伸びた首
幸せって、案外見えないところに転がっているって言うでしょ?
最近、そう実感するようになりました。介護士なんて仕事を長く続けているせいかもしれません。他人と関わることの多い仕事。特に、不運にもケガや病気で介護を必要とするようになった人と。
あたしが受け持っている人もNさんもその一人です。気のいいお爺さんで、ひとり身になっても心は元気です。幸せはそこにあると教えてくれます。
「いつかきっと、幸せを見ることができるようになる」
「あたしには難しいですよ」
「そうでもないさ。分かる時が来る。でもね」
Nさんは目をきゅっと細めて言いました。
「時として幸せに紛れて良くない物がやってくることがある。あたかも、自分は幸せですって顔をしてね。そういうのはタチが悪い。災っていうのさ」
あたしはNさんの話に、ニコニコと頷きながら耳を傾けます。屋内はとても豪華です。有名な会社の本社に勤めていた人でした。だからこんな大きな家に暮らせるのでしょう。
さて、Nさんの自宅から帰る途中に、地下道があります。とても急勾配な、不親切な設計です。段の狭い階段があるのみで、スロープは付いていません。設計者は、これを不便に思う人のことを想定できていなかったのでしょう。通る度に、想像力のない人の、悪意無き所業に心がもやもやするのを感じます。
ですがその日は、そんな気持ちも忘れてしまいました。驚くべきものを見たからです。そこで行き遭ったものは、幸せだったのでしょうか。それとも、災だったのでしょうか。いいえ、それは確かにあたしを幸せへと導いてくれました。
地下道の天井に男の人が刺さっていたのです。そう見えました。スーツらしき姿の男の人の、胸から上のあたりが天井に吸い込まれていたのです。ですから突き刺さっているように思えました。しかし、宙ぶらりんになっていたわけではありません。足は地面についていました。つまり、身体が伸びていたのです。
それはまるで、身体全体を引き延ばして、地下道からはみ出してしまったようにも見えました。服は伸びなかったのか、スラックスの先端は太ももあたりまで引き上げられ、滑稽な見た目になっていました。毛の生えていない、手入れされたすべすべの足が印象的でした。
「こんにちは、おばさん」
なんと、天井の方から声が響いてきたのです。くぐもったように聞こえます。男とも、女とも取れる声でした。でも服装からして、やはり男なのでしょう。
「こんにちは……」
とっさに、あたしは返事をしていました。不覚でした。自分をおばさんと認めたようなものです。悔しい。あたしはこの男のすね毛でも引っこ抜いてやろうかしらと思い立ちましたが、すぐに綺麗に手入れされていることに気付きました。
それはいいとして。不思議な状況でした。あたしの顔は見えていないはずなのに、分かるのでしょうか。
「分かるよ」
あたしの心を読んだかのように、その声は続けました。
「見えるんだ。よく見えるよ。首を伸ばしたんだ。身体も伸びたけど。そしたら、よく見えるようになったよ」
「そうなの」
あたしは恐怖を忘れていました。それどころか、不思議な感情を抱いていました。羨ましい、と。この人が羨ましい。何が見えているの。どうして見えるようになったの。どんなものが見えているの。
あたしも見たい。そうしたら、幸せも見えるようになるかもしれない。ドヤ顔で教えてくれたNさんには悪いですが、あたしには、いつ来るかも分からない幸せを待てるような忍耐はないのでした。
「どうやったらできるの? あたしにも教えて」
「それはね――」
方法を聞いたあたしは、いったん自宅に戻りました。ちゃんとした服装に着替えるためと、むだ毛の処理をするためです。最近は見せる相手もいないからサボっていましたけど、こうなると話は別です。
用意を済ませて戻ってきた時、男性はまだそこにいました。あたしはホッとしました。もしかしたら白昼夢かもしれないとどこかで感じていたからです。良かった。まだ幸せは逃げていない。あたしは運が良い。
「ねえ、本当にこれでいいの」
「いいんだよ。終わったら、全てが見えるようになるよ」
彼の声は、地下道の中でぐわんと反響しました。あたしは脳を揺さぶられたような感覚になって、ふわふわとした足取りで作業を進めました。
天井に、フックが付いています。工事の時に使うのかもしれません。でもそれが最適なのです。あたしは、家から持ってきた丈夫なロープの先を輪っかにして、そこへ投げつけました。引っかけるためです。最初は上手くいきませんでしたが、すぐにコツが掴めて、3回目で成功しました。
すると、するするとロープと一緒にフックが天井に吸い込まれ、天井からロープだけがぶら下がっているような状態になりました。十分な長さのあったロープは、手元まで一直線に張りつめられました。
「お上手! じゃあ首を入れるんだよ。絶対だよ」
「分かっているわ」
あたしは、ロープのもう一方の端も輪っか状にして、その中に頭を通しました。不思議なことに、とても懐かしい気持ちになりました。小学生の時、徒競走でメダルをかけてもらった出来事が脳内に蘇りました。あの頃は、あたしにも幸せが見えていたと思います。
でも、それも過去の栄光ではなくなるのです。今、あたしの手元にやって来るのです。
男の人は興奮したように、甲高い声で喚きました。スラックスから大きくはみ出た足をバタバタとさせました。
「入れたね! 入れた! 見たぞ! 確かに入れた!
ようし、ぐいってやるんだ! ぐいっ!」
ぐい、とはどういうことかよく分かりませんでしたが、困ることはありませんでした。ロープが勝手に縮んでいったからです。
ですが、身体が浮かび上がることはありませんでした。首が伸び、身体も伸びたのです。予想とは違い、服も一緒に伸びてくれました。なあんだ、折角着替えたのに。でも、すぐにどうでも良くなりました。
痛みは少しもありませんでした。そうしてあたしの頭は天井に吸い込まれました。
最初は何も見えませんでした。しかし、しばらくして地上に出て、あたしは全てを見られるようになりました。
「こんにちは! 初めましてだね」
本当です。よく見えます。すべてが良く見えます。男の顔もはっきりと見えました。顔を歪めて、ケタケタと笑っている彼の顔が。
その時、あたしは思い違いをしていたことに気が付きました。
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おかしい。こんなのはおかしい。吐き気がする。まるで××を勧めるような文章ではないか。
だいたい、誰がこの女性から話を聞けるというのだ? 比喩のような書き方をしているが、この人は死んでしまったのではないか。じゃあ、誰が話を聞けたというのか。
「まもなく。到着いたします。ご乗車ありがとうございました」
アナウンスがした。ようやく最寄りの駅に着いたのだ。駅の方向に顔を向け、私は叫び声を上げていた。
何かが近付いて来る。それは床から飛び出した首だった。1メートルほど首が伸びて、そして女性の顔が付いていた。徐々にスピードが遅くなっている。そうか、電車が止まろうとしているから。地面から生えたものがすり抜けているんだなと、理解した。電車が止まると同時に、女の首も止まった。目の前。ちょうど私のおなかのあたりの高さだった。
女はしゃべり始めた。
「幸せって、案外見えないところに転がっているって言うでしょ? ――」
それは、今しがた読んだばかりの話だった。
私は気の遠くなるような感覚を覚えながら、全てを理解し始めていた。ああ、だからこの話は伝わっているのか。死んだわけじゃなかったのだ。仁彦も、こうやって話を聞いたのね。
そして、先ほどまでの違和感の正体にも、気付きつつあった。全てが繋がっていった。
女がここにいるということは、地下道は、ちょうどこの駅の下にあったということだ。私の知っているあの地下道だったのだ。
そもそも地下道があるのは、何かを迂回しているからだ。例えば大きな駅のような。
この場所に? ただの偶然? いや、それとも。
さっきまでの違和感の正体。今までの話は、全てこの駅で起こったことではないのか?
「お降りの際は、段差に注意して――」
乗客が一斉に降り始める。一部は、乗り換えるだろうか。そのまま降りるだろうか。ショッピングを楽しむかもしれない。駅の中にあるコンビニでちょっとした買い物をする人もいるだろう。
私は電車を降りる人の足元に注意した。立ち止まっていた人が、歩き始める。コンビニのATMの前に映っていた足も、最初は止まっていた。女子高生も、立ち止まっていた。痴漢? 道端で? 違う。電車の中だったんだ……。「映像」は、電車に乗っていた霊が、コンビニを通るまでを映していたのだ。
コンビニが早く閉まるのも納得だった。終電に合わせているのだ。
「ホームでは歩きスマホは危険です――」
ホーム。プラットホーム。家。ホーム。ホームレス。はは。確かに面白いかもね。ホームにいるのにホームレス。
自販機の話。
あれはこの駅のホームでの出来事だった。小学生は電車通学だったのだ。雨の日なのに、傘はさしていなかった。あれは屋根があったから。おじさんが座っていたベンチも、ホームにあった。
コンビニの話でも古い自販機は出てきた。もしかしたら同じ場所かもしれない。
トレイの話。
電車通学といえば、彼女もそうなのだろう。
引っかかりを覚える記述は何点かあった。彼女たちの間では「女子トイレ」と言えば通じる、と書かれていた。ということは、そのトイレだけ男子トイレもセットになっているということだ。そこは女子校なのにね。まあ、職員用トイレの可能性もないことはないけど。
また、彼女はローファーを履いていた。放課後と書いていたし、鞄を持っていたことからも分かるように、下校途中だった。でも、なぜ。学校の中のトイレで下靴を履くというのだ。しかも、その1階下にもトイレがあるという記述があった。トイレは2階にあったのに、どうして下靴を履いていたのだ?
彼女は確かに、家に帰るところだった。ただ、それは学校を出た後だったんだ。トイレは、学校のトイレではなかった。最寄りの駅のトイレだった。校内ではなく、駅の構内だったのだ。
女はまだ話し続けていた。吐き気を感じた。やめて。そんな話をしないで。訳の分からない、気違いじみたことをこの子に聞かせないで。仁彦に聞かせないで。
「胎教に良くないって、言ってるでしょうがー!」
しかりつけるように叫ぶと、女の人は黙った。黙ったまま、にやにやと私のおなかのあたりを見続けた。そこで、私は初めて気付いた。軽い。体が軽い。妊娠前のように、痩せている。
え?
腹部は平らに戻っていた。