水川 莉雄
静かな森の中に、男の怒号が響く。男の両目は厚い布で覆われており、全身にひどく汗をかいていた。素足は小枝で切ったのか、微かに血がにじんでいたが、男は気に留めもしない。それどころではなかった。
その男の名は、水川 莉雄。来週末に合宿を控える高校剣道部主将だ。
剣道部の合宿は、毎年夏に海辺の旅館を貸し切って行われていた。防具を着込み、砂浜を走る剣道部の姿を見て、夏を感じる地元民も少なくないほどの伝統を持っている。
水川は両目を布で覆い、森の中で独り木刀を振るう。防具はまとわぬ道着姿で、もちろん剣道部らしく裸足といった格好だ。それには深い理由があった。合宿最終日に行われる西瓜割り大会に向けての練習だった。
主将といえど、水川の実力は中の上といったところだ。三年生の部員が水川だけだったので、主将を務めているが、実力的には二年生の後輩にも劣っている。試合ではどうにも敵わないので、せめて西瓜割りで威厳を示そうと必死になっていた。
全身汗びっしょりになり、木刀を振り続ける。額に流れる汗を吸い込み、目隠しも重くなってきた。
水川は3時間弱にも及ぶ練習でいくつもの西瓜を叩き割っていた。無惨に砕かれた西瓜が辺り一面に飛散している。二十数個ならべられていた西瓜も、残すところあと二つとなった。
元々はよく冷えていたのだろう。西瓜の表面には水滴が浮かんでいた。それがまるで涙のように、つつつと流れ落ちていく。砕かれた仲間の無念を思ってか。それとも悲惨な自らの未来を思ってか。
水川は木刀を強く振り下ろした。その一撃は見事に西瓜の中央を捕らえ、果肉が飛び散った。
最後の一つの西瓜に、果肉がへばりついた。まるで血のように真っ赤な果肉だった。
水川は目隠しを外さなかった。西瓜を叩き潰したことは、確認するまでもなく、手に伝わる感触でわかる。水川は最後の一つの西瓜の気配を探った。
いくつもの西瓜を叩き割ってきたからだろうか。水川には西瓜がどこにあるのか感じ取ることができた。木刀を優しく握りしめ、正眼の構えをとった。
そのときだ。横に三本。西瓜に亀裂が走った。
水川が目隠しをしていなければ、その亀裂が目や口に見えただろう。悲しそうな、冷たい怒りを秘めたような、まるで般若のような亀裂だった。
水川は木刀を振り上げた。ゆっくりと決められた型をなぞる様な動作だった。ひたっと木刀の動きが止まる。世界から音が消えた。
水川が木刀を振り下ろす。今度は素早く、正確に西瓜を目掛けて。
カツン。
乾いた音を響かせて、木刀が大地を叩いた。
おもわず水川は目隠しを外した。しかし、そこには西瓜はなかった。
目の前にあったのは人影だ。左手に西瓜を、右手にリモコンを持った、奇妙な男だった。
男は言った。
「この西瓜をいただけないだろうか?」
水川は戸惑った。突然現れたこの男の目的がまったく見えない。
「急いでいる。いただけないだろうか?何か特別な理由があってこんなことをしているのか?」
水川は答えた。
「西瓜を割りたい。そして尊敬されたいんだ。」
男は言った。
「わかった。それなら俺のかわりにこの西瓜を持ってまっすぐ進め。」
「なぜだ。なぜそんな」
「急げ。行けばわかる」
奇妙な男ではあったが、その鬼気迫る様子に押され、水川は西瓜を受け取り走り出した。真っ直ぐにひたすら走った。途中倒木が行く手を阻み、地を這う根に足を取られそうになったが水川は走った。
差し込む日の光が強くなり森を抜けようとしたとき声が聞こえた。
「やばいって、やっぱ救急車を呼んだほうがいいんじゃないか?」
「俺に聞くなよ。でも救急車って大袈裟じゃないか?もう少し様子を見たほうが」
「そんなこといってる場合か」
「くそっ高崎のやつまだかよ。どこまで飲み物探しに行ってんだ」
見ると数人の人影が、何かを囲んで話している。なんだろう、と水川が駆け寄ると一人の老人が倒れていた。
「どうしたんだ?」
水川は思わず声をかけた。すると老人を囲んでいた一人が
「このじいさんが倒れていたんだ。酔っ払いかとも思ったんだけどよ、熱中症っぽいかも」
と答えた。
老人をみると顔色が悪く、呼吸が乱れていた。軽く痙攣を起こしているようにも見える。
「救急車を」
すぐさま水川は叫んだ。
「確かに熱中症だ。それも重度の」
水川は剣道部の練習中に何度か熱中症で倒れる部員を見てきた。彼らの症状とこの老人の症状は酷似している。救急車を呼ぶように指示を飛ばした水川は、老人を日陰へと運んだ。
体を冷やし、水分を取らせないと。そう思い、水川は気が付いた。
「これを」
水川は西瓜を真っ二つに割り、果肉を絞るようにして、西瓜の果汁を老人の口に流し込んだ。のどに詰まらせないように細心の注意をはらった。
その西瓜が効いたのかはわからない。だが、老人は助かった。危ないところであったが、ぎりぎり一命を取り留めた。
その老人は地元の名士であったため、水川は名士の命を救った男としてもちろん部員たちにも尊敬された。