虚穴の歌姫
人は誰しも心に満たされぬうろを抱えている。だからその空しさを埋めたくていわゆる芸術なんかができたんじゃないだろうか。たぶん、彼女の歌が甘く美しいのはそんな人の抱えるうろに響くから。
他ならぬ彼女自身が、決して満たされることのない闇の中で歌い続けていたから。
彼女と初めて出逢ったのは、部屋の片隅に積まれた荷物の隙間だった。かくれんぼでもするように小さな体を押し込めて、微かな声で歌っていた。僕はその時、彼女のことを本気で妖精なんじゃないかと思った。淡い青を浮かべたグレーの瞳はこんがらがった細いブラウンの髪に隠れて、じっと遠くを眺めていた。膝を抱える細い腕には押し当てられた煙草の火傷の痕がいくつもいくつも、赤い花のように浮かんでいた。小さなその姿に似合わつかしい低く掠れたその声は、しかし不思議と美しく。
それが、僕が初めて彼女と出逢った日。
僕は施設の中ではわりとおとなしい子供だった。おとなしいと言うより、比較的手のかからない、と言うべきなのかもしれない。ここにはいろんな子がいた。うまく言葉を喋れない子、赤ん坊の心のままの子、なにかを傷つけようとする感情に駆られる子。
僕は両親を事故で亡くした。咄嗟に母に庇われていなければ、きっと助からなかっただろう。グシャグシャになった車の残骸の中で見つかった僕を人は奇跡だと言った。その後身寄りがなくてここへ流れ着いた。だが少なくとも僕には、両親が僕を愛してくれた記憶がはっきりしていた。
彼女から彼女の両親についての話は聞いていない。でも夜が訪れる度に赤い痣の残る腕を血の出るほど掻きむしって彼女は泣いた。
「やめて、ママ! ごめんなさい、ごめんなさい! 」
あまりに激しく叫ぶものだから、同室のエマが不安になって僕を呼んだ。僕が彼女を起こそうと肩を揺すると途端、ヒィ! と悲鳴を上げ、彼女は体をのぞけらせて気を失った。そんな夜が時折あった。母親の記憶など訊けない。ましてや父親のことは夢の中でも出てこないようだった。
もっとも、心にそういう穴を抱えた子は一人だけじゃないから、僕は特に彼女だけに突き詰めることもなかった。エマもうなされる彼女を揺り起こすくらいで、そのうち気にもしなくなった。
僕は音楽にしてもそうセンスのある人間ではない。だが彼女が叫び、腕を掻きむしるその日の調べは切なく、より美しく聴く者の胸に響いた。傷が酷ければ酷いほど、歌はより鮮やかだった。決まっていつも狭く薄暗いところで手足を縮めて歌われる耳慣れた子守唄さえ、もう二度と会えない母の膝や大きな父の手のひらの温かな記憶を、僕に泣き出したくなるほど優しく思い起こさせた。
その後、僕は幸運にも父方の遠縁に当たる夫婦に養子に貰われた。子供のいない彼らが足りないものを補うために異物である僕を受け入れたのだとしても、彼らはとても温かな家族だったと思う。血の繋がらない親子と聞くとたまに妙な顔をする人もいたが、それらを差し引いても僕は幸せだった。彼らにはたいして遺産が入る訳でもないのに大学まで出してもらえた。
そしてその大学時代、僕は再び彼女の歌と巡りあう。
スポットライトの明かりを全身に浴びて、光の中に彼女はいた。
腕の痣などとうになかった。ステージに舞い降りた妖精のような彼女の歌はすぐに国中を魅了した。どこか懐かしい調べに、胸を切なくさせる甘く掠れた声。一度だけ、友人に誘われライブを見に行ったことがある。両腕を翼のように広げる彼女は、小さく背を丸めていつもなにかの隙間に隠れていた姿とは見違えるほど変わっていた。
だが僕が大学をなんとか卒業した頃が、たぶん最盛期だった。今でも時折そのメロディーは耳にするけど、彼女の姿をステージの上に見ることはない。クスリをヤっていたらしい。一般人の僕には想像もできないような借金まであるという。
それなりにファンではあったから、彼女がステージから消えたことは淋しかった。だがそれ以上に堕ちて、沈んでゆく彼女へ、心のどこかでの「ああ、やっぱり」と言う醒めた声の方が妙にはっきり聞こえた。
思うに彼女は、結局は最後まで小さな暗闇の中にいたのではないだろうか。彼女の歌が美しいのは、人の心の満たされぬうろに共鳴するから。こんなにも、たまらなく切ない心地にさせられるのは彼女自身が、満たされることのない、ぽっかりと闇が覗くうろの中から歌うから。
光に焦がれて、歌うから。
一日の仕事に疲れて帰る日は、夜寝る前に一曲だけ聴いて、それからベットに入る。膝の上に乗っていた息子がふいに振り返った。
「ねぇ、父さんよくこの曲を聴くよね。なんで? 」
いくつかある中でも、とりわけ自分が好きなメロディーが暖かな部屋に流れている。息子の頭に手を載せ、そうだな、と少し考えてから答えた。
「光が、見えるような気がするだろう? 」