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災、来る~ワザワイ、キタル~  作者: 能登仁彦
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トイレの玲子

 

 私の通う女子校の2年生の間で、一つの噂が風のように駆け巡っていました。2年生の教室は全て北館の同じ階に集められているため、広まるのはあっという間なのです。

 その噂とは、あるトイレの話でした。昔、私たちのずっと前の先輩――玲子さんといったそうです――が、そこで自殺したという、曰くつきの恐ろしい女子トイレです。私たちの間では「女子トイレ」とか、あそこ、と言えば、大抵それで通じます。あまり近寄りたくはないところ、というのが大勢の生徒の共通認識でした。

 そのトイレが避けられるのは、先述した曰くがあるためだけではありません。実際に、おかしな感覚を覚える生徒が何人かいるのです。例えば――。

 すぐ横では大勢の人が行き来しているのに、一歩そのトイレに足を踏み入れると、急に音が消えたように感じる。

 そのトイレだけ、行列ができているのを見たことがない。

 個室の中で、おかしな音を聞いた。耳をすませば、それは人の囁きのようにも聞こえる。

 といった話です。だから私たちは、どうしてもという時は、階段を降りた所にある、別のトイレを利用することにしていました。

 しかしある時、私はどうしても我慢が出来なくなって、そのトイレを使ってしまったことがあります。そこで私は、恐ろしいわざわいを経験することになったのです。

 放課後のことでした。油断していました。月のものが予定よりも早く来てしまったのです。家まで耐えられないわけではありませんでした。ですがもう少しもう少しと思っているうちに、どんどん気分は重くなっていって。歩くのもやっとといった状態で、階段を降りることすら絶望的に思えました。

 今思えば異常でした。あそこまで辛くなったことは一度もありません。どうしてもそのトイレに入らなければならない、というように考えさせられたような――導かれていたのかもしれません。なんにせよ、話を続けます。

 中には、やはり誰も入っていませんでした。綺麗で、掃除も行き届いています。なのに、個室は全て空いていました。すぐ外では大勢の人が行き来しているはずです。実際、耳を澄ませば、騒がしい音の気配も漂ってきました。

 少し落ち着いてものを考えられるようになりました。考えてみれば、今時トイレの花子さんのような話も馬鹿げています。それも高校生にもなって。最初は憶病になっていたものの、拍子抜けしました。私は迷った後、一番奥の個室に入りました。切迫した状況から解放されたこともあって、完全に気が緩んでいました。その時、私は違和感に捉えられました。

 外から聞こえてくる喧噪。それが、何かの言葉に聞こえたような気がしたのです。最初は構内放送かと思いました。意識を集中させ、耳を澄ませようとした時、ふと音が止まったのです。それがあまりにも露骨なものだったので、私はヒヤリとしました。まるで、私が聞き耳を立てたのに気付いたかのような……さっきの声は、誰かのひそひそ声のようにも思えたのです。

 周囲はしんと静まりかえっています。急に私は不安になりました。この広い建物の中で、私一人が取り残されてしまった感覚でした。

 今度ははっきりと聞こえました。それは笑い声。赤ん坊の声でした。


「おぎゃあ」


 びくっと肩を震わせました。すごく近くから聞こえてきたからです。そこでようやく私は、気付いたのです。トイレの隅に奇妙な物体が横たわっていました。不思議なことに、入ってきた時は気付きませんでした。布にくるまれた赤ん坊。もぞもぞとうごめいています。私は腰が抜け、後ずさりました。床に直接おしりを下ろすのも気にならないくらい、私は恐怖に溺れていました。慌てて、後ろ手に鍵を開けようとした時、ノックの音が響いたのです。私は動きを止めました。直感的に分かったのです。この向こうには、お母さん・・・・がいる。私と同年代だった玲子さんが。――そう、彼女の自殺の原因は、おなかの子を堕ろしたショックだったと言われているからです。

 赤ん坊はいっそう激しく声を上げました。布がはだけ、赤ん坊があらわになりました。生まれたばかりのような、赤黒い血や、白っぽいチーズのようなものがついた赤ん坊の姿が……。私はぞっとしました。玲子さんは、もしかしたら、ここでこの子を産んで、それから。

 ノックも強くなり、すでに扉を打ち破らんばかりに響いています。赤ん坊はありえないことに、芋虫のように私のローファーまで這ってきました。私はたまらず、体を縮こませ、目を瞑りました。扉を必死に抑えながら、カバンに手を伸ばしました。そして、パスケースのそこに入れてあったお守りを取り出しました。それは、おばあちゃんがくれたものです。


「もしもの時は、これを握って、祈るんだよ」


 優しい、懐かしい声を思い出しながら、柔らかい札を握りしめました。助けて。おばあちゃん。

 いつの間にか、ドアを叩く衝撃はなくなっていました。恐る恐る目を開けると、赤ちゃんも、その子をくるんだ布も消えていました。

 おばあちゃんが守ってくれたのでしょうか。それから、私はなるべくそのトイレに近づかないようにしています。近くを通ると、また呼ばれるような気がするから……。




 ▭■▭■▭■▭■▭■▭■▭■▭


 1話目を読み終えたところで、私はいったん文字の並びから目を解放した。女子学生を襲った不思議な話。彼女の言葉を借りれば、災が来た。

 ちょうど電車が駅に停まったようで、新たに人が乗ってきた。目的地はまだここじゃない。それは終点の駅。私の家の最寄り駅だ。大きな商業施設と一体になった、県下でも有数の規模を誇る駅だ。近所に住む者としては、開かずの踏切には迷惑していたが、普段なら地下道を使えば問題はなかった。今はそこも使いたくはないけど。

 そんなことよりも利益の方が大きかった。昔、学校帰りなどにはお世話になったものだ。私は電車通学で高校に通っていた。降りる前に、改札内にある店でおいしいお菓子を買って帰るのだ。今日も萬葉堂のシュークリームでも買おうか。

 だけど、駅まではまだまだ時間がある。まだ座席は埋まっていた。うつろな目で見る。イヤホンをしたサラリーマンと目が合ったが、逸らされた。


 ちっ。こっち見んな。


 また舌打ちが聞こえる。疲れているのに。誰もゆずってはくれない。私のような醜女には。まあこれも、私の被害妄想なのだけど。

 本当は座りたかった。朝からお医者さんのところに行って、疲れていた。通い始めて半年ほどになるクリニックだ。近くになかったせいで、こうして1時間もかけて通う羽目になっている。でもその方がいいのだ。近所で噂を立てられるのは嫌だった。

 私の味方は仁彦とよひこ)だけだ。ただ一人、醜い私の側にいてくれる。一番近くで私を守ってくれる。結局は仁彦だけが私の側に残った。私は彼のためならなんでも出来そうな気がした。女子校に通っていたあの頃は、自分のもとに優しい王子様が現れるなんて、思いもしなかった。


 おらぁ! 僕が守ってやっているんだぞ!


 昨日の夜も、仁彦はそう言いながら、私の腹部を足で力強く蹴った。最初の頃の様に、胃の中の物をトイレにぶちまけることもなくなっていた。私は幸せだった。仁彦の側にいられることが。能登仁彦が側にいてくれることが。

 それに、本物の、優しい仁彦は、そんなことを言えるはずないのだから……。私の病気が見せる、歪んだ幻想。ごめんなさい。私こそが悪いのだ。


「反省しています。だから、私のことを見捨てないでね――」


 斜め前の座席に陣取る主婦に怪訝な視線を向けられても、私は一向に気にすることなく、小説を読み進めた。






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