橋上武勇の将
中国後漢王朝末期、西暦208年頃
中国の大陸北部を制圧した曹操は、大陸南部を制圧するために兵を起こす
南征を始めた曹操の最初の敵は、長年争った宿敵・劉備であった
総勢100万を超える曹操の軍に対し、劉備の兵はわずか三千足らずであった
劉備は居城を捨て、南の荊州へと逃げようするが、劉備を慕う民は、家を捨てて共に行軍することを希望した
劉備を慕い付き従う民の数は、最初は数万程度であったが、声望高く、仁徳溢れる劉備の名を聞いた民は次々と名乗りを上げ、一人また一人と増えていった
いつしか何十万となった巨大な民衆の行軍を見て、曹操は劉備の仁徳の高さと名声を恐れていた
曹操はこれを機に、劉備を打ち取ることに執念を燃やす
英君の誉れ高い曹操が、最も冷酷な一面を発揮するのが、不可思議にも劉備相手の戦であった
劉備を慕う民衆を切り捨て、強行軍の無法をそのままに、曹操は劉備を追って100万の騎兵を動かす
あと少しで劉備に追いつくかと思いきや、兵の行軍に遅れが見え始めた
曹操はすぐにその違和感に気づき、斥候を走らせる
そして斥候からの報告は、耳を疑うものだった
「川を渡る橋の上に、異様な空気を漂わせる偉丈夫が一人おります!
その偉丈夫が立ちはだかっており、兵が進めません!」
一刻も早く劉備を打ち取らねばならないこの時に、なぜそのような事態が起こっているのか?
曹操は怪訝な顔をしつつも、自分の目で確かめるために、馬の尻を叩いて先を急ぐのであった
生温い風が汗を冷やす
風から伝わる生臭い血の臭いが鼻をつく
先ほどから大地も揺れている
100万の馬と人が一斉に駆け出すと、この広大な大地も揺らすことができるのだ
小さな橋に一人、佇む彼の身体も揺れていた
いや、震えているといった方がよい
彼方に薄く見える100万の人間たち
その先頭を駆ける彼の者を睨み、彼は憤怒を湧き上がらせて震えている
怒っていた
彼の憤怒は、遠く泰山すら震わせ、破壊するほどに怒っていた
この橋に至るまでの惨状を振り返り、彼は怒らずにはいられなかった
乱に喘ぐ無辜の民の嘆きをみて、彼は志を立てて今日まで走り抜いてきた
切っ先が蛇のようにうねった槍と共に、彼はひたすらに民のためと、民のために闘い続ける主君のために、彼は闘い続けた
当世一の武勇を誇った猛将も、都を焼いた暴虐の梟雄も、彼を見て恐れ慄いた
今や、一騎の武勇であれば、彼に対する者はいない
彼はそれほどまで強く、そして揺るがぬ志を抱いていた
だが、この惨状はなんだろう
我が主君を慕って必死に付いてきてくれる100万の民衆を、紅の敵兵はなんの躊躇いなく殺し、民の僅かな財産と女を略奪し、子や老人を踏みつけている
なにが一騎当千だ
なにが万夫不当だ
泣き叫ぶ子供一人の涙すら、止めてやれない
死んでいった老人の墓も作ってやれず、奪われた女も取り返してやれない
無力感と、自責の念で、彼は爆発してしまいそうだった
この無惨な地獄絵図を描く元凶に、彼の怒りが向けられるのは当然のことだった
彼の背の先には、信じる主君と、それに付き従う無辜の民衆がいる
迫り来る紅の暴風を、この橋から絶対に通すわけにはいかない!
時を待たずに、敵は来た
紅の外套、紅の鎧兜、紅の騎馬、紅の将帥旗
河北の群雄を滅ぼし、大陸北東を征して天下に覇を唱える紅の覇王・曹操
そして曹操率いる精鋭100万の紅の青州兵たちが、彼の前に整然と並び立っていた
居並ぶ100万の紅の色は、今この大陸を染める色に他ならない
斥候から聞いた伝令を疑いつつも、曹操は目の前の光景に、憮然としていた
「まさかとは思うが、たった一騎で我が軍を足止めしようというのか」
嘲笑に似た物言いで、怒気を含ませながら曹操は言った
橋に一人、仁王立ちしていた彼は、愛馬に騎乗して、曹操率いる100万の軍兵を睨みつける
凄まじい眼光は、睨まれた将兵に底知れぬ不安と恐怖を抱かせている
高慢な振る舞いと物言いをしていた曹操も、眼光の凄まじさに、すぐさま肝が冷える感覚を覚えた
それは、曹操が未だかつて味わったことのない感覚でもあった
梟雄・董卓を単身で暗殺に向かい、命からがら逃げ去った時
人中の呂布と恐れられた呂布に命を狙われた時
数々の敗戦の時にも、これほどの寒気を感じなかった
それもそのはず
若かりし日の曹操とは違い、位人臣を極め、幾度となく死地を乗り越えてきた
更に、ありとあらゆる難敵を相手にしてきた屈強の青州兵と、百戦錬磨の将軍たちが一同に集っているのだ
対して、敵はたったの一騎
橋の上にたった一人、馬に乗ってこちらを睨みつけているだけなのだ
それが、なぜ肝を冷やすのか
もはや恐れる者などいないはずの自分が…
それは、過ちを犯した人間のやましさに似た感情だろうか
それとも、心の奥底で人がどこか畏敬せずにはいられない神聖な、良心の呵責ともいえようか
否、悪鬼魔神が天から降り立った時の恐怖感であろうか
少なくとも、今、橋の上に一騎で佇む彼の心に恐れは一片もなく
彼の血は烈火の如く熱く燃え盛っていることは確かだった
長い時のようなほんのわずかな沈黙の後、風が止んだとともに、青天の霹靂は起きた
「逆賊!曹操孟徳!!
貴様、漢室の禄を食みながら
犬畜生の如く!
帝の皇叔にして我が主・劉玄徳と
それに付き従う無辜の民の命を狙いに
犬馬の兵を引き連れてくるとは!
万死に値する!!
貴様のそのか細い首を
撥ねられる覚悟あってのことか!」
大気を震わせる大喝は雷霆の如く、鋭く敵軍を射抜いた
馬は暴れ、多くの者が我を失って頭から落馬し、絶命した
悪鬼に似た所業はすぐに報いとなって兵士たちを襲い、悔恨と懺悔の恐慌が敵軍全てに伝っていく
曹操に至っては、反論どころかもはや正気を失わずに体面を保つのがやっとだった
眠っていた野獣を起こしたのに似た恐ろしさは、曹操の眼を橋の上の彼へと釘付けにした
百戦錬磨の李典、楽進、張郃や夏侯淵、重鎮の夏侯惇に至っても、橋の上に佇む圧力に、恐れを抱かずにはいられなかった
董卓、呂布と希代の暴君や猛将に仕えた、曹操幕下随一の猛将・張遼ですらも、槍をひたと握り締めて、その恐怖と闘わずにはいられなかった
その雷喝は単なる猛虎の類いの、武勇に任せた言動ではなかった
真に民衆を想い、闘ってきた行動の人のみに授かれる聖なる力
即ちその力とは、天より定められし正義の力そのもの
雷霆の如き大喝は疚しき悪心全てを焼き尽くし、その憤怒の眼差しは不甲斐ない傲慢全てを打ち砕いて粉々にする
力あるものは剣を交えずとも、対するだけで相手を降参させるというが、そういった次元すらも超えていた
100万の青州兵が恐慌の嵐の渦中にありながらも、流石に曹操は一介の指揮官ではなかった
なんとしてでも味方の士気を上げて、橋を越えねばならないという気概が残っていた
「誰ぞ、あの者を打ち取ってまいれ!」
振り絞る声で命令を下すと、一人声を上げる者があった
猛将・夏侯淵の一子、夏侯覇である
少年といえる若き夏侯覇は、青い勇猛心を必死に滾らせて名乗りを上げ、そのまま橋へと単身突撃していく
橋の上の彼は、丸太のように鍛えられた剛腕にゆっくりと力を入れて、握った蛇矛を横に振るって空気を切った
勝負は、それだけで充分だった
彼に近付いた夏侯覇は、横一文字に振るっただけの槍から生じる風圧に吹き飛ばされたように、落馬して橋の下の川に身を落とし、溺れてしまった
その様子を見た100万の兵は、その地に二本の足をつけるだけでも難しくなっていた
曹操の思考は既に停止して、心中に空白を生み出している
その時である!
橋の上から動こうとしなかった彼が、単身で曹操に向かって馬を駆け出し始めた
地鳴りのような雄叫びをあげながら向かってくるその男は、まさに悪鬼魔神であった
曹操が理性を失い、一心不乱に馬の尻に鞭を入れて逃げていたことに気づいたのは、それから随分、後のことだった
後軍を指揮する荀彧が曹操の馬の手綱を握り、大きな声で諌めた時、ようやく曹操は冷静になって周囲を見渡した
敵するものなし、と意気揚々と、且つ整然と美しく並び立っていた100万の青州兵は、今やその勢いを無くし、算を乱して散り散りに逃げていっている
一体、何事かと強めに問う荀彧に、曹操は仔細を話しつつ、冷静さを失ったことに赤面した
荀彧はすぐに兵をまとめ、陣列を整えていく
また、斥候からの伝令で、橋が焼かれた報告を受けて
「しまった。伏兵があると訝しんでいたが、橋を渡らせずに焼くということは、伏兵など初めからいなかったということだ」
と、曹操は伏兵を恐れて逃げたことにして、体面を保とうとしたが、荀彧には単なる後付けの理由と、あっさり見破られていた
陣列が整い、士気も落ち着いて、改めて行軍を始めた曹操は、冷静に先ほどの状況を振り返っていた
劉備玄徳の下に、関羽以外にも、あれほどの豪傑がいるとは、と思考していると、はっと思い返すことがあった
それは遡ること10年、まだ曹操が大陸北部の覇を、河北の雄・袁紹と競い合っていた時のことである
袁紹配下に二人の猛将があり、名を顔良・文醜といった
数において負け、資源においても劣勢だった曹操麾下の軍は、その二人の猛将を打ち破れずに、頭を悩ましていた
その頃、劉備玄徳配下の猛将・関羽が故あって曹操麾下の客将として駐屯していたので、その関羽に先陣を任せて顔良・文醜と当たらせた
結果は関羽の圧勝であり、容易く二人を討ち取って、袁紹を反対に悩ませることができた
曹操はその時に関羽を賞賛して
「人中の呂布亡き今、関雲長に優る武勇の人物はおらぬ!」と喜んでいた
しかし関羽は首を振ってこう答えた
「某など足元にも及ばず、呂布、董卓らも恐れた者がおります」
喜びの余り、有頂天になっていた曹操が血の気を引くように、なにと驚いていた
続けて関羽は
「それは我が義弟、張翼徳。
若き日に八百八十八人の奸賊をたった一人で討ち取った男。
翼徳が一度、戦場に出て槍を振るえば、血の雨が降り、大地は赤く染まります。
あの呂布ですらも、翼徳を見れば敵わじと馬を翻して去った程でございます」
曹操は今頃になって、関羽のその言葉を思い出していた
礼節の人、関羽の単なる謙遜かとその時は思っていた
だが、それは違ったのだ
「あれが翼徳、関羽の義弟・張飛翼徳か。なんたること…劉備玄徳は、関羽だけでなく、あのような鬼神も側においているのか」
改めて、曹操は劉備とその配下たちを恐れて、背に寒気を走らせていた
単騎、100万の紅の兵を相手に恐怖を植え付けた橋の上の偉丈夫
その一騎当千・万夫不当の武将の名は、張飛翼徳といった…。
三国志を題材に、文章力の練習で書いてみました
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