第三話 素晴らしきこの世界
「あぅ!なぅおぁあ!(とう!ぬぅりゃあ!)」
「おやおや……勇ましい声が聞こえると思えばノワール様は剣に興味があるご様子、実に逞しい事ですなぁ。大きくなりましたら僭越ながら私めが教授させて頂きましょう」
「あぃ!」
今俺はレックスの部屋にお邪魔している。
レックスは床に座り込み、家庭用の包丁からククリナイフのような短剣、俺の身長二つ分はある剣などの手入れをしていた。
俺はその中の一本、ククリナイフのような短剣の柄を握って持ち上げようともがくが一向に持ち上がらない。
エグゼスとのやり取りから数週間が経った。
そして分かった事がまた一つ増えた。
ここは、地球じゃない。
仮に地球だとしても俺の生きていた時代より遥か昔もしくは遥か未来だろう。
正直、窓から見た巨大樹とルルイエの見せた妙な呪文とその効果を目の当たりにした時から「ここ、地球じゃないのかな」とおぼろげながら思ってはいた。
妙な呪文を目の当たりにし、テンションが上がるやら訳が分からないやらで目を白黒させていた時、ルルイエはルルイエで俺が立っていた事に気付きテンションが上がってエグゼスを道連れに小躍りしていたのは記憶に新しい。
家の中を注意深く観察するようになったのはその後からだ。
よく今まで気付かなかったもんだ、と我ながら呆れてしまう。
地球には無い窓から見える巨大樹を筆頭に、窓から見える道を意識して見ていると羊のような角を生やした馬がカッポカッポと馬車を引いている。
黒月狼とかいう種類のペット、怪我を瞬く間に治癒させる呪文、そして今俺が弄っているこの剣。
飾り物にしては刃がよく研がれていて、窓から差し込む日差しを受けて鋭い光を発しているこの短剣は間違いなく戦闘用の物だ。
俺の横でニコニコと柔和な微笑みを浮かべているこのレックスも暇な時があれば庭で長剣を振り回しており、実に洗練された無駄の無い動きだった。
ここまで揃えばいくら鈍い俺でも確信を持った。
ここは異世界、それも剣と魔法が存在するリングサーガのようなファンタジー世界なのだと。
幼少時であれば誰もが憧れるであろう魔法使いが実在する世界、呪文を唱えれば当たり前のように火の玉を出し、傷を治し、風を巻き起こせるのだ。
その事実に気付いた時の最初の感想は「なんて素晴らしい!」の一言に尽きた。
俺だって人間だ、幼い時はそういうファンタジーの本だって読んで貰った事がある。
俺に親は居なかったから勿論施設での話だけどな。
僕だって飛んで見せる!といって窓からカッコよく落ちて重症を負った事は懐かしい思い出だ。
歳を重ね、銃を持ち、戦争に染まって人の命を奪い奪われる生活に浸りながらもそんな世界があれば良いな、と頭の片隅で思っていた。
そして俺はそれが実現する世界に生まれ落ちた。
こんな奇跡があるんだろうか。
なんて面白そうな世界だ。
きっと地球には無い素晴らしい宝物や道具に満ち溢れているんだろう。
元々死ぬ間際まで冒険者稼業に身をやつしていた身だ。
胸が高鳴らないワケが無い。
赤ん坊という自由に動けない状況がもどかしい。
気持ちばかりが流行り、まだ見ぬ世界を想像するとソワソワワクワクと心が落ち着かない。
けど。
宝物なんかより大切にしなければいけない事がある。
生前俺には母も父も居なかった。
しかし今ではルルイエという母がいる。
父親の所在は分からないが、片方でも親が存在しているのだ。
家族を蔑ろにした過去は捨てまい。
むしろ胸に刻むんだ。
ルルイエ大事、家族大事。
それが使用人だろうがメイドだろうが俺が家族だと認めれば家族なのだ。
俺トーちゃんいねーからよぅ、複雑な家庭でよぅ、なんて同情狙いでしかないアホみたいな事は言わない。
むしろトーちゃんの分まで大事にしてやろうではないか。
少し天然で不器用で変わり者な母だが愛すべき母だ。
俺は決意した。
新世界では過去の失敗はすまい。
嘆くよりも失敗を養分としてこれからの人生を盤石な物にしてゆくのだ。
母を悲しませはしない。
ルルイエの子、ドラゴリウム家の長男として家族を守っていこうと、幼い体ながらも胸に強く刻み込んだ。
***
月日は巡り、俺は一歳になった。
「お母さん、この本読んで欲しい」
「えーまたこれー?昨日も一昨日も読んだじゃない」
「この話が好きなんだ。駄目かな?」
「へーきへーき、駄目なんてお母さん言わないよ!……はぁ……本当にこの話が好きなんだね」
「ありがと」
ルルイエは小さくため息を吐きつつ、俺の持って来た本を受け取る。
俺が渡した本は『魔王ヘカトンと呪われた勇者』というここ最近マイブームであるおとぎ話を題材にした幼児向けの本で、夜寝る前に必ず読んでくれとせがんでいる。
在り来たりなヒロイックサーガだが幼児向けとは思えないほどクオリティなのだ。
話の内容は題名の通り魔王ヘカトンと勇者の戦いが描かれており、出会いと別れ、恋やら愛やら嫉妬やら裏切りやらがまるで著者がその場にいたかのように細かく、ふんだんに盛り込まれている。
著者の名前はシャリオというらしい。
名前からして女性だろうか?
しかしこの勇者、とんだナンパ者だ。
王国の王女様からパーティで出会った貴族の娘やら仲間の法術士やら手当たり次第に口説きまくっている。
数打ちゃ当たるどころかそこはヒロイックサーガ、女性からの返事が全てイエスで帰ってくる
。
あくまで幼児向けなのでそこらへんは綺麗な台詞でぼかされているが俺の目は誤魔化されない。
けどそれも含めて面白いんだよな。
「突然勇者の後ろでドカーン!ズドーン!危ない!ライバルだった戦士がビューんと飛び込み勇者を庇いました。なんで俺を助けたんだと勇者は言いました。へっ貴様を倒すのはこの俺様だからな、こんな所で死なれちゃ困るんだよ、はっはっは。戦士は元気に笑います、しかし実は今のドカーン!で戦士の両手足は吹っ飛び、無駄に暑苦しい彼は役立たずのボロ雑巾に成り果ててしまったのです」
ルルイエが字を指でなぞり、音読して物語は進んでいく。
だが問題点が一つある。
「お母さん、戦士の両手足はちゃんとあるよ?ドカーンていう爆発も盾で防いでるよ?」
「いいのいいの。この方が盛り上がるかなって思ってさ!」
ルルイエによる物語の改変である。
彼女はこの本のみならず他の物語も「これ、こうなったらもっと面白い」という思考を次々と試しており、本来とは別のストーリーへと置換してしまうのだ。
置換されたストーリーが面白いかは別として、様々な切り口で展開してゆくので今回はどうなるのか、という楽しみもある。
それと効果音や擬音の多さも特徴だ。
爆発や素早く、などの言葉を効果音として読み上げる事がよくあるのだ。
以前指摘した際は、「ノワールにはこの文字難しいと思って」と言っていたので意図的にやっているらしい。
ちなみに効果音の前にはきちんと小声で「んと、爆発はドカーンだよね」と言っているので本来の読み方もきちんと伝わっている。
補足しておくが。この物語の今のシーンは勇者の背後で爆発が起き、飛来した無数の瓦礫を戦士が盾で弾く、という流れだ。
昨日の話では戦士が爆発に巻き込まれて死んでしまうというストーリー、その前は戦士が爆発するという流れだった。
余りにも戦士が不憫すぎる。
ルルイエは戦士に何か恨みでもあるのだろうか。
「こうして勇者の活躍により魔王ヘカトンは倒れ、世界に平和が戻ったのでした。めでたしめでたし……っと。さ、もう寝なさい」
「はい。ありがとうお母さん、おやすみなさい」
「どういたしまして。おやすみノワール」
ルルイエはあくびを噛み殺しながら枕元にある点灯石の明かりを消す。
明かりの消えた室内には月明かりが緩やかに差し込み、窓からは暗闇に広がる満天の星空がよく見える。
明日は何を読んで貰おうか。
そんな事を考えながら俺は瞼を閉じ、ゆっくりと眠りに落ちていった。
次の日、目が醒めるとルルイエはもういなくなっていた。
ルルイエは毎朝早くに家を出て、村の学校のような所で教師をしており、それで賃金を貰っている。
とレックスが言っていた。
ルルイエが教師……一体どんな授業をするんだろうか。
機会があればお邪魔してみたいもんだ。
働くママンに感謝して今日もメイドのリリスが用意してくれた離乳食をもくもくと食べる。
既に一人で飯は食えるようになっているので、もう暫くすると離乳食が終わるはずだ。
離乳食ほど食っていて味気ない物は無い。
しかし栄養は栄養なので残さず食べる。
ありがたやありがたや。
俺は以前エグゼスに襲われてから、出来る限り身体を鍛える事に決めていた。
まだ一歳に成り立てが何を、と思うかも知れないが思い立ったが吉日、何事にも早過ぎるという事は無い。
かといってハードなトレーニングで身体を壊しては意味が無いのでとりあえず腕立て腹筋背筋の三つを少しずつ行う事にした。
朝食を取り少し部屋で身体を休めてからサクッとトレーニングを終え、庭に出てランニング。
ドラゴリウム家の庭は広い。
サッカーコート並みにはあるのでは無いだろうか。
そんな広々とした庭にはレックスが手入れをしている花壇や家庭菜園などが点在し、とても賑やかな庭になっている。
ある程度走る距離を決めてから、全力疾走とジョギングを規定数繰り返し休憩を取る。
始めはレックスもリリスもまだ早いと止めて来たが今では休憩時に水やタオルなんかを持って来てくれ、庭を駆け回る俺を温かい目で見守ってくれる。
お昼まで肉体的トレーニングを行い、昼食を摂る。
その後は家にある書物を読み漁り、知識の拡張と魔力の勉強をする時間が始まる。
ルルイエの部屋には床から天井まである立派な本棚があり様々な書物が置いてある、なので学ぶに困る事は無い。
読んでいて分からない単語があればリリスでもレックスでも捕まえて意味を聞けば普通に教えてくれるので案外スラスラと本を読む事が出来る。
幼いからなのか出来が良いのか分からないが、俺の新しい脳味噌は全ての知識を尽く吸収してくれる為、とても助かっている。
沢山あるルルイエの蔵書から何冊か抜き取ると、ルルイエの机の上にドサドサと置き、レックスから借りた羽ペン、墨壺、羊皮紙を広げ、本のまとめ作業に入った。
俺が現在読み進めている本は以下の通り。
⚪︎世界漫遊記。
⚪︎ナゼナニ魔物大図鑑。
⚪︎ナゼナニ世界大辞林。
⚪︎ナゼナニ錬金術〜家庭で出来る!お母さんの為の初級錬金術〜
⚪︎ナゼナニ法術〜家庭で出来る!お母さんの為の初級治療術〜
⚪︎ナゼナニ魔法入門編。
⚪︎魔力の全て。
⚪︎遺跡を巡る。
以上だ。
これでも絞った方で、ルルイエの本棚にはまだまだ面白そうな本がギッシリと詰まっている。
全て読破するにはそれなりの時間がかかるだろうが出来れば目を通しておきたい所だな。
世界漫遊記はそのタイトル通りこの世界のあらゆる大陸、国の農業、畜産、気候、宗教など様々な特徴が記載されている本だ。
ちなみにレックス曰く今住んでいるこの地域はバルザス大陸にあるマルケス領のウルガ村と言うらしい。
ウルガ村のあるマルケス領は内陸に位置し、大した魔物も居らず気候も温暖で一年を通してとても過ごし易い地域なんだとか。
ナゼナニ大辞林とナゼナニ魔物大図鑑はかなり分厚く重量感タップリの本で、鈍器と言っても過言では無い出来になっている。
このナゼナニ本はシリーズ化している本らしく、本棚の一段全てがナゼナニシリーズで埋まっている。
そこからチョイスしたのが上記の五冊であり、俺の願望が書籍化したと言っても過言じゃない本達だ。
魔物大図鑑のほうは流し見でいいとして大辞林は肌身離さず携帯するように決めた。
重くてかさばるがトレーニングの一環と考えれば苦ではないし、分からない事が有れば直ぐに調べる事が可能だしな。
いざとなれば鈍器として活躍してもらおう。
もしエグゼスがまた襲って来たら……爪を防いで下からこうやって、こう来たらこう、大辞林でアッパーかそれとも脳天に振り下ろすか……っと違う違う。
思わず大辞林を武器に戦う想像をしてしまった。
ふと視線を大辞林に戻すと一輪の押し花が付箋として大辞林に挟まっている事に気が付いた。
何と無くそのページを開こうと手を伸ばした瞬間だった。
「フルルルル……」
「うぁ!エグゼス!」
俺の横にはエグゼスが喉を鳴らすような声を出し、俺を見つめるように目を合わせたまま行儀良くお座りしていた。
「いつからそこにいたんだよ。全然気付かなかったじゃないか」
「ナォン!オン!」
「ど、どうしたんだよ」
エグゼスは目を合わせたまま大きな声でいきなり吠え始めた。
一回吠える毎に後ろに下がっていくのがとても微笑ましいが、エグゼスが吠える所は初めて見たので少し驚いている。
以前襲撃に遭った時から一回も吠えた事なんて無かったのに、俺の驚きは余所にエグゼスはリズムよく吠え続けている。
とりあえず一撫でして落ち着かせようと席から下りるとエグゼスはピタリと吠えるのを止めた。
「何だってんだ……ん?これは……まさかお前」
エグゼスの足元にはルルイエが使うハズだった毛糸玉が一玉転がっていた。
「アォフッ!」
俺の視線が毛糸玉に向くと、エグゼスは短く一声吠えて前足でコロコロと毛糸玉を弄り始めた。
まさか遊んで欲しいのだろうか。
馬鹿言え、一歳になったとはいえ体格差が直ぐに埋まるもんでもない、むしろ俺が遊ばれるわ。
とは言え遊んでやらないとずっと吠えてそうだしなぁ。
どうしたもんか。
エグゼスの足元に転がる毛糸玉を見ながら少し考えた結果、遊びがてら魔力操作の練習をする事にした。
魔力。
魔力とはこの世界の空気中に存在する魔法や法術の源である。
これは全ての術を行使する上で避けて通れないものであり、肉体強化や一般的な魔道具の使用にも必要な原素である。
肉体にも魔力は宿っており、その大小は先天的なものである。
多少の伸び代はあるが肉体的成長により総量が大幅に増加するなどという事は無い。
魔力の限界以上の消費、枯渇が起こると意識の混濁、喪失、最悪の場合は死に至る事もあり得る為、己の限界を知るのもまた魔力とより良く付き合っていく秘訣でもある。
と"魔力の全て"には記載されている。
だがその肝心なマナを捉える方法は記載されておらず、"ナゼナニ魔法入門編"にも書いて無かった。
ならば。
そのマナとやら、自力で捉えてみせようじゃないか。
肉体的に宿るマナとやらは俺の身体にも宿っているハズ。
むしろ宿って無かったらどうしよう。
「なぁエグゼス。お前にもマナがあるのか?どうやって解るんだ?」
「オゥア?」
エグゼスに聞いた所で言葉が解るワケじゃないから何の解決にもならないのは分かってる。
けど本には魔物でも固有魔法を持つものや魔法陣を展開して苛烈な魔法攻撃を放ってくる種類も存在する、と書いてあるんだ。
そういった魔物は感覚、本能的に自らのマナと操作方法を知覚するのだと推測される。
俺は人間だが、人間だって元々獣だ。
魔物に出来て俺が出来ないハズが無いのだ。
熱いパトスと何事にも縛られないフリーダムな思考、そして獣が持つ鋭敏な本能への執着。
来い、マナよ。
お前は何処だ。
俺は、俺はここにいる!
「グゥァ」
「あ!わ、悪いエグゼス」
気付けば目の前にいたエグゼスの顔を両側から握りしめており、顔がしわくちゃのブルドッグみたいになってしまっていた。
しかも俺の指が丁度エグゼスの口に入っていたらしく、エグゼスは不明瞭な発音での抗議を余儀なくされていた。
俺の目の前に剥き出しになったエグゼスの牙がある、肉食獣さながらの鋭い牙。
(待てよ……?)
俺が以前エグゼスに襲われた時、ルルイエは何をした?
傷付いた俺を魔法の力で癒してくれたじゃないか!
何でこんな事に気付かなかったのだろうか。
俺はエグゼスの顔を投げるように離し、急いで机から目的の本を抜き出して叩きつけるように床に広げた。
どこだ!
あるはずだ!
床に広げた"ナゼナニ法術〜家庭で出来る!お母さんの為の初級治療術〜"の目次の項目を指でなぞり目当てのページを探し出す。
⚪︎咄嗟の怪我でも慌てない!そんな時こそファーストエイド!
あった!これだ!
ルルイエが掛けてくれた魔法は中級だと言っていた。
これは初級の初級、ただの応急処置用の治癒魔法だが小手調べには充分だろ。
下手に攻撃魔法なんか使えた日には部屋がどうなるか分かったもんじゃない。
(ええと、何々……このファーストエイドは軽い擦り傷切り傷火傷は完治させ、軽微の打撲からお爺ちゃんの腰の痛みまで緩和します……か、大したもんだよ)
項目の下に書いてある効能にザッと目を通し、ファーストエイドの発動トリガーとなる呪文を読んでいく。
「たゆたう清浄なる癒しの源よ、我の言葉を指標とし、この者に小さき癒しの息吹を与えよ"ファーストエイド"」
……。
…………。
おかしいな……呪文は一語一句間違えていないはずなのにウンともスンともいわない。
ポーズが違うのか?
それとも気合か?
俺は頭を捻りながら思いつく限りのポーズを決め、何度も何度も呪文を唱える。
が--。
「はぁ……はぁ……ダメだ、出る気配が無い……」
あまりに呪文を唱え過ぎてファーストエイドならもう本を読まないで詠唱出来るというのに!
悲しいかな、俺の突き出した手はツヤツヤとした健康的な肌を煌めかせ、おすわりをして傍観しているエグゼスを指差したままだった。
まぁいい。
初心に戻ろう。
まずは法術とは何ぞやから見直すか。
□法術とは。
⚪︎法術【治癒】とは空気中に漂うマナを対象となる局部、および全域へ注ぎ込み対象の自然治癒力を活性化させて再生、再構築を促す術である。
*当たり前の話ではあるが、術の特性上、対象者が負傷又は鈍痛を生じさせており、尚且つ術者が対象者を認識していなければ術は発動しない。
……。
「ふぁっく!」
小さく書かれた注意書きを読み、刹那の硬直から一転本を思い切り床に叩きつけて毒付きながらまた同じページを開く。
「んだよそれ!当たり前じゃねぇか!マジファックだわ!誰も傷付いてねーよ!ピンピンしてるよ!ああもう!俺のアホぉ!」
いやホント馬鹿じゃないの俺。
おかしいな、俺はこんなに間抜けな人間じゃ無かった筈なんだがな……まさかとは思うがルルイエの遺伝とか……?
いやいや、人の所為にするのは止めだ。
気付かなかった、でも気付いた、それでオーケーだ。
「エグゼスちょっと爪貸して」
一通りの俺の動作を微動だにせず傍観していたエグゼスの前足を掴み、肉球を押してエグゼスのナイフのような鋭い爪を一本だけ出す。
こういう所は猫っぽい。
「いっ……!」
押し出したエグゼスの爪を自分の腕に当てて、スッと素早く引いた。
チクッとした痛みの後、浅く切れた所から薄っすらと血が滲んできたのを確認する。
傷が無けりゃ作ればいいのだ。
(そんで……)
ぷつぷつと血の玉が浮かんでいる場所を見つめ、その上に掌をかざす。
意識を傷口に集中させて先ほどから何度も復唱していたファーストエイドの呪文を再度唱える。
(おっおっ……?!キタキタきたぁー!これだ!これがマナの力か!)
ゆっくりと言葉を噛みしめるように詠唱してゆくと、身体の内側がフツフツと熱を帯びていくような感覚が湧き上がってくる。
それと同時に身体の周囲の空気がゆるゆると流れているのを感じる。
微弱なそよ風を浴びているようなこそばゆさ、木漏れ日を身に受けているようなほんのりとした温かみが俺を満たしてゆく。
気付けば掌から流れ出た光が血の滲む腕を包み込み、線が入ったような傷口は綺麗に塞がっていた。
「やっ……たあああぁぁ!あ、あれ……うそだ、ろ」
喜びに浸るのも束の間、両手を上にあげガッツポーズをとった姿勢のまま、身体中の力が抜けていくのを感じながら膝から崩れ落ちた。
ドサッ、という倒れた音を遠くで聞きながら俺は意識を失ってしまった。