1-19 悪い子
僕が生まれてすぐの頃、あの子は僕に縋り付いてわんわん泣いてばかりいた。
不思議な事に、ソルと言う人物の代わりとしてこの子が僕を生み出した事が最初から分かっていた。
あまりにも自身の存在が不確かで、こわくてこわくてしかたなかった。
こんな風に考えられるのに、僕という人間はどこにもいないんだ。
それでもこうして、夢の中だけでもあの子が縋って、触れてくれる時だけは、僕はここに居るんだと思えた。
ここに居る僕を必要としてくれているんだと嬉しかった。
だから、頑張れた。
「っ!」
目が覚めた時、まず一番に感じたのは痛みだ。
右腕にじりじり焼けるような痛みと、足と脇腹に鋭い痛み。
痛みの場所へと目を向けると赤で塗れていて血を失い過ぎたのか、頭がくらくらするような気がした。
ほんの少し前に負った怪我らしく、乾き切っていない傷口から未だに熱く脈打つ感覚がする。
これ以上血を流すのは流石に不味いと思って自身の身体に魔法陣を纏い、治癒の魔術を発動した。
ここは……あぁ、森、か。
こんな傷を追った記憶は…………無い。
と言う事はほんの少し前に表に居たのはあの子……スーシャなんだろう。
こんなに唐突に僕に交代されたと言う事は耐え難い何かが……。
そこで、いつもと違う違和感に気付いた。
「……あ、れ……っ!?」
あの子が、居ない。
不思議な感覚だったけど、なんとなく「居ない」と思った。
心? 頭?
よく分からないけどぽっかりと隙間……と言うには大きすぎるような空虚な感覚がして、背中がさむくなる。
訳も分からずどうして良いか分からずに慌てて自身の頭をべたべた触ってみると、もう一つの違和感。
隙間の奥の方、と言えば良いのか分からないけど何かの魔法式が自身に埋め込まれている事に気付いた。
以前に表に出た時、こんなものは無かった筈だ。
「っぁ、わっ!?」
そんな思考に夢中になっていると、不意に後頭部の髪が強く引っ張られた。
ほんの一瞬だけの、ぶち、と、ざ、という二つの音と激しい痛み。
次の瞬間には痛みなんてものは無くて、煩わしいと思っていた肩より少し長い髪の毛が丁度良い長さになっていた。
何がなんだか…と混乱したまま振り返ると、そこには懐かしくて、愛おしい人が居た。
「っおか、あ、ぅ、れ、レアさん……っ?」
僕が最後に見た時よりも大人っぽくなってて綺麗で、でも全然変わらない檸檬色のポニーテールが魅力的な人。
僕の、おかあさん。
正確には育ての親だって本人が否定しているけど、僕があの子に作られた時から一緒に居て色々教えてくれたから僕にとっては本当のおかあさんみたいなものだ。
レアさんは何か言う事もなく、片手に髪の毛の絡まった短剣を持ち、もう片方の手に水色の髪の毛の束を持っていた。
どうやら先程のよく分からない痛みは、レアさんが僕の髪の毛を短剣で切り落としたらしい。
自身の髪の色が水色になっている事にその時やっと気付いた。
よく分からないけど、何か気にしているらしいあの子はよく魔術で髪の色を水色に変えてしまう。
こんな事をしても結局は誤魔化してるだけで意味なんて無い事に思えて魔法陣を展開し、髪の毛を覆い尽くしていた粒子を分解していくとレアさんがやっとこっちを向いた。
「あぁ、やっぱりそっちのがしっくり来るわ」
「あ……っ」
そう言って、僕の頭に手を置いた。
久しぶりだったせいか、身体が少し強張る。
「スーシャの事なんだけど……色々あって心がどこかに消えちゃって、それでアンタの頭に治療の為の魔法式を入れさせて貰ったわ」
「……え……っ」
世界が真っ暗になってしまったような錯覚。
色々って、治療って、一体何があったんだろう?
それでも確かにあの子はどこにも居ない空虚な感覚が、これが現実なんだと僕を追い立てているような気がしてこわくてこわくて身体が震えた。
あの子が居なくなってしまったら、僕はなんなんだろう?
僕は誰なんだろう?
真っ暗になってしまった世界が、不意に温もりに包まれた。
「……ったく、そんな顔すんじゃないわよ。なんとかしてやるから、アタシを信じなさい」
「ぁ、れ、あ、さん……っ」
色を取り戻した視界には、綺麗な檸檬色。
レアさんが僕の身体の震えを抑えるかのように、両腕いっぱい抱き締めてくれていた。
「スーシャが戻るまで、アタシがアンタの味方よ。だから、アタシだけを信じて」
「……あ」
僕も腕を伸ばそうとしたら、不意に引き剥がされる。
そのまま肩に手を置かれ、レアさんは無表情だったけど真剣な顔で僕を真っ直ぐ見つめた。
「アタシの言ってる事、分かる? ちゃんと出来る? それともアタシが信じられないかしら?」
レアさんはそう言うと、悲しそうな顔で俯いた。
そんな顔して欲しくなくて慌てて首を横へ思い切り振った。
「っううんっ! ……でき、る、できる……っ、出来るよっ! 信じるよっ!!」
「そう、良い子ね」
「っ」
そう言うと、レアさんは再び僕を抱き締めて頭を撫でてくれた。
「お、かあ、さん、おかあ……さん……っ!」
「良い子、良い子」
レアさんの背中に腕を回してしがみついても、今度はきつく抱き締め返してくれた。
おかあさんって呼んでも怒らずに頭を撫でてくれる。
すごく優しくて、なんだか許された気がして、目から熱いものがぼろぼろ零れた。
レアさんの服を汚してしまうのに、それでも優しく頭を撫で続けてくれた。
「ゆっくりしていたいけど、今はそうもいかないのよ。悪いけど、先に帰って待っててくれる?」
「うん……」
未だ涙の止まらない僕を優しく引き剥がして距離を置くと、地面に何かが入った硝子の容器を置いていた。
レアさんが僕から離れた時、レアさんが立っているずっと奥の方に僕ら以外に誰かが居た事にやっと気付いた。
滲む視界でよく見えなかったけど、倒れているのか、死んでいるのか、動いていない。
歪む視界の中、見覚えのある金色に涙が引っ込んで、背中が一気にさむくなった気がした。
「ここは良いから、さっさと行ってよ」
「……え……っ! あ、う、うん!」
レアさんの言葉に、思考が現実へと戻された。
「……あ、あの……おうち、は、同じ、場所で、良い、の……?」
「えぇ、そうよ」
「……あ、の……っ、その人……は?」
身体が震える。
自身の腕を抱き締める僕にレアさんは不思議そうな顔をしていた。
あの子も気を使ってか、今まで触れずに居てくれた事。
昨日の事のように思い出せる、忘れられない記憶が目の前に迫って来て、今すぐ殺されるような気がした。
「アンタが居ると、めんどくさいのよ。早くしなさい」
「……っ!! ……う、ん!」
少し不機嫌そうなレアさんの声に身体がびくりと震える。
僕の質問に答えてくれる気配は無かったけど、先程まで動けなかった身体が動けるようになっていた。
踵を返し、堰を切ったように走った。
走って、走って、走った。
森から飛び出して少しした所で息が切れて跪いた。
「……っるー……兄……っ!」
久しぶりにその名前を口にした気がする。
僕らが小さな頃に出会った、あったかいお兄さんだ。
あの金色は、見間違いだろうか?
でも、あの太陽を思わせる色は間違いなく……。
「あ、あぁぁ、ああぁ……」
ざあざあうるさい耳鳴りが酷くて頭を抱えると、口から情けない変な声が漏れた。
あったかいお兄さん、冷たい目、冷たい感触。
あの瞬間、ここで死ぬんだって確信した。
こわくて背中がぞくっとして「さむい」と思ったんだ。
死にたくなかっただけで、あんな、こと、する、つもり、じゃ、なかった、ほんと、なんだ、だって、ちがうんだ。
るー兄を殺した僕はあの後、ざあざあ砂利が擦れるようなうるさい耳鳴りと頭痛に襲われて、どうしていたのかはっきり覚えていない。
真っ暗で、うるさくて、うるさくて、声が出なくて、うるさいのに心地良い耳鳴りに包まれて、ただただ出ない悲鳴をあげる、ひどくぼんやりした記憶だ。
それらが落ち着いた頃、周りの景色が見えるようになった頃には、いつの間にか結構な時間が過ぎていた。
昔は夢の中で泣くばかりだったあの子が僕を心配してくれていた。
それ自体は嬉しかったけど、僕は自分の役割を果たさずにあの子に全て押し付けてしまったんだと後悔した。
その頃のスーシャは魔術を必死に勉強していて、あの子のやろうとしていた事に協力する事にした。
だって、役に立たない僕に意味なんて無いから。
そんな時、沢山あった資料やノートの山の中、あのページを見てしまった。
『にげる 生きのびる かみさまからのめいれい』
赤黒く汚れた懐かしいノート。
そのページだけあの子らしくない芋虫の這ったような文字と、薄い染み、それと赤黒い汚れでぐちゃぐちゃだった。
かみさまって言うのは多分るー兄の事だ。
それにしても、ねぇ、るー兄、どう、して……。
耳鳴りがうるさくて、潰れるような気がして、約立たずになる訳にはいかないと慌ててそのノートを資料の山に突っ込んで忘れる事にしたんだっけ。
なんでそんな事を思い出したのか…………きっと二人への後ろめたさからだ。
「……生き延びる」
どうして、僕には言ってくれなかったんだろう。
どうして、僕を殺そうとしたんだろう。
こんな曖昧で役立たずな存在だったから?
言う事を聞かなかったから?
なんて、あの子に嫉妬してしまうなんて、ばかだ。
こんな事を考えてしまう悪い子だから、きっと神様があの子をどこかに遠ざけたんだ。
こんな悪い子だから、るー兄だって殺そうとした。
簡単な答えじゃないか。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
神様、神様。
だれか、だれか。
あの子の居なくなった僕は、一体誰?
あの子も居なくて、周りに誰も居なくて、ぽつんと立つ僕は曖昧で、ここには一体何があるんだろう?
何にも無いような気がして、寂しくて、寂しくて「さむい」と思った。
不意にごろごろと、灰色の雲が音をあげる。
こんなに心がさむいのに、雨に打たれたら凍えてしまいそうだ。
慌てて自身に魔法陣を展開し、空を舞う。
それにしても、良い天気だ。
もうすぐここら一帯大雨が来るのだろう。
そうしたらきっとこんな潰れてしまいそうな気持ちも雨音が紛れさせてくれる。
そしたら、もっともっと頑張ろう。
あの子が帰ってこれるように。
神様、神様。
ごめんなさい。
レアさんの言う事もちゃんと聞いて良い子になれるように頑張ります。
だから、次こそは捨てられませんように。
あの子が帰って来てくれますように。