居酒屋とリモコン
ある金曜日の晩、高崎は駅前の居酒屋『マンバ』に出かけた。不意に『マンバ握り寿司』が食べたくなったのだ。
マンバは個人経営の居酒屋で、店内は狭いが酒の種類は豊富に取りそろえている。また、酒の種類もさることながら、料理の味がなにより売りで、その味を求めて来る子ども連れの家族の姿も珍しくない。高崎が食べたくなった『マンバ握り寿司』も人気メニューの一つだ。
高崎が駅前に自転車を止め、マンバに向かって歩いていると、前から一組の男女が歩いてくるのが見えた。みなりからするとまだ学生のようだ。微妙な距離感から彼らの関係がうかがえる。二人は並んで『マンバ』の暖簾をくぐっていった。
高崎はそれに続いて店内に入る形になった。
金曜日の夜という こともあり、店内は少し込み合っているようであった。前の男女はすぐに席へと案内されたが、高崎はしばし待たされることになった。腹のすいている高崎は彼らを少し恨めしく思った。
三分ほど入り口で待っていると、元気のいい店員が「お席にご案内いたします。」とカウンターに案内してくれた。店内に「ご新規一名入ります。」と大きな声が響く。
高崎はとりあえず生ビールを注文した。ビールはすぐに届けられた。それを一気に半分ほど飲み干すと、次のビールと少しのつまみ、それに『マンバ握り寿司』を注文した。
料理がくるまでの間、高崎は小説を片手にビールを飲んだ。
マンバは、店内のカウンターから少し離れたところにテレビを設置している。十数年前まだ、客入りが少な かった頃に、店長が暇つぶしのために置いた物だったのだが、今では常連客が酒の肴に使っている。今日は野球の日本シリーズが行われていた。
「だぁ、クソ」
高崎の隣に座る男が、バッターが空振りした様子を見て嘆いた。酔うと周りのことなど微塵にも気にならないのか、男はブツブツ言いながら手に持っていたジョッキを、荒っぽくカウンターにおく。ジョッキはガンと音を立て、少量のビールがこぼれた。
「ここのところの藤本は調子が悪すぎる。」
目を真っ赤にして男はまた嘆き声をあげた。すると隣の席に座っているもう一人の男が賛成した。
「僕が監督なら、彼を起用しませんね。」
「俺が監督なら2軍落ちだよ。」
二人ともスーツ姿であるところをみると、同じ職場の仲間だろう か。一週間の出勤の憂さ晴らしに、ビールを一杯引っかけに来たようだ。
ビールを一口グイッと飲むと、男たちは野球談議を始めた。主力のピッチャーの調子がいまいちだとか、今シーズンはどこの球団は調子が良かったなどと、話が進むにつれて、彼らの口調はどんどん熱くなっていく。二人の声はしだいに大きくなっていった。
隣で大声でしゃべられると、聞きたくもない野球の話が高崎の耳にも入ってくる。気が散り、読書と料理に集中できなくなってきた。
高崎はどうしようもなくなり、鞄にそっと手を忍ばせた。そして、例のごとく誰にも気付かれないように、鞄からリモコンの頭だけを出し、テレビの方に狙いを定める。
「野球はドラマだ。」
男のその言葉を合図に、高崎はチャンネルを変え た。
突然、野球が恋愛ドラマに変わり、隣の男がカウンター内の店員を睨みつけた。運悪く目の前に居た店員は、きょろきょろ辺りを見渡す。あまりのタイミングのよさにもう一方の男はビールを噴出していた。
高崎は思わずトイレにたった。自分がしたことが原因とはいえ、厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだ。ようを済ませると、携帯電話をいじって少し時間をつぶした。
席に戻るとき、自分の後ろのテーブル席に店の前で見かけた男女が座っていたことに気がついた。何気なく目を向けただけだったが、男の顔色が燃え上がるように真っ赤であることが容易に分かる。少し気になったがそのまま席に着いた。
隣の客は少し静かになっていた。高崎は安堵し、寿司を一つ口に入れた。
そのまま一 時間ほどたち、高崎がそろそろ帰ろうかとしていたときだ。
突然後ろの青年が立ち上がった。その勢いで椅子が派手に倒れ、大きな音をたてる。何事かと、その場に居合わせた者の視線が集まる。
「僕と付き合ってくれないか。」
一瞬、店内に静寂が訪れた。全員の意識が青年に集中した。だが、青年はそんな店内の様子に全く気がつくことなく、相手の女性を見つめていた。
高崎は自分の腕時計に目をやると、そっと鞄に手を忍ばせ、テレビに向ける。高崎はチャンネルを変えた。テレビ画面にテロップが流れた。金曜ロードショウの『タイタニック』のエンディングだ。高崎はボリュームを上げていく。
青年はもう一度言う。
「僕と付き合ってくれ。」
まるでその二人だけが切り抜かれた ようだった。誰も立ち入ることのできない不思議な空間があった。
店内にはセリーヌディオンの『MY HEART WILL GO ON』が響く。
誰も声を発しなかった。もはや様子を伺うどころではない。全員が固唾を呑んで二人を見守っていた。
「ありがとう。」
彼女は少し頬を赤らめた。青年は彼女をじっと見つめ、口元を緩める。
見つめあう二人は、まるで映画のワンシーンのようだった。
「でも―――。」
停止ボタンを押されたように全員の動きがピタッと止まった。セリーヌディオンでさえ止まった。
誰かの「えっ。」という呟きだけが、やけに大きく聞こえた。
「本当に私でいいの?」
「当たり前だ。」
セリーヌディオンは熱唱する。店内では拍手が巻き起こった。
高崎の隣に座っていた男は
「こんなドラマ、みたことねぇ。」
と、涙まで流し、
「今日は俺のおごりだ。」
などと、彼らに話 かけてさえいた。
高崎はほっと胸を撫で下ろした。その時、高崎は店長と不意に目が合った。
店長は寿司を握りながら、笑みを浮かべていた。
その日、高崎が会計を済ませようとすると、なぜか代金が二割引になっていた。
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