)

ヘルゴランドの海戦(シュトゥルムフェスト画)


 休戦は6月下旬まで続いたが、休戦中にはオーストリアからベルンハルト・フォン・ヴュラーシュトルフ=アーベイル提督率いる戦列艦「カイザー」や装甲フリゲート 「ドン・ファン・デ・アウストリア」等5隻が到着し、逆にデンマーク海軍は首都のあるシュラン島を始めとする島部防衛に忙殺されて北海側へ艦船を送ることが出来なくなった。

 結局アルス島と北フリージア諸島を占領されたデンマークは再び休戦を請い、戦争は終わった。


 ところで、デンマーク、オーストリア双方がこの海戦の結果を「勝利」と認定している。

 休戦となってコペンハーゲンに帰還したスエンソンと戦隊は大群衆と大歓声に迎えられ、テゲトフは自身「この海戦は引き分けだった」としたが、皇帝から「海戦中の勇敢な行動と指揮」に対して賞賛の言葉を授かると少将に昇進した。


挿絵(By みてみん)

 コペンハーゲンに帰還したスエンソン


 この海戦の結果に関する考察は歴史家の間でも大いに議論されるところで、現代に至るまで様々な意見が存在する。

 大きく分類すると意見は次のようになる。

 ①テゲトフ戦隊が中立海域へ撤退し、艦もデンマーク側より大きな損害を受けている(「シュワルツェンベルク」大破・「ラデツキー」小破に対し「ニルス・ユール」中破)ことにより、デンマーク側の戦術的勝利

 ②デンマーク側は直後休戦に至ったこともあるが、海戦の結果で封鎖を解除せざるを得なくなった(損傷と損害のためコペンハーゲンに帰っている)ので、オーストリアとプロシアの戦略的勝利

 ③海戦自体はテゲトフが名を上げたと言えるので、オーストリアとプロシアの戦略的勝利だが、「ユラン」の操舵不能が無ければデンマーク側が勝っていた

 ④デンマーク側の封鎖解除はあるもののデンマーク側の戦術的勝利は変わらない

 ⑤デンマーク側の封鎖解除はあるものの海戦自体は引き分け

 ⑥海戦自体休戦間際で、戦争自体に影響は与えていないので引き分けと言える


 読者諸賢はどう判断されるであろうか。


挿絵(By みてみん)

海戦後の「ユラン」の士官


挿絵(By みてみん)

海戦後のテゲトフとクルー


 汽帆走フリゲート「ユラン」は現在、デンマークのエーベルトフト(オーフスの東29キロ)にある海洋博物館の乾ドックに記念艦として保存されている。

 「ユラン」は1874年まで現役(主に練習艦)として就役した後に定置され、1892年から1908年までハルクとして兵舎や砲術訓練用に使用されると1910年初頭には解体されるところだったが、保存すべきという意見が多数あり、記念艦として修復されると現在地まで運ばれた。その後2つの大戦もあり手も入れられず朽ちて行ったが、一転保存運動が高まり1984年に大改装されると「最後に残った木造の汽帆走フリゲート」として大切に保管されるに至った。


 「ヘルゴランド沖海戦」は木造艦同士が戦った最後の海戦となり、同時にデンマーク海軍が最後に行った本格的海戦となっている。


挿絵(By みてみん)

海戦中の「ニルス・ユール」艦上


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ