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「それにしても──いきなりホームズを持ち出すなんて、君の探偵小説好きも相当なものだな!」
「おい、探偵小説を馬鹿にしちゃだめだぜ。いろんな意味であれは意義深い。特に語学を勉強するには探偵小説は打って付けだよ。英語が苦手な学生だって犯人が知りたくて、どんどん辞書を引いて読むだろう? ああ! 僕が教師なら、絶対、教科書は探偵小説にするぞ!」
「ハハハハ、そいつァいい! 英文科の君が言うと説得力がある」
七宝子と別れた二人は再び西洋小間物屋の店先へ取って返した。が、またしても中へは入れなかった。
と言うのも、時間帯のせいか、今度は狭い店内に母子連れや女学生の一団がギッシリ詰まっていたからだ。ここはいったん、圓願寺の方へ行ってそっちをじっくり探索してみようということに話が決まった。
墓参りを装って二人は寺に入った。
前回は遠慮した本堂へ直行する。
元々堂内は開け放されていて夜間以外は誰でも自由に拝観できた。流石に紛失した本尊の周囲は幕で囲ってあったが別段違和感は感じなかった。事情を知らない人がこの光景を見ても清掃中か何かだと思って気にも留めないだろう。
本堂の様子は一応わかった。外へ出ると二人の足は自然と鐘楼横の大門へ向いた。
この前、七宝子が教えてくれた通り、門はきっちりと閉じられていた。
とはいえ、仔細に調べてみると封印と言うほど大袈裟なものではなく閂が渡されているだけで、それさえ抜き取れば門扉は容易に開けられる。要は、あくまで〈心理的な封印〉と言ったところか。
「よほどその門に興味がお有りのようですね?」
ギョッとして振り向く二人。
今回は女学生ではなくて作務衣姿の若い僧が立っていた。
「漱石先生のお弟子さんですね? 姪からお話は聞いています。漱石先生に代わって色々探偵なさっていらっしゃるそうで、ご苦労様です」
僧は深々と頭を下げた。大いに恐縮しつつ二人もいったん門から離れて挨拶した。
僧は住職の実弟の円佑と名乗った。
「今しがた帰って来た七宝子から聞いたのですが──澤田さんを疑っていらっしゃるとか?」
「あ、いえ……」
「その……」
まごつく二人に頓着せず、円佑はさも納得したように頷いて、
「いい線だと思いますよ」
青年僧は率直だった。
「実のところ、私も今回の件では澤田さんが怪しいと感じているのです。兄には言い辛いが──」
同様に率直に竜之介が訊き返した。
「澤田葉に不審を抱いておられる理由をお聞かせ願えませんか?」
「借金問題です」
僧が言うには、澤田葉は離縁した前夫の借金を相当額抱えているらしい。縁が切れても金銭の関わりはなお続いているとのこと。
「豪放磊落な兄はそのことを微塵も気にかけていません。最近では正式に妻として迎えようと言い出す始末。しかし、私としてはこの結婚は賛成しかねます。どうも……財産目当ての気がしてならない」
「でも、それなら却って変じゃないですか!」
即座に異議を呈したのは栄造である。
「仮に澤田さんが借金で苦しんでいるのが真実だとして──何も今、慌てて仏像を盗む必要などないじゃないですか! じっと待っていれば正式な妻になれるのに? それこそ、大寺の妻の座に着けば借金なんか解決する手立てはいくらでもあるはず。むしろ、結婚前の大事な時期に大きな危険を冒して本尊を盗むなんて、そんな馬鹿な真似するだろうか?」
「おい、栄造君……」
思わず竜之介が袖を引っ張ったほど栄造の剣幕は激しかった。
普段鷹揚な営造を何がこうまで熱くさせたのか? 竜之介はその理由を知っていた。
(〝借金〟という言葉がイケなかった……)
坊っちゃん育ちの環境の故か、はたまた自身の性格故か、栄造は現在多額の借金に苦しんでいた。
実際、師である漱石にまで泣きついて金を工面したという噂が弟子仲間に流布していて、しかも、泣きついたその場所こそ、ここ湯河原だと竜之介は聞いていた。
今回同様、湯治に来ていた先生を追っかけてやって来て、金を借りたというから物凄い。
その際、漱石は金のみならず俥まで呼んで乗せて帰したそうだ。どちらも豪気である。
「なるほど、そう言われれば……その通りです」
栄造の熱の篭った弁明を聞いて青年僧ははたと手を打った。
「そこまでは私は考えなかった! いや、全く、澤田さんを疑ったのは私の短慮でした」
(だが、待て。そうとばかりも言えないぞ?)
ここで逆に竜之介は気づいたのだが。
栄造は『結婚前の大事な時期に馬鹿な真似はしない』と断言したが、その〝結婚〟そのものが暗礁に乗り上げていたとしたら? 例えば、身内に強く反対でもされて?
その場合、切羽詰って仏像泥棒だってやらないとは言い切れない。
その上、疑いだしたら限がない。眼前の副住職だとて、不審を抱いている女と兄の結婚を破談にするために本尊を隠して罪を女に着せる……なんてことも有り得なくはない。
まあ、大の大人が、しかも、僧侶がそんな子供じみた真似をするはずないとは思うが。しかし、何だってありの昨今である。
(……全て藪の中ということか?)
「この門を封印したのは住職ご本人だと七宝子さんから伺ったのですが、本当なんですか?」
平生の穏やかな調子に戻って栄造が訊いた。庫裡の方へ戻りかけていた円佑は足を止めて振り返った。
「その通りです。兄の悲嘆は並大抵ではなかった。単なる偶然だと私たちがどんなに慰めても全く耳を貸さず、あの時は本当に弱りました」
「?」
要領を得ずポカンとしている栄造と竜之介。そんな二人を交互に見て、逆に驚いた顔で円佑が言う。
「あれ? 七宝子からお聞きではないのですか? 七宝子の母親ですよ。この門を潜って命を落としたのは」
── そこを通った人が不幸な死に方をしましたの……
「……七宝子さんのお母上?」
「ええ。買い物に行こうとしてここを出た直後でした。そのまま地面に倒れ伏して。もう、一体何がどうしたのか……とにかくすぐ寺へ運び込んで医者を呼んだのですが間に合わなかった。お腹の赤ん坊だけは何とか……」
「それが七宝子さん?」
円佑は悲しげに門を見上げてため息を吐いた。
「元々この門は寺が建った時から〈不吉の門〉として忌諱されて来ましてね。通る者はいなかった。でも、義姉は嫁いで来たばかりで、この禁忌をよく知らなかったのです」