*9
かくして、聖観音像は無事、圓願寺に戻る運びとなった。
俥を呼んでそれに御本尊を乗せ両脇を恭しく住職と副住職が付き従って帰る。
漱石は満足して宿へ戻って行ったが、きちんと安置するまでを見届けようと若い二人、竜之介と栄造はこの帰還の列に同行した。
これが失敗だった。
漱石先生と一緒にさっさと引き上げていればその後の騒動は回避できたかも知れない。
立像をあるべき処へ収めて、達成感でいっぱいになって帰ろうとした、まさにその時──
円佑が二人を呼び止めた。
「お待ちください。それで、犯人は誰なんですか?」
「おい、もういいではないか」
兄の住職が慌てて遮る。
「こうして我等が尊い御本尊は戻っていらっしゃったんだ。これ以上──」
「いえ、そうはいきません。これはハッキリさせないと。大切な像が盗まれたのは事実なのです。こんな悪行を働いた者は罰せられるべきです」
青年僧の目には正義の炎が燃え滾っていた。
「立像の在処を見事、見つけ出したお二人には盗人の正体も明確にわかっておられるのでしょう? ぜひ、お教えください!」
勿論、竜之介も栄造も凡その検討はついていた。だが、敢えてその名を白日の下に晒す必要はないと判断したのだ。
「犯人を庇っておられるのですね?」
「円佑、もうよしなさい」
「私です」
白い指が、何代にも渡って磨きぬかれて黒光りしている大寺の床に据えられた。
その形。一瞬、竜之介は思う。降魔印! 全ての悪を祓う嫋かな形……
「私がやりました。お許し下さい」
天鵞絨のように艶やかな声でその人は詫びた。深く額づいて、
「どうぞ、如何様にも罰してくださいませ」
細い肩は漣のように震えている。
こんな図を誰も──竜之介も栄造も見たいとは思わなかった。
「やはり……あなたの仕業か? 遂に化けの皮が剥がれたな!」
「これ、円佑!」
「兄さんこそ、見たでしょう? これがこの女の本性ですよ!」
「馬鹿っ!」
絹を裂くとはこのこと。大寺のお嬢さん、七宝子の叫び声だった。
「馬鹿! 馬鹿っ!」
七宝子は蹲っている葉に掴みかかると力いっぱい床に突き倒した。そして、身を翻して走り出す。
この日、女学生は袴を着けていなかったので銘仙の裾が肌蹴て、一足ごとに紅絹から零れる白い足袋が雪片のように燦いた。
(いや、全く。山火事の炎から逃れる兎のようではないか……!)
目の前であまりに突然、次から次へと起こったので竜之介はその場に突っ立ったまま動けなかった。栄造も同様である。
呆然とする一同を残して、七宝子は足袋裸足のまま本堂を飛び出して行った。
「七宝ちゃん!」
「!」
葉の声に我に返った文学青年たち、ここで漸く少女を追って駆け出した。
草履を履くのももどかしく、本堂の玄関から外へ転がり出た時には、既に前庭に七宝子の姿はなかった。と、次の瞬間、築地塀の向こうから凄まじい金属音が響いた。重なる絶叫──
「危ない──っ……!」
「?」
竜之介と栄造は顔を見合わせる。それから、遠い山門目指して全速力で走った。
往来へ出る一番近い門、出口はそこしかない──
いったんその山門を抜け、大音響のした方向へ駆けに駆ける。
築地塀を右に曲がった途端、二人の足は止まった。
その道の先、ひっくり返った俥……天を向いた金輪の車輪がまだカラカラと音を立てて回っている……その傍らで血塗れになっている少女……
いつも結んでいる大きなリボンにも、今日は何色だったか元の色を思い出せないほどべっとりと血が染みていた。やや離れて地面に尻餅を付いた車夫……
だが、二人が足を止めたのはこれら悲惨な情景にたじろいだせいではない。
血だらけの女学生のすぐ横に自分たちよりも早く馳せ参じた者の姿を見たせいだ。
迸る血を意に介さず膝にしっかりと少女を抱いているのは澤田葉だった。
「え?」
「一体、いつの間に?」
竜之介と栄造はハッとして視線を転じた。葉の真後ろ、大門が開いている──
(まさか……)
葉は、竜之介と栄造が遠回りして走っている間に閂を引き抜いてこの門から飛び出したのだ。
封印された〈開かずの門〉、〈不吉の門〉、その禁忌をものともせずに……!
「気をしっかりお持ちなさい!」
抱きしめた少女を凛とした声で葉は叱った。
「何でもありません、傷は浅うございますよ!」
それから、ボウッと突っ立っている竜之介と栄造に命じた。
「早く、お医者様を!」
「お二人はご存知だったのでしょう? 私が真犯人だと」
病室の真っ白い敷布の中から七宝子は少々悪戯っぽく微笑んだ。
俥との衝突事故から三日目。
幸い命に別状はなかったが後頭部を十針も縫う大怪我を負い暫く安静が必要なことは言うまでもない。
が、どうしてもと、本人の切なる願いで呼び出された竜之介と栄造であった。
七宝子は包帯姿も痛々しく、声も掠れ気味だったが、その瞳の光は強かった。いかにも二人の見知っている現代の女学生・七宝子である。
病室の窓のカーテンは全て開け放されて、小机の上に置かれた花瓶に黄色い薔薇の花が一枝。
「どうぞ、お答えになって」
付き添っていた葉は二人と入れ違いに病室を出て行った。七宝子が人払いを乞うたのだ。
「ええ、わかっていました」
「いつからかしら?」
栄造と顔を見合わせてから竜之介が答える。
「確信したのは、皆さんに慶宮寺にお集まりいただいた時。沢田さんは慶宮寺の場所を知らなかった。寺の所在を知らない人が、まして、カラクリを知るはずのない人が──廻る須弥壇に像は隠せないって論法です」
「でも、犯人は誰か、お父上もご存知だったと思いますよ」
栄造が笑いながら補足する。
「お父上は、ただ像の所在さえわかればそれでよかったのです。だから、大事にしたくなかった。警察に届け出ず漱石先生に解決を依頼したのもそのためです」
竜之介が更に付け足した。
「澤田さんも察していたと思います」
「円佑叔父様だけが知らなかった。だから、あんなにシツコク真犯人を追求したのね? 困った叔父様!」
七宝子は笑った。その声は澄み切っていて邪気は微塵もない。
「お見事です。感服してよ。その通り、アレを盗んで隠したのは私です。理由は、勿論、父と葉さんの結婚に反対だったから。父が葉さんを正式に妻として迎えることが……あの人が私の母になるのが嫌だった」
女学生は上目遣いに二人を見つめた。
「口で言っただけじゃあ大して効き目もないから、少し驚かしてやるつもりでしたの」
二人、異口同音に、
「大いに驚きましたよ!」
「犯人が私だとバレても構わなかった。むしろその時は、それほど私がこの結婚に反対してるとわかるでしょう? 娘にこんな真似されては、どうしたって父は諦めざるを得ない。だから、私、罪が暴かれるのなんて平気でしたわ。それなのに──」
大寺のお嬢さんは薄桃色の唇をキリッと噛んだ。
「あんなことになるなんて。事故のことじゃあなくってよ。葉さんが私より先に、私を庇って自分が犯人だなんて言い出したこと。私、あの人のそういうところが嫌い。私なんて敵わない優しいところ、強いところ、素敵なところが全部、大っ嫌い!」
竜之介も栄造も押し黙ってしまった。
複雑な女性心理に対して、何と答えていいものか皆目わからない。漱石大先生ならこういう状況で気の利いた返答ができるだろうが。だが、未熟な自分たちには無理だ。あまつさえ竜之介などは会話を放棄してしまって花瓶の花ばかり見つめている。
(〝包帯を 巻いた美少女 冬薔薇〟……ダメだ、愚作だな!)
「でも、もういい。敵わないってとことんわかりましたわ!」
二人の返答などハナから期待していなかったらしく女学生は決然と言い放った。
「あの禁忌の門を潜って駆けつけてくださった葉さんを、私、この目で見ましたもの。まさか、あんな真似なさるとは! 私でもそこまではできないわ。あんな勇気は私にはありません。だから、降参しました。白旗を揚げます。完敗よ。父との結婚を心から祝福いたします」
「では、僕から一つお尋ねしてもいいですか? どうしても知りたいことがあって」
薔薇から少女へ視線を戻すと竜之介が訊いた。
「どうぞ?」
「どうやってあの立像を運んだんですか?」
「簡単ですわ!」
七宝子はまた笑い声を上げた。
「まず、煩く吠えるクマを叱りますでしょ。その後、本堂に入って像を下ろし、そのまま山門を抜けて慶宮寺まで運びました。あそこは無住だし、近頃は参拝者もほとんどいなくて寂れているから仏像を隠すには最適だと思ったんです。ほら、薔薇を隠すには薔薇の中。仏像が寺にあっても何の不思議もないはず。流石に隠す方は須弥壇の中に収めて取り替えた方は床に置いて、それで御終い!」
「いや、だから、僕が知りたいのはどうやって寺まで運んだかということ」
「あら、そんなこと! おぶったんですわ」
これには竜之介も、黙って傍で聞いていた栄造も、一様に仰天した。
「おぶっ──背負われた?」
七宝子はこともなげに、
「ええ。衱で、こう、肩と腰を結わえて。月のある夜でしたから道は明るくて全然難儀はございませんでした」
「ははあ。でも、流石に慶宮寺の堂内は暗かった。月明かりでは足らず、それで持参した蝋燭を灯された……」
ここまでが栄造。続けて竜之介、
「葉さんにもらったとかいう例のお洒落な絵柄の西洋マッチを使って……」
二人が見たあの日、須弥壇前に残っていた燃えさしの蝋燭こそそれだった──
これにて一件落着。
次回で完結です。
実はまだ謎が残っていますよね?