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間口二間ばかりと小さいながら駅前の目抜き通りにその西洋小間物屋はあった。
なるほど、鄙びた温泉町には似せぬ洒落た店である。しかも、さっきのカフェーから四、五軒しか離れていない。温泉客や地元の女性たちの人気を得て中々繁盛している様子だ。
入口に飾り窓があって、小人が作ったような可愛らしい硝子の瓶だの銀製の薄くて丸い箱だの兎の尻尾のごとき白くてフカフカした塊──とにかく、何に使うのか得体の知れない細々した物が並んでいた。櫛や手鏡や手袋、それからリボン。正体のハッキリ解るのはそのくらいである。
それだけで男二人、怖気を振るうのに十分であったが、これら綺羅綺羅しい小物の向こう、宛ら宝石細工の波の彼方、勘定台の後ろに座ったその人こそ……!
まさしく、過日、竜之介と栄造が圓願寺の境内で見た〈後姿の佳人〉だった。
正面から見ても、予想通りの美人なり。
色白の細面で、髪は潰し丸髷に結っている。着物はこの間と同じ紺地に青の縦縞、帯は……高い勘定台に隠れてちょっと見えなかった。
その人の座っている後ろに太い柱があって時計が掛けてある。両脇は漆喰の白い壁。入口の扉の上に色硝子が嵌め込まれていて、そのせいで午後の陽光が女の周りに虹色の翳を降らせていた。
「君、好きだろう?」
栄造がズバリと言った。
「どうして解る?」
「解るとも! ああいう──月の光を浴びているような、薄らと煙っている風情の女人が君は好きだもの」
「いい表現だな。憶えておこう」
冗談めかして逃れたもののあまりに的確に心情を言い当てられて竜之介は焦った。
確かに。竜之介は派手な賑やかしい女を好まなかった。二人並べたら太陽よりも月の方を俺は取る。翳のある、悲しげな人を必ず選ぶ。目を眩ませる艶やかな輝きよりもふうわりと零れる朧で静謐な光の方を……
「そういうわけで──君、行って来い!」
栄造がいきなり竜之介の肩を押した。
「僕がここまで調べたんだ。実地調査は君の番だ。何、君の好物のココアか何か買うついでに話しかけたらよかろう」
「し、しかし──こんな処にココアがあるだろうか?」
「だったら、マッチは? 西洋マッチならお洒落だから置いてあるだろう?」
「いや、マッチだってこの店にあるとは思えない……」
往来でモタモタやっている時であった。背後から鈴の声がかかる。
「そこの御二方!」
「!?」
またしてもお寺のお嬢さん、七宝子だった。
今日は鶸色のリボンに竜胆を描いた艶やかな銘仙の着物。海老茶色の袴と編み上げブーツは昨日と一緒だ。
お嬢さん、紫のパラソルをくるくる回しながら、さも可笑しそうに笑った。
「さては……漱石先生の差し金で? 早速、葉さんを探偵なさっているのね!」
先生は相知らぬ。あくまでの自分たちの勝手な行動ではあるが。ここは取り敢えず二人とも曖昧に言葉を濁した。
「そう、まあ……」
「……そんなところです」
「流石、漱石先生! もう澤田葉さんに目をつけられるとはね!」
まさか件の店の前であれ以上騒ぐわけにもいかないので、竜之介と栄造はお嬢さんを誘ってさっきのカフェーに戻った。パラソルをベンチウッドの椅子の背に引っ掛けて優雅に紅茶を飲む七宝子。白磁のティーカップを持つその手ばかり見つめている栄造の視線に気づいて女学生は小首を傾げた。
「どうかしまして?」
「これは失敬。お、思い出していたんです」
栄造は首まで真っ赤になった。
「先生に写真を見せてもらったのですが──ほら、消え失せた聖観音像の手……」
「ああ! 施無畏印って言うのよ。チョット変わっているでしょう? 聖観音菩薩は普通、手に蓮華の蕾とか水瓶を持つのに。ウチのは空手なの。右手はこうで左手がこうだわ」
両手で仏像の印を再現して見せる。ところで──
さっきのはとっさについた嘘である。
栄造は女学生の白い手に見蕩れていたのだ。ヒラヒラとよく動く純白のそれ。残像はもっと別の遠い光景へ栄造を誘った。祖母に連れられて遠出して観音様を拝みに行った春の日のこと。
歩き通した野道、その傍らを寄り添うようにずっと流れていた小川。一休みした茶店の前に牛が繋がれていて、周りをチロチロと可愛らしい白い蝶々が舞っていた……
「それで、立像の行方について何かお解りになりまして?」
遠い目をしている栄造から竜之介に視線を移して七宝子が単刀直入に訊いた。
「漱石先生は何ておっしゃってますの?」
先生は窃盗団にやられた言って諦めている。仏像はとっくに売り捌かれていて、戻って来る可能性はゼロに近いと。
だが、先生の意見はこの際無視して、竜之介は自分の意見を述べた。
「僕は、像は案外近い処にあると思っています」
「え?」
驚きの声を上げる七宝子。栄造も一瞬にして十二歳の春の日から現実へ還って来た。
七宝子はティーカップを押しやって身を乗り出すと、
「何故、そうお思いになるの?」
「ありていに言えば、〝その夜の犬〟の原理かな」
「?」
たまらず栄造、
「おいおい、もう少し解り易く言いたまえ。七宝子さんも吃驚してるじゃないか」
「つまり、『その夜の犬は何故吠えなかったのか?』だよ、ワトソン君」
「あ! ホームズか?」
栄造もピンときた。
「なるほど、あったな、コナン・ドイルの作品でそんな台詞。待てよ、そうだ、思い出した、カレーシチューの夕食の夜だ!」
美食家の栄造は実生活でも小説でもご馳走で場面を憶える癖があった。
「その夜、侵入者に犬が吠えなかったのは──犯人が犬の見知った人物だったから?」
「ええ、確かに。ウチにも番犬はおります。そうよ!」
七宝子も即座に合点がいったらしい。
「本尊が消えた前の晩、クマは全然吠えてなかったわ!」
「ご名答」
竜之介は狼のごとき物凄い笑い方をした。
「実は僕たちもお宅のアクマに死ぬほど吠え立てられましたよ! あんな煩いのが微塵も啼かなかったなんて信じられない!」
シキシマを一本抜いて咥える。と、お嬢さんが巾着型のポーチからマッチを取り出して火をつけてくれた。意外の感に打たれて竜之介、
「マッチをお持ちとは……」
「葉さんにいただきましたの。西洋マッチ。ご覧になって、絵柄がお洒落でしょう?」
「ほら、見ろ! やっぱりマッチならあの店にあるんだ! 僕の言った通りだろ?」
兄弟子の勝ち誇った声を無視して、煙を吐き出すと竜之介は話を本筋へ戻した。
「単純に考えれば考えるほど今回の出来事は寺内の事情に明るい者──身内の仕業と言うことになります。だとすれば、仏像も存外、近くに隠されていると見ていい」
手の中のマッチ箱に円らな瞳を据えたまま女学生は訊いた。
「それで、葉さんが怪しいと?」
「──」
そこまで言い切れる自信と根拠は竜之介にはまだなかった。