鳴り止まない黒電話
「緋乃ちゃんはいい子だねぇ」
そう言って私の頭を撫でるのは祖母。私に関心を持って接する人は昔から彼女以外にはいなかった。
この頃の私は人の肌が嫌いなんて事はなくて、されるがままに撫でられて、それでいて少し恥ずかしくて照れ笑いをしていたのを覚えている。
優しい微笑み。しわくちゃの働き者の手。広くて手入れの行き届いた庭。大好きだった植物の話。弄ばれてゴロゴロと喉を鳴らすニャン子。
あぁ。こんな夢いらない。
早く目覚めろよ。
嫌いなんだ。こんな悪夢見たくもない。
祖母は祖父の死後「死ぬまでこの土地を手放す気は無い」と言って、祖父母の土地を売却したがっていた私の両親や親戚と対立していた為に、親類に疎まれ、誰の手を借りるでもなく大きなお庭のある広い屋敷に一人で住んでいた。
私も両親に祖母とは関わるなとは言われていたけど、お庭の植物も木の香りのする家も暖かな日差しの中縁側でお昼寝するニャン子も嫌いではなかったし、殺伐とした日常を忘れられる祖母の家は心地がよくて、親に内緒でよく通ったものだ。
自分で言うのもなんだが、私は昔からなにをしてもそこそこ出来た。手先の器用さやセンスは人並み以上。けど、ただそれだけだ。何をしてもずば抜けて良いわけでは無かったから、賞をとっても褒てくれるのは祖母だけで、私の能力は両親の求める人間には足りなかったし、彼らは兄にしか興味がなかったもの。
幼いながらに何をしていても虚しさのようなものは感じていた。
緑川の家は先祖の代からそこそこ裕福な一族で、近年は分野の違う会社をいくつも親族間で経営する大きな組織であり、父はそのトップに立つ存在。
組織を保つための妥協を許さない教育。生産性と合理性を求めた行動。無機質な感情。それらを全て受け入れられない私は家では異質だったし、家族からも受け入れられなかったのは当然の事。
そんな私を庇うように受け入れた祖母もまた緑川家では異質な存在だった。
家にいても、学校にいても、友人といても生きづらさは常に感じてた。
自分を押し込めて、世間や親の求める普通であろうとする事が辛くて、なんで存在しているのか分からなくて、何で私は生きていないといけないのかと……。
過去の幼い私は納得のいく答えが返ってくるとは思いもせずに、ニャン子を撫でながら何気なく祖母に尋ねるのだ。
「難しい事を聞くねぇ。そぅ。生きていないといけない理由は無いだろうね。緋乃ちゃんも生きていて辛い事や悲しい事、虚しさを感じたり、憤ることが沢山あるでしょう?」
期待はしていなかったけど、当たり障り無く生きろと言われるのだと思っていた幼い私が祖母の言葉に驚いたのを覚えてる。
「人生ってやつは、真っ暗闇を自分の心の明かりを頼りに手探りで進まなきゃならないんだ。でもね。真っ暗な中に時々幸せって言う宝物が落ちてるんだ。よく見てないと見逃してしまう幸せも多いんだけれど、その宝物を一度見つけてしまうとどうにも死ぬのが惜しくなってしまうんだよ」
「や……よくわかんないよ」
例え話なのはわかるけど……あまりにもポエミーだし、暗闇の中にある輝きをもたない宝物なんて見つかるわけないし。
幸せってなんだよ。
そんなの何処にも落ちてないよ。
「おばあちゃんの宝物は緋乃ちゃんだよ」
恥ずかしげもなくそう言う祖母は、本当に私と血が繋がっているのか疑うほどに穏やかで、いつもニコニコしていて温かくて……たしかに私の大事な人だった。
「特別におばあちゃんの宝物を見せてあげようね。少し待っていてね」
そう言って何かを取りに席を立った祖母が中々戻らない事に、ニャン子と遊んでいた私はしばらく気づかなかった。探し物が少し長引いているんだろうと疑いもしなかった。
--ジリリリリン ジリリリリン
鳴り響く黒電話の音。
家の中には私と祖母だけのはず。だけど、席を離れた筈の祖母は電話に出ない。
やめようよ。もう。続きなんか見たくない。こんな夢さっさと終わってくれ。
願いとは裏腹に夢の中の私はニャン子を膝の上から下ろして縁側から家の中に向かう。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
鳴り止まない電話の音。
起きろ。起きろ。起きろ。起きろ。
夢の中の私が立ち止まる。
足元に転がる何かに気づいて狼狽えて、駆け寄り声をかけ、体を揺する。返事も反応もない。
夢だとわかっているのに息苦しい。
バクバクと心臓が鳴る。もう嫌だ。
なんで? どうして?
当時の自分の混乱と現在の自分の拒絶がごちゃごちゃになって頭がおかしくなりそうだ。結末は当然知ってるから。情けなくて、なんの役にも立たない自分が不甲斐なくて、喪失感だけが大きくて。この時から確かに自分の中で何かが変わったんだ。
だって、そう。
ただ、暗闇にただ一人取り残されたような。隣にあった明かりがなくなって、視界が暗くなって、ただただ怖くてその場から動けなくなった。
私の宝物は既に手の内にあったんだって…………。
気づいた時にはもう遅かったんだ。
祖母の葬儀後、そう経たないうちに土地の売却が決まり、祖母と一緒に育てた野菜のある畑も、季節ごとに色とりどりの花を咲かす草木も、ニャン子と日向ぼっこした縁側も全部。全部、バキバキと豪快な音を立ててショベルカーが無惨に取り壊していった。
祖母が私に見せようとした宝物が何かも分からないまま、大切なモノなんて初めから何も無かったかのように……。
大切に思うモノは?
手放したくないモノは?
宝物なんて守る事が敵わないのなら、どうせ無くなってしまうものなら初めからいらないよ。人だって、物だって。気持ちだって。
だってそうだろ?
心が痛いのは嫌だから。
だから私は、当たり障り無く、誰を大切に思うでも無く、誰に大切に思われるでも無く、緑川の家からも逃げ、のらりくらりと生きていく。
………………。
…………。
瞳を開くと鮮やかな色彩。ベッドに横わる自分と隣には赤。
汗で張り付いた私の前髪をそっと優しく払うのはゴツゴツの硬くて年季の入った大きな手。
……カナンヴェーグ?
人の肌を意識した瞬間に体が拒絶し、あからさまに距離をとってしまう。
汚い物に触れたかのような対応は流石に酷いか。と、罪の意識を強く感じたことで、今までボーッとしていた思考が覚醒を始める。
これは現実?
だとして、私が意識を失っただろう場に居なかった彼が何故……。
いや、それよりエリーゼは無事なの!?
恐竜みたいな魔物の群れに襲われた後どうなったんだよ。
他の人は?
シオさんは?
皆無事なの??
「ようやく起きたか」
私の反応に少し悲しそうな表情を浮かべつつも、普段より優しげな声で話しかけてくるカナンヴェーグ。
なんだよ。普段威厳たっぷりの爺さんのくせして何でそんな悲しそうなんだよ。
状況がわからない故に、じっとしている事が出来なくて、私は上掛けを剥いで起きあがろうとした。
しかし、眩暈を覚えて私の動きは止まる。
気持ち悪い。グワングワンする。魔力の使い過ぎで倒れる寸前のような何度も経験した感覚だ。
「まだ暫くじっとしているといい。ワシも先程、アルセリアスに着いたばかりだ」
「…………」
つまり、ここはアルセリアスで、数日後に王都を立つ予定だったカナンヴェーグがいるという事は何日も意識が無かったという事。
信じられない。あの後どうなったんだよ。
「其方等と共にシルビナサリを出た者は皆無事だ。其方以外はな」
「…………」
私以外無事??
や、私は無事だし。ちょっと気持ち悪いだけだし。問題ないし。
なんだ。良かった。安心じゃん。
力が抜けてポスンと音を立ててベッドに沈んだ。すると、ベッドに腰掛けていたカナンヴェーグも反動で上下する。
「無理はしてくれるな。騎士もメイドも其方を守るために付けていたのだ。彼らの命を軽んじるつもりはないが、其方が全てを守る必要は無いのだぞ」
お説教の口調ではなく、静かに私に言い聞かせるカナンヴェーグの瞳は真っ直ぐに私を見ている。
真面目に聞かないといけないとは思うのになんだか瞼が重くて、何度も瞬きをしてしまう。
「ワシは二度も娘を失いたくは無い」
「…………」
あぁ、そっか。この人は宝物を見つけたのに過去に無くしてしまった人だった。
カナンヴェーグの娘は、ティア姐さんの母親だけ。その一人娘は禁忌に触れたとして命を奪われたと聞く。
もちろん、カナンヴェーグの宝物は一つでは無いはずだが。彼は自らの宝物の一つに義理の娘にした私を含めているのだろうか??
何だよそれ。情が深いの??
だって、そんなの……。
いらないよ。
上掛けを頭まで被り、湿っぽくなった瞳を閉じて、ベッド脇に置かれているゴツゴツした老人の手を無言のままそっと撫でた。
伝わらないだろうけど、リザが復活でもしない限り、どんな傷も癒すこの体がカナンヴェーグより先に死ぬ事は無いからな。って。
しんみりした老人へ、そんな気持ちを込めて。
感想・評価等、何卒よろしくお願いします。




