第二話 徘徊する獣
俺がこの世界に生まれ変わってから半年が経過した。
今ではハイハイも出来るようになったし、この世界の言語も理解出来るようになってきた。
字を読む事は不可能だが会話ならば聞き取る事が出来る。
所々で理解不能な単語があるが、別段不便と感じる事も無い。
赤ん坊とはかくも柔軟性に優れた思考回路をお持ちなようで、乾いたスポンジのようにするすると知識を吸収出来るから素晴らしい。
生後半年でハイハイが出来るこの身体の成長速度には驚いたがベビーベッドで缶詰生活は流石に飽きていたので丁度良かった。
俺の第一子なんて生後九ヶ月まで匍匐前進だったのにな。
素晴らしい匍匐前進を持つあいつは軍人のセンスが有ったのかも……っと、そんな事よりもだ。
会話を聞き取る事が出来るようになって、ある程度の事が判明した。
最重要項目とも言える事、それが俺の名前だ。
ノワール。
ノワール・ドラゴリウム。
それが俺の新世界での名前だった。
そして母の名前はルルイエ・ドラゴリウム。
執事の名はレックス、メイドさんの名はリリンという。
我が家には俺を除くとこの三人しかいない。
父親どこいった、と思ったがまぁ母子家庭も珍しい事では無いし気にしない事にした。
喋れるようになり、機会があれば聞いてみようとは思うけどな。
メイドさんや執事のような使用人と暮らすのは初めてだが……細かく考えるのは好きじゃないしなるようになるだろ。
……生まれ変わっても適当なのは変わらないな。
それが死の原因でもあるわけだし、少しは気をつけよう。
で、だ。
言葉がわかるようになってから認識し始めたのだが、身体の周囲、というか身体の表面にモヤモヤとした物を感じる事がたまーにあるのだ。
これは何なのだろうか。
特に問題は無いがなんかこう……不快指数の高い梅雨に感じる纏わりつく空気のような感じなのだ。
けど梅雨独特のあの空気とは違って、ほんのり暖かくそれでいて身体に染み込むような初めて体感する不思議な感覚だ。
母や使用人達と意思疎通が出来るようになったらこれもさり気なく聞いてみるとするか。
そうそう、母と半年過ごして分かった事がある。
新しい俺のママンはかなり不器用で結構なドジっ子だという事だ。
何かに挑戦しても不器用が過ぎて九割失敗する、そんで挫折して投げ出すのだ。
実際俺がいる部屋にはその挫折の痕跡がそこかしこに点在している。
例えば縫い物。
恐らく俺のベビー服か靴下を編もうと思ったのだろう。
様々な毛糸玉が一抱えもある網かごにこんもりと盛られており、編み物なんだかこんがらがった糸なんだか分からない残骸がその頂点に無造作に置かれている。
どこをどうしたらそうなるのか、編み物をしている最中に自分の指も絡めてしまい、それを解くのだが別の所が絡まる。
何度か同じ事を繰り返し「あぁもう!やーめた!」とテーブルに突っ伏して編んでいた靴下になる予定だった成れの果てを毛糸玉の山に放り投げたのだった。
もう一つ、母は何で知ったのか知らないが、ある日鼻歌混じりの上機嫌で立派に育っている観葉植物の鉢植えを部屋に持ってきて「ノワール知ってる?植物が部屋にあるとリラックス出来るんだって!」と子供のような無邪気な笑顔で言っていたのを覚えてる。
けれども残念な事に、不器用さは植物育成にも影響が出るらしく、買ってきた観葉植物は僅か数週間でその身を散らしてしまった。
原因は水と肥料のやり過ぎで根腐れを起こしたせいだと俺は思う。
しかし観葉植物が枯れ始めた時母は「水が足りないのかなぁ……」と呟いてドボドボと鉢植えに水を注ぎ込んでいた。
俺が喋れたら間違い無く「やめろ!もう限界だ!」と止めていただろうが喋れないんだからしゃーない。
水受けに水が溢れんばかりに溜まってゆくのを生暖かく見守るしかなかった。
やがて植物は茶色くカサカサになりその身を散らした。
だが母は一度枯らしたぐらいではへこたれ無かった。
何を思ったのか、四個もの鉢植えを手に帰って来たのだ。
「前の植物は寿命だったのよ。だからお母さんピッチピチの子達を買って来たのよ!これでノワールも私もリラックスリラックスぅ!」
などと供述しており。
俺は「あぅあ!(アホか!)」としか言いようが無かった。
勿論ピッチピチの子達は数週間後、非情な現実をその身に受け無残な姿と成り果てたのだった。
後に残されたのは枯れた観葉植物五つと窓の外で降りしきる雨を眺めながらホロリと涙をこぼす母の姿だけだった。
「自然の摂理とはいえ、やっぱり命が散るのはいつ見ても辛いね……」
暗に自分の所為では無いと言っているが、原因はあんたの頑張りが空回りした結果なんだけどな。
そんな感じの出来事は多々あり、事例を上げればキリが無いので一先ずはこれくらいにしておく。
ハイハイが出来るようになり、家の中を散策出来るようになって家の事が少し分かってきた。
扉の下にはキャットドアのような小さい入り口が付いており、これを潜れば扉を開けられない俺でも各部屋にお邪魔する事が出来るのだ。
けれど、扉にそんな物が付いている事から必然的に至る事実がある。
「シュウウウウウ!!」
とまぁ、今現在俺は眼の前にいる全身に墨をぶち撒けたかのような真っ黒なフワモコの毛並みを持つ四足動物から思いっきり威嚇を受けている。
フワモコの毛は総立、尻尾も怒髪天を突くが如くギンギンにいきり立っており、今にも飛びかかって来そうな前傾姿勢を崩さない。
俺の背中にひんやりとしたものが伝い、それが恐怖からくる冷や汗だと認識するのにしばらくかかった。
赤ん坊でも冷や汗かくのな。
でも仕方無いかもしれない。
このフワモコはゴールデンレトリーバー並みの図体をしているのだから。
かたやこっちはハイハイ出来立てのただの肉塊である。
恐怖を感じない方がおかしい。
初めてキャットドアをくぐった時、なんかデカイなーとは思ったがその大きさがダイレクトで眼の前に現れるとは予想もして無かった。
だって今まで俺が寝てた部屋には入って来なかったんだもんよ!
「フゥゥゥゥゥゥ!!ナウゥゥ!」
あ、やばい。
前足カリカリしてる。
犬だか猫だかタヌキだか分からん身体のフワモコ獣が臨戦態勢だ。
「テメェ何メンチくれてんだ?あ?お?やっちまうぞ?ヤンのか、あ?」
このフワモコ獣にセリフを付けたらこんな感じだろうか。
路上の曲がり角で出会い頭にぶつかったチンピラが絡んでくる、そんな感じ。
実際こいつと遭遇したのも曲がり角で出会い頭にぶつかったのだから同じようなもんだろう。
違うのは自分の家の中だという所だけだ。
あぁせめて、せめてぶつかるのならグラマラスな美女が良かった。
大体なんなんだこいつは?
世界中を旅した俺だがこんな犬種?猫種?は見た事も聞いた事も無い。
肉食獣を思わせる牙と強靭そうな顎、瞳は猫の様に爛々と輝き俺の頭程ある足先にはギラリと鈍色に光る凶悪な爪が四本カリカリと床を削っている。
あんなよく磨いだナイフのような爪で撫でられたら最後、俺のプリンのような柔肌なぞ抵抗も無く切り裂かれる事は確実だ。
「ブシャアアアアア!!」
「あ」
冷静になろうとじっくり観察していたのがマズかった。
フワモコ獣は我慢の限界を超えたのか、全身のバネをフルに使って俺に向かって飛びかかってきた。
眼の前に迫る鈍色の爪が妙に艶やかで、アレで切られたらやっぱり痛いんだろうな。
なんて呑気な事を考えつつ俺はフワモコの塊に組み伏され後頭部を床に強打した。
迫る死の恐怖によりアドレナリンが溢れだしているのか、痛みは感じなかった。
身体中の血液がグラグラと沸き立つような感覚が全身を駆け巡る。
死んで生まれ変わって一年もしない内にまた死ぬとか笑えない、何の為に生まれ変わったのだろうか。
視界が赤い。
頭か瞼かどこかが切れて目に血が流れこんでしまっているようだ。
だがそんな事を気にしている場合ではない。
「あぅあやぁああうあああ!(タダで殺させねぇぞ畜生ごときがナメんじゃねぇぞおおお!)」
何が出来るってワケでもないがせめて齧り付くぐらいはやってやる。
窮鼠猫を噛む、ジャパニーズプロバードだ覚えとけ!
赤に染まる視界の中、全力で身体に被さっているフワモコの身体に掌底打ちをイメージして手を突き入れる。
しかし、やはり力が足りないのか、掌底はぽふん、という残念な音と共にフワモコの毛皮に呑み込まれたように見えた。
「ウギャオン!」
がしかしフワモコ獣は予想に反した叫び声を上げて掌底の動線をなぞるように吹き飛んだ。
吹き飛んだフワモコ獣は天井と床に挟まれてニ、三度バウンドしてから床に投げ出された。
投げ出されたフワモコ獣はだらし無く口を開け、白目を剥いてピクピクと細かい痙攣を繰り返しているだけで動く気配は無さそうだった。
(はい?)
何だ?
俺は今何をした?
そう、俺はただ我武者羅に全力で掌底を突き入れただけだ。
それがどうしてこんな事になった?
いやまぁ助かったんだから良いんだが赤ん坊の力であんな瀕死になる程のダメージを与えられるワケが無い。
「ちょっと!どうしたのノワール!エグゼス!大丈夫?!」
しまった。
ルルイエに見つかった。
この騒ぎを聞き付けて来たのだろう、廊下の曲がり角から悲鳴に近い声を上げてルルイエが走って来た。
まだ自力で上半身を上げる、なんて事は出来ないので、俺は首だけ曲げてパタパタと走り寄るルルイエをボンヤリと眺めていた。
手に持っていたタオルを投げ捨てて俺を抱き上げるルルイエの顔は真っ青で今にも泣きそうだった。
ルルイエは俺を抱き上げた後、床に伸びているフワモコ獣に駆け寄ってその身体を揺する。
どうやらこのフワモコはエグゼスと言うらしい。
名前があるって事はこの家に住んでいるというワケで。
ルルイエの反応からそれなりに大事な存在と見受けられる。
というかペットなんだろう。
俺には凶暴な獣にしか見えないけどな。
「エグゼス!しっかりなさいエグゼス!ノワールも血だらけで!どうせエグゼスがやったんでしょ!起きなさい!」
ルルイエはエグゼスの身体を起こし、舌を牙の間からデロンと垂らしたエグゼスの鼻面をペチペチと叩くが、当のエグゼスはワンともニャーとも言わなかった。
「あらら……とりあえずエグゼスは放っといて先にノワールよね。血は酷いけど大した事は無さそう……」
ルルイエは俺を床に寝かせ、ペタペタと俺の身体を触り、傷などを確認していく。
赤く染まった視界も今はクリアーになっているからこそ分かったのだが、俺はかなり出血していたらしい。
手どころか腕から胸にかけてべっとりと血で濡れたルルイエを見れば一目瞭然だ。
ルルイエに抱かれて安心したのか、今更ながら体の各所から鋭い痛みと骨が軋むような鈍い痛みが襲ってきた。
血を流し過ぎたのかも知れない、頭が朦朧として気を抜けば意識が飛びそうだ。
一体何処をどれくらい切ったのだろう、と俺が考えているとルルイエは咳払いを一つしてから不可思議な事を言い出した。
「でも赤ちゃんだし、何かあっても嫌だから回復呪文かけておこっと。たゆたう清浄なる癒しの源よ、我の言葉を指標とし、この者へ力の一部を体現せよ--"キュア"」
ルルイエの口から出たまるで魔法使いの呪文のような、厳かな詩のような言葉を聞いた時俺は一瞬目が点になった。
ルルイエは少し変わった女性だとは思っていたがここまでファンシーだとは思っていなかった。
せめて血を拭いて傷口の消毒を……と思ったのもつかの間、俺の身体にかざしていたルルイエの手がルルイエの言葉に答えるように乳白色の光に包まれた。
そしてその光が流れるように俺を包んでいくのが解る。
シルクで優しく撫でられているような、そんな心地良さが全身を包む。
ルルイエの手から発せられるほんのり温かい乳白色の光が消えると、全身を苛んでいた痛みも綺麗サッパリ消えていた。
(こりゃたまげた……)
驚愕の出来事に朦朧としていた意識も芯を取り戻しつつある。
これは一体どういう事なんだろうか。
「よしっ!いっちょーあがり!一応中級掛けといたし大丈夫大丈夫、もう痛くないでしょ?どう?ノワール」
「あぅあ!あぃあぃ〜!(すげえ!よくわかんねーけどスゲエよ!)」
「うふふふふふ。ノワールったらはしゃいじゃって〜お母さん凄いでしょ?さてと、次はエグゼスね……あ、大丈夫みたい」
「ぅあ?」
気がつけば後ろでカリカリというあの爪で床を引っ掻く音が聞こえてきた。
仰向けの状態から自力でうつ伏せになり、エグゼスが倒れていた方へ視線を移す。
先程まではピクリともしなかったエグゼスだが、今はおぼつかない四肢で床を踏みしめるように立っており、まだダメージが抜けきれないのか頭を軽く振っている。
あの状態では一気にトップスピードまで加速する事は難しいだろうが、また襲いかかられたら厄介なので、俺は膝立ちしているルルイエにハイハイで急いで近付きしっかりとルルイエの太ももにしがみ付いた。
必然的に立ち上がる形になっていたのだが、今はそれどころでは無い。
「エグゼスダメでしょ!ノワールは赤ちゃんなんだから貴方も少しは分かりなさい!」
ルルイエもふらつくエグゼスの方を見ている為、俺の行為にも気付いていないらしい。
「グルルルル……」
エグゼスは低い唸り声を上げ、俺を直視しながらゆっくりとこちらへ向かって来た。
「そうよ。分かればいいの」
ルルイエはエグゼスと何か通じている所でもあるのか、未だ唸り声を上げているにも関わらず警戒した様子は見られない。
むしろ逆に微笑みつつ、エグゼスの行動を見守っている節さえある。
ヒタ、と俺とルルイエの前で足を止めたエグゼスは鋭い牙を剥き出しにし、舌を出してハァハァと 呼吸を繰り返しており、若干の興奮状態にあるのが分かった。
俺はエグゼスが飛びかかってくる先程の光景がフラッシュバックし、思わず身構えてしまう。
しかし俺の警戒心とは裏腹に、エグゼスはストンと腰を下ろし左右の足をゆっくりと畳み床に伏した。
「あら、エグゼスもノワールがご主人様の一人だって理解出来たみたいね。ほらノワールもこんにちはしなさい。黒月狼のエグゼスよ、この子は自分が認めた相手にしか忠誠を誓わないちょっと面倒くさい子なんだよ。ほら、よ、ろ、し、く、ねー」
ルルイエはエグゼスの両前足を掴みくねくねと不思議な踊りを披露してみせた。
くねくねと無理矢理身を捩られるエグゼスの表情は少し迷惑そうに見えた。