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 重苦しい気分のまま竜之介と栄造は寺から再び町へ降りて来た。

 もう一度──これで今日三度目となる──西洋小間物屋の前に至る。だが、竜之介は足を止めることなくスタスタと通り過ぎた。

「おい」

「シッ」

 速度を緩めず営造に囁いた。

「振り向くなよ。このまま歩き続けよう」

 かなり行って、下駄屋の角を曲がってから、

「君、気づいたか? 同じ男だぜ」

「え?」

 先刻、寺へ行く前、店の前に佇んでいたのと同じ男が今またそこにいる、と竜之介は言うのだ。

 栄造は吃驚した。

「僕は全然気づかなかった。どんな風体の男だ?」

「着流しで(よもぎ)色の襟巻きをして、中肉中背。年齢は僕たちと同じくらい……」

「誰だろう?」

「僕が思うに──」

 しかし、竜之介はその先を言わなかった。骨ばった顎を引き締めて虚空を睨んでいる。

 新春とはいえ、それは暦の上のこと。日中は冬麗の暖かい天候だったのに流石に四時を回って湯河原の街にも冷たい風が吹き始めた。

「今日はこのまま宿に帰った方が良さそうだな?」

「それなら──君、先に行っててくれ。僕はちょっと……郵便局へ寄ってくから」

 栄造が妻帯者であることを竜之介は思い出した。新妻に何かと連絡もあろう。手を振ってその場で二人は別れた。



 竜之介は一人、宿への道を辿り始めた。

 漱石先生の定宿〈天野屋〉は町中からやや奥まった山裾にあって、ゆっくりと歩いて三十分ばかりの距離だった。片側は深い淵。その瀬音を聞きながら登って行くと陽の落ちた山道の彼方此方にポッポッと小さな明かりが灯り出す。

「やあ! 冬の蛍か……」

 足を止めて、一句捻り出そうとした、まさにその時、突然背後から強い力で突き飛ばされた。

 咄嗟に踏ん張って、辛うじて地面に倒れるのは免れたが。

「誰だっ?」

 振り返るのと同時に、今度は胸ぐらを掴まれる。蓬色の襟巻きが鼻先を掠めた。

(殴られる──)

 振り下ろされる拳を避けようと必死に体を捩った。

「ウアッ……」

 次の瞬間、苦痛の声を漏らして地に崩れたのは、襲って来た男の方だった。

 何が起きたのか判然としないまま目を凝らすと、昏倒して喘いでいる男の後ろに巨体が見えた。

「栄造……サン……?」

「大丈夫か、芥川君? 怪我はないか?」

「うむ、まだ何もされてない。だが、君が来なかったらどうなっていたことか」

 やっと笑顔らしきものを浮かべて竜之介は体を真っ直ぐに起こした。つくづくと言う。

「君のその、趣味の悪いステッキが役に立つ日が来るとは……! なあ?」

 栄造は自慢のステッキで竜之介を襲った暴漢を(したた)かに打ったのである。

 猶もそれを剣のごとく構えたまま一喝した。

「貴様! 一体何者だ? 何故こんな真似をする? 事と次第に因っては巡査を呼ぶぞ!」

「呼んだら良かろう! こっちだって訴えてやる! 黙って見過ごすと思うなよ!」

 打たれた箇所を摩りながら、男も負けじと叫んだ。

「一人の女がやっと幸せになろうとするのを邪魔する奴を、俺は許さないからな!」

「?」

「おまえ! おまえもだ! おまえたち、ずっと(よう)を追い掛け回していたろう? 白ばっくれてもだめだ、俺はちゃんと見ているんだから。いつも、ちゃんと見張っているんだから。今となっては俺にできるのはそれくらいだから……」

 どうも暴漢にしては少し様子がおかしい。

「おまえたち、どうせ東京からやって来た湯治客だろう? 美しい女と見れば追っかけ回すお気楽な高等遊民どもめ! おまえたちに言って置く。あの女にちょっかいを出すのはやめろ! あの女はな、今漸く幸せになりかけているのだ。町の名士から妻にと望まれている。あれはずっと苦労続きだった。甲斐所のない、不器用な男を夫に持ったばかりに。それが、ここへ来て……やっと掴んだ幸せを壊そうとする輩を……俺は……決して許さないぞ!」

「おい……?」

 男は土を握って号泣し出した。



「俺はあれを幸せにできなかったから、せめて今度はあれが幸せな花嫁になるのを見届けたいのだ。それが俺にできる精一杯の償いなのだ」

 再び引き返した湯河原の町中。

 駅前の蕎麦屋の二階で竜之介を襲った男はそう言ってまた泣き出した。

 男は──竜之介はとうに察していたが──澤田葉の前夫であった。

 西洋小間物屋の店先に張り付いていたのもこの男。名は野添左右吉(のぞえそうきち)と名乗った。 大志を抱き、事業に失敗し、借金を作って失踪した。だが実際は、前妻の近くに隠れ住み、その挙動をこっそり窺っていたらしい。

「勿論、あれは気づいちゃいないさ」

 栄造の注文した天麩羅蕎麦に、何度か辞退した後で漸く箸を付け、熱燗の猪口を押し頂く。

 悪い男ではない、と竜之介も栄造もすぐわかった。世渡りが下手なだけだ。熱い血潮を持ち、愛情に溢れている。その一本気な性格が却って災いしているのかも知れない。まだ青年と言っていい年齢であったが、深く刻まれた眉間の皺や荒れた肌、白髪の目立つ頭に、歩んで来た過酷な人生が見て取れた。

 二人は襲われたことは不問にした。

 澤田葉に言い寄っているような誤解を、野添に与えたのならこちらにも非はある。今後、葉さんには近づかないと誓って、店を出た。

「あいつに、僕たちが葉さんを付け回している本当の理由──行方知れずになった立像を探していることを明かさなかったのは何故だい?」

 蕎麦屋の暖簾を分けて往来に立つや否や、栄造は竜之介に質した。

「あいつが仏像を盗んだ真犯人だと疑っているのか? それで、もう少し泳がせて身辺を探ろうとでも?」

「いや、あの男はこの件に一切関わっていないと僕は思うね。だが、用心に越したことはないからな。〝情報〟は最小限の仲間内で保有するに留める。探偵業の常識だよ。それより──何処へ行くんだ? 宿へ帰る道はそっちじゃないぞ?」

 駅の方へ歩き出した栄造を訝しんで今度は竜之介が訊いた。

「帰るさ! だからだ」

 栄造が笑う。

「町に残った僕がどうしてああも早く君に追いついて……急場を助けられたと思う? 頭脳明晰な芥川探偵にしては詰めが甘いぞ?」 

 駅前には、種々の温泉宿の提灯をつけた馬車がズラリと並んでいた。

 汽車が到着するたびに、降りて来た客を積んでこれらの馬車が遠方の宿へと行き来していることを竜之介はこの時初めて知った。

「へえ? こんな便利なものがあるとは知らなかった! 僕は今回が始めてだからなあ。ここ、湯河原へ先生を追って来たのも、あの宿に泊まるのも」

 君は前に金を借りにやって来て、その際、この馬車を使ったんだな、とまでは言わずにやめた。

 先刻、郵便局で用事を済ませた栄造はちょうど立つ頃合だった宿行きの馬車に飛び乗った。

 途中、薄暮の山中で、急ぎ足で歩いている野添をまず追い抜き、その先で竜之介を追い抜いた。追い抜いた後で妙な気がして(栄造の言葉を借りれば〝悪い予感〟がして)すぐ馬車から飛び降りて山道を引き返した。その機転が間一髪のところで竜之介の危機を救ったのだ。



 今度こそ二人一緒に馬車に揺られて、すっかり暮れきった山道を無事、漱石先生の待つ宿まで帰った。

 車中、ふと思い出したように竜之介が笑い出す。

「どうした? 何がおかしい?」

「君のその杖! 僕を救ってくれたその杖だ。思い出したぞ! 先生の作品にやはり杖に纏わる話があったろう? そうか、君、あの主人公を気取っているんだな?」

「さ、さあ? そんな話、あったかな?」

 どんな作品名も先生の著作なら即答できる栄造が珍しく口篭った。それが何よりの証拠とばかり手を叩く竜之介。

「や! 当たったな! 図星だな?」

(この男がこんなに陽気に、愉快そうに笑うとは……!)

 それが珍しくて、栄造は言い返すのも忘れてじっと後輩の笑い顔を見つめた。

 笑うと中々美男なのだ。日頃はちょっと顔が長過ぎるかと思うのだが。


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