*7
翌日、今日こそはと意気込んで竜之介と栄造は街へ降りて行った。
今日こそ西洋小間物屋の緑色の扉を押して中へ入ってやろう。そして、勘定台の後、ステンドグラスの光と影を浴びた佳人と直に話をするのだ。
話す内容は別に何でも良かった。その場の雰囲気でさり気なく……要所要所に紛失した本尊や住職との結婚話や前夫の借金のこと等、織り交ぜて反応を観察する。なお、店へは二人一緒に入ることも取り決めた。栄造は新妻への土産を探していて竜之介はそれに付き合ったという筋書きで。
これらは全て、昨夜、温泉の湯に浸かりながら考えた。漱石が秘かに期待を寄せる、将来、日本文学全集が編集される際、必ずや第一番目と第三番目に(あくまで五十音順の場合)並べられるはずの〈未来の文豪〉、その二人の合作である。失敗するはずはなかった。が──
結局、この日も二人は店内には入れなかった。
店の前の道に今日もこっそり佇んでいる、頭に包帯を巻いた野添の姿を見た瞬間、竜之介も栄造も心が萎えてしまった。前夫に見つめられた中でその美しい元妻と口を利くのは、二人ともどこか居心地が悪くて嫌だった。足は自然、圓願寺の方へ向いた。
「こんなもんだ。所詮、現実は筋書き通りには進まない」
「小説の方が簡単だと思うかい?」
「いや、小説だって思うようには行かないさ」
「ほう! 君ほどの英才でも?」
兄弟子の言葉に微かな皮肉を嗅ぎ取って竜之介は足を止める。構わず栄造、
「先生は君の作品を高く評価されている」
剣呑な雰囲気になりかけた時、後ろから声がかかった。
「あの」
二人はほとんど同時に跳び上がった。
それもそのはず、声をかけて来たのは、かの〈謎の女〉、〈後姿の佳人〉、澤田葉その人だった。
「私にお話があるのでしょう? 承知しております。でも、ここでは何ですからお寺へまいりましょう。私、今日、ちょうどお墓参りに行くつもりでしたので」
佳人は花を下げていた。
両親の墓を移したというのは聞いていたが。
思いの他、質素なその新しい墓に花を手向けて熱心に拝んでから、葉は青年たちの方へ戻って来た。
漱石先生がここにいたらどう思うだろう、と竜之介も栄造もずっと考えていた。それほど、葉の所作の一つ一つが慎ましく、淑やかで、心に染みた。水の流れるような清らかさ。声も涼やかだ。
「もっと早くご挨拶すべきでしたのにすみません。中々時間が取れなくて。今日は母の月命日で、前から言ってあったので代わりの店番が来てくれました」
「僕たちがウロウロしていたのをお気づきでしたか?」
「それは、もう」
佳人は花のように笑った。
「存じておりました。野添のことも」
「あ……」
だが、それは当然だろう。店先でチョロチョロする竜之介と栄造に気づいたのであれば野添に気づかぬはずはないのだ。葉は真顔に戻って、
「ですから心配しておりました。皆さんに何かあっては、と。何分、あれはああいう性格ですので。もしや、皆様に悪いことでも?」
葉は野添の包帯のことを気にかけているようだった。
竹のステッキを握り締めつつ栄造が答える。
「いいえ、ご心配なく!」
竜之介も曖昧な笑顔で、
「そう! 僕たちなら大丈夫です!」
それより、と竜之介は素早く顎を引き締めて言った。
「率直にお尋ねします。あなたは借金を抱えておられるとか。本当ですか?」
この持って行き方に横に立つ栄造は吃驚して息を飲んだ。だが、当の葉は驚かなかった。
「本当でございます。私には借金があります。それも相当な額の。私は一生かけて返していくつもりです」
「失礼を承知でお聞きします。その借金は前夫の──野添氏の?」
「いいえ」
葉はきっぱりと否定した。
「私自身のものです。隠す必要はないのではっきり申します。確かに資金を必要としたのは野添です。けれど、私もその夢に賛同しました。私の意思で私の名でお金を工面したのです。ですから、私の借金でございます」
柔らかな肩の線からは想像もできない女の強さに竜之介は声を上げそうになった。
蘇芳色の鼻緒のせいで一層白が際立つ足袋、その華奢な足を一歩前へ踏み出して葉は言う。
「私は国元ではそれなりの──旧家の出でした。それで、私の名でお金を借りることができました。尤も、貸してくださった方々は私ではなくて親の名を信頼なさったのだと思います。でも実情は」
「もう結構ですよ。ここまでで十分了解しました」
遮ったのは栄造である。
「これ以上の詳細は僕たちには必要ありません。だから、お話にならなくても結構です。なあ、芥川君?」
「いえ、この際、全て知っていただきたいと思います」
竜之介が何か言う前に葉は決然として言い切った。
「消えた立像の件で円了様が夏目漱石先生に相談されたことは私も存じております。その件でお二人は尽力なさっておられるのでしょう? でしたら、私も全て包み隠さずお話して、協力させていただきとうございます」
小さく息を継ぐ。睫毛ははふうわりと揺れたが眼差しは揺れなかった。
「私の実家は旧い名があるだけで実はもう大した財は──お金を貸してくださった方々が期待したほどの蓄財はありませんでした。私は奔放な結婚をして失望させた上に、このことで更に大きな苦痛を父に与えてしまいました。母は既に亡くなっておりました。父は心労で倒れたのですが、先祖伝来の土地と家屋敷を私に譲ると遺言してくれました。それを処分して……足りなかった分が今現在の私の借金というわけでございます。父のおかげで何とか私が返していける額になりましたの!」
ここで葉は笑った。その笑顔の──
その笑顔の──
文学を志す二人の青年はこの刹那、言葉を喪失した。
「艶冶……婉然……窈窕……ええい! 何と呼ぶのだ、あの微笑は?」
「意志の強さだ! それが人をかくも美しく笑ませるのだなあ! 今日という今日まで……僕は知らなかった!」
すっかり感動して葉と別れた二人だった。
「だが、君のやり方は乱暴過ぎたぞ! 傍で聞いていて肝を冷やした。いきなり〝借金〟なんて言葉、しかも女の人に」
「何、あの場合あれが一番良いのだ。周りクドくやっちゃあ却ってややこしくなる。それより──なあ?」
竜之介は一回息を吸って、吐いた。その上で友に向き直る。
「この機会だから言うが、君も借金は程々にしておきたまえ。大切なお祖母様やお母上、その上、今はお嫁さんまでいる身ではないか。そろそろここらで本気になって考えるべきだ」
流石に栄造は背を向けた。苔むした五輪の塔の方を向いて、
「僕のことならほっといてくれたまえ。忠告なんていらない」
「忠告じゃない。心配して言ってるんだ」
「どっちにしたって大きなお世話だ。君に借金してるわけじゃなし。安心したまえ、僕は金輪際、君には金を借りたりしないから!」
果たせるかな! 栄造のこの誓いは虚しく破られる。その後の人生において、竜之介は、名が売れるまで時間がかかった栄造に幾度となく金を貸す破目になる。ある時など木に登ってポーズした有名な写真を撮った後で、そこの雑誌社から得た稿料をそのまま封も切らず渡したりする。だが、勿論、それは未来の話。この時点で、若い二人は知る由もない。
話を戻そう──
あの素晴らしい微笑の後、葉は自身の結婚話についても率直に語った。
曰く、自分は円了を心から慕っている。だから、望まれるなら一生傍にいたい。ただ、正式な結婚には拘らない。一度結婚した身でもあるし、ご存知のように借金を背負ってもいる。従って、この結婚を良く思っていない人も多いはず。世間を敵に回してまで、いや、それ以上に、円了の名を賎しめてまで正式な妻になろうとは露程も思わない。
だが、当の円了は全く逆の意見を葉に告げたそうだ。
「円了様が私におっしゃるには、世間体を言うのなら、ぜひ結婚して欲しい、と。正式の伴侶として残る人生をともに協力して分かち合って行こう。お嬢様もおられるので、それこそ世間に恥じない関係であるべきだ、と。それで私、決心いたしました……」
山門へ出ると、町へ戻って行く葉の姿が見えた。
二人はその場に立って小さくなって行く影を長いこと眺めていた。