夜ごと自販機に憑くもの
ぼくは塾に通っています。小学校からそのまま向かいます。塾で授業を受けていると、帰りは遅くなります。10時くらいです。
家に帰る途中、ぼくは自販機に寄ります。普段は人が多い場所ですが、周りのお店も閉まり始めるので、人もまばらになります。その夜は雨も降っていたので、なおさらでした。
「おーい健太、はやく」
「うん。先行ってて!」
ぼくはその自販機で飲み物を買います。時間がある時は甘い飲み物を買います。疲れた頭に染み渡る気がします。お父さんからは、飲んではいけないと言われますが、たまにファイン・フェイスも買います。ファイン・フェイスは、おじさんの顔が描かれた、手のひらサイズの缶に入っています。苦味の中に、ほんのり甘い味が感じられるのが特徴です。
一度、お父さんが飲んでいた缶にこっそり口をつけたことがあります。ちょっと飲んだだけで舌が弾けて、目の前がチカチカしました。すぐにお父さんに見つかって、怒られてしまいました。大人はずるいと思いました。こんなものを毎晩飲んでいるのです。ぼくたちには駄目だと言いながら。
お父さんは、
「企画書を作るためには欠かせないんだ」
と言います。ファイン・フェイスを飲みながらだと、素晴らしいアイデアが浮かんでくるのだそうです。実際、そういう状態のお父さんをよく目にします。ラルラリラと歌いながらワルツをキめているので、ああ飲んだなとすぐに分かります。だからぼくは、とても凄い飲み物なんだなと思うのです。
その日はお金がなくて、それでも未練がましく自販機の前で缶のラベルを眺めていた時のことでした。
「こえを、あえよう」
声が聞こえました。少し離れたベンチに座ったおじさんでした。見覚えがあります。たいていそこにいるからだと思います。
おじさんはとても汚らしい格好をしています。ホームレスという人だと習いました。家のない人という意味らしいです。僕には帰る家があります。おじさんにはありません。家があるのは当たり前のことなので、おじさんの気持ちは想像もつきません。でも、かわいそうだなと思います。
ホームレス。……こんなところにホームレスがいるのがおかしくて、ぼくは笑ってしまいそうになりました。おじさんは、顔を赤く染めました。恥ずかしかったのかもしれません。
「おあね。あえう!」
どうやらおじさんは、小銭をくれるらしかったのです。薄黒い手を差し出してきました。知らない人にものをもらってはいけないと、ぼくはお父さんからきつく言われていました。
でもその日はどうしてもファイン・フェイスを飲みたかったのです。塾でうまく質問に答えられなくて、笑われたのです。その時からぼくの頭の中はファイン・フェイスのことでいっぱいでした。飲みたい。早く飲みたい~。イライラが止まりませんでした。何度か口の端から、涎がこぼれたほどでした。
だからついぼくは、ホームレスのおじさんの言うことを聞いてしまいました。ぼくは恐る恐る、傘を持っていない方の手を出しました。おじさんは両手でぼくの手を包みこむようにしてコインを押し込めました。ぼくの手に、ねちゃついた、黒いものがこびりつきました。その中にあった鈍色のコインは、日本の硬貨ではなさそうでした。正直、ちょっとだけ後悔しました。頭のおかしい人に、からかわれたのです。
それでもぼくは、駄目もとで自販機にコインを入れました。すると、なんとランプは点きました! やった! これでファイン・フェイスが買えるぞ! 今夜はパーティーだ!? さっきの後悔もすぐに消し飛びました。ありがとう、ホームレスのおじさん!
ぼくは震える指をボタンにもっていきました。すでに禁断症状が出始めていたのです。ファイン・フェイスのボタンを押しました。わくわく。
がこん、という音がしました。あとはプラスチックカバーの奥に現れるそれを取るだけです。しかし、いつまでたっても缶は見えません。え? もしかして売り切れ? でもそれならお金は返ってくるはずです。
かがみ込んで、覗いてみました。どうやら奥で引っかかっているようでした。他のと違って古い機体なので、たまにこういうことがあるのです。ついてない! ぼくは焦りました。でも、手を奥まで入れるのは、なんとなく嫌です。おじさんと一緒で、汚い機械だからです。だから、濡れた傘の先端を突っ込んでがさごそと動かしました。それでも引っかかったままです。どうやらちゃんと手で取る必要があるようです。
「ええい、まどろっこしい!」
お預けを食らった犬のようになったぼくは、傘を放り出して、自販機の前にひざまずきました。ほっぺたが濡れるのを感じました。また涎が垂れていたのです。でも気にしませんでした。舌を出して、はっはっと息をしながら、ぼくは自販機の取り出し口に手を入れました。
その瞬間でした。
「てつたってあけようか」
ぼくは災が来ていたことに、気付きませんでした。いつの間にか、おじさんがすぐ近くに移動して、ぼくが苦戦する様子を覗き込んでいたのです。心臓が止まるかと思うくらい、びっくりしました。
そしてあろうことか、おじさんはぼくを自販機にぐいぐいと押しつけ始めたのです。
「そうえ、いちに、いちに」
「うわあああ⤴」
さっきまでのイライラは消え、今度はとても不安な気持ちになりました。痛い、痛い! 泣きそうです。おじさんはとても強い力で、ぼくの手を奥へ奥へと押し込んでいきました。
「はいえ。はいえ」
「うわああぁ⤵」
ぼくは気付きました。『入れ、入れ』おじさんは、ぼくを自販機の中へ閉じ込めようとしていたのです。入るわけがないのに。でもこのままだと入ってしまうと、本気でそう思いました。
入っちゃう。自販機に入っちゃう。そしてぼくもケースに陳列されるのです。ファイン・フェイスの缶の隣に……。
「うわあああ→」
「おい! 健太!」
友達に名前を呼ばれて、ぼくは我に返りました。おじさんはいません。ファイン・フェイスも、落ちていないことに気が付きました。自販機が静かに機械音を響かせています。ぼくの手には、ねちゃついた黒いものの感触がかすかに残っているだけでした。
ですがぼくは去り際、おじさんと目が合ってしまったのです。自販機の中に視線を向けた瞬間でした。ケースの中にいるおじさんと、目が合ってしまったのです。
ようやく気付きました。どこかで見たことのあるようなおじさん。当然でした。彼はファイン・フェイスのラベルに描かれたおじさんだったのです。にっこり笑った、おじさんです。
缶コーヒーのラベルに描かれたおじさんは、ぐにゃりと唇を歪めると、高い声で叫びました。
「こぉひに!」
自販機のケース越しに、どこか口惜しげに、目を怒らせたのです。
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なんだこれは……。
頭がおかしくなりそうな文章だった。ラリった人が書いたみたいだ。冒頭で、聞いた話を忠実に再現したとあったが、子供がこんなことを言うだろうか。子供から話を聞けたのだろうか。大人が、子供のふりをして語ったような違和感があった。不気味だった。
そして、ファイン・フェイスとはなんだったのだろう。最後に缶コーヒーと書いてあったから、コーヒーのことなのだろうか? おじさんも「コーヒーに」と言ったみたいだし。それにしては中毒性がある飲み物のようだった。もしかしたら、自分を子供だと思い込んでいる、精神異常者の話なのではないか。薬物中毒者の。
それに、不思議なことがあった。どうして……。
他の話もそうだ。トイレの話も、コンビニの話も。私はどこか引っかかりを覚えていた。違和感。その正体を確かめようとしてページを遡ってみたものの、その正体を発見することはできなかった。
でも、子供の話だけは読み返す気が起こらなかった。こういうの、あまり良くないと思った。
胎教に。
健診終わりの妊婦が読む話ではないのだ。
……あれ? 妊婦。そう。私は妊婦だ。どうして誰も席を譲ってくれないのだ。私はさっきから憤慨していた。
感情が、また乱れている。症状が出ているようだった。
私が婦人科のお医者さんを、まるで悪徳医者のように感じるのも、この病気のせいだ。こころの病気。精神に異常があるからだ。私が悪いんだ。お医者さんがあんなおぞましいことをするはずないのだ。
とん。
おなかを蹴られた感触があった。あら、起きたのね。仁彦がお話の続きを急かしているのだと思った。ごめんなさい、すぐに読んであげるからね。
ん? おかしいな。私は初めて気づいた。仁彦は。私の子供、能登仁彦は、おなかの中にいる。言葉も話せない。でもこの小説を書いたのも仁彦だ。どういこうこと? ただの同姓同名なの? いや。それはない。確かにこの話を書いたのは彼だ。私には分かる。だって母親だから。ああそうか、彼はとっくに大人になって、独り立ちしていたんだ。寂しいわ。
とん。
またおなかを蹴られた。はいはい、今読みますからね。
なんにせよ。答えはこの先にある気がした。違和感の正体も、仁彦のことも。私はページをめくった。