神田 香奈
入学して、僕に初めて声をかけてくれたのが香奈だった。
家族を失い住み慣れた土地を離れ、友人とも離れ一人ぼっちになった僕は、人懐こく明るい彼女の笑顔に救われた。
小柄で大きな瞳をもつ彼女はどことなく小動物を連想させる。
ただ、香奈は感情が高ぶると早口になり、それはどんどん加速して、次第に言葉が口に追いつかなくなる。
香奈はことあるごとに、よくかんだ。でもそれは香奈の欠点などではまるでなく、子犬が戯れるみたいに忙しなく喋る彼女は、なんとも言えず可愛らしかった。
稲賀野大学の正門を通り抜けると、枝垂桜がまるでトンネルのように歩道に垂れ下がっている。
春に満開となったこの桜の下を通り抜けるのはなんとも言えず気持ちがいい。
何やら歴史ある樹木らしく、少し離れた場所には腰かけて桜を鑑賞できるように、ベンチも備え付けられていた。
七月のある日、香奈は一本の桜の木の下に寝転び、空を見上げていた。
突き抜けるような空にポツリと一つ雲が浮かんでいた。
「芦尾君ね。」
突然声をかけられ、僕は驚いた。
空を見上げる彼女は僕に気づいていないと思ったからだ。
「よくわかったね。」
「足音よ。あなたは足音が特徴的なの。」
「何を見てたの。」
「雲。好きなのよ。雲を見るのが。」
そう言って香奈は黙り込んだ。
僕は香奈の隣に腰をかけた。
香奈の隣の木陰は、涼しくて気持ちが良かった。
「私ね、ときどき思うの」
僕がうつらうつらとしていると、香奈がつぶやくように言った。
「全く同じ形の曇ってないじゃない?」
うん。と僕は相槌を打つ。
「似ていてもどこかは違うじゃない?どれだけ似ていても、少し違うのよ」
始まるな、と僕は思った。
「だから私もったいないと思うの。だって今見逃すと、もう一生この形の雲をみることはできなくなるのよ」
空を見るのが、雲を見るのが好きな彼女はどんどん加速していった。
正直何を言っているのか僕にはよくわからなかったけれど、そんな事はどうでもよかった。
くるくると変わる彼女の表情と、いつかむのかが、今の僕の最大の関心事だった。
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枝垂桜から少し離れたベンチに高崎は腰かけていた。
右手をかばんに突っ込んだまま、首をかしげている。
桜の木の下にいる女が「痛っ」と声を上げた時には眉をひそめて、しばらく考え込んだ。
そして
「あっ」
と呟き、近くのコンビニまで電池を買いに行くために立ち上がった。