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「そうか、お嬢さんから聞いたか。ありゃすこぶる別嬪だろう? まあ、それはともかく──いや全く、私も困っているのさ」
宿に戻った後、漱石先生自身の口から改めて本尊紛失の詳細を聞いた二人だった。
「で、先生のご意見は?」
率直に尋ねる竜之介。
「私? 決まっている。〝一刻も早く警察に届けるべし〟これだ」
「え?」
「そんな……」
明らかに落胆の声が竜之介のみならず畏まって控えていた栄造からも漏れた。二人とももう少し奇抜な答えを期待していたせいだ。仮にも世紀末の魔都・ロンドンに留学した俊英とは思えない。
「何だ、おまえたち? 何を勝手に思い描いていたんだ?」
露骨に不機嫌な顔になって先生、若者たちを睨みつける。
「あ! ところで、先生、その消え失せた本尊と言うのはどんな像なんですか?」
気難しい大作家の扱いを心得ている栄造が、ここはすかさず話題を変えた。
「うむ、冊子か何かもらって来たはずだが……」
先生は完璧な発音で〝パンフレット〟と言って見せた。そうして袂から像の写真が載った小冊子を出して二人の前に置く。
聖観音立像とある。
高さ1メートル/桧の寄木造り/平安時代後期の作(伝・定朝)……
「体長1メートルってことは二尺足らず。人が持ち出そうとして持ち出せない大きさじゃないな?」
「そう、犯人の意図や目的がわかれば隠し場所もわかるかも知れない」
「隠すも隠さないもないさ」
弟子たちの眼前、漱石はぴしゃりと言い切った。
「おまえたちは何をロマンチックなことを考えているのだね? はっきり言って、これは地方の寺社荒らしを生業とする盗人の為せる技だ。今頃は裏のルートでとっくに売り捌かれているだろうさ」
流石に先生は論理的であった。
「昨今、国の内外を問わず仏像収集家は腐るほどいる。特に外国人ほどその美術的価値を知っているから連中は高値で買い取るのだ。だから、あの手のものはいったん闇に流れたら最後、取り戻すのは不可能だよ。まあ、円了には気の毒だが」
大先生の金言を拝聴しながらも竜之介と栄造は膝をもじもじさせていた。
先生はハナから諦めてしまっているようだが、弟子たちは違った。
写真で見たその本尊、聖観音像が優美でたおやかで心動かされてしまった、と言えばそれはそれで嘘ではない。だが、それ以上に、昼間境内で遭遇した〈謎の佳人〉の影が二人の脳裏にチラつくのだ。これは絶対何かある、ただの盗難事件ではない、そう思えて仕方がなかった。
その夜遅く(勿論、漱石が床に着いた後で)示し合わせたように竜之介と栄造は浴場に行った。
湯に浸かりながら、まず竜之介が、
「仏像紛失に関して、先生は全然興味を示していないが──先生だって、昼間、あの後姿の佳人を目撃していたら話しは違ったかも知れないぜ?」
受けて栄造、
「まあ、なあ。先生は〈謎の女〉が好きだからなあ……」
「あれは何と言ったっけ? お寺で会った美人から謎解きをする探偵小説まがいの作品、先生、書いていたろ?」
「《趣味の遺伝》!」
《吾輩は猫である》に撃ち抜かれて以来、漱石の作品の熱狂的崇拝者である栄造は即座にその短編の題を言うことができた。
「あれは異色の作だったな……!」
「あの線で、どうだろう? 今回は一つ僕たちもやってみては?」
「何を?」
「消え失せたという立像の行方を突き止めるのさ!」
「そうさなあ……」
手拭いを頭に乗せて栄造は深々と湯船に身を沈めた。湯気を通して、弟弟子の端正な顔の、時として鋭過ぎる光を放つ瞳が、珍しく溌溂と煌くのを珍しい動物でも見るような思いで眺めた。
日頃、都会的で理知的と評されるこの男にこういう情熱的な一面があるのを今の今まで栄造は知らなかった。
「じゃ、やってみるか。小説のネタくらいにはなるかも知れないものな?」
実際、小説を書こうにも何を書きたいのか曖昧模糊として書き倦ねている栄造としては、これはこれで本心であった。
翌日。
駅前のカフェーでイライラと煙草を燻らせている竜之介。
午前中いっぱい圓願寺についてお互い可能な限り調べて、1時にこの場所で落ち合う約束を交わしたのに栄造は未だ現れない。時計は2時半を指している。さっきから窓の外に乞食の少年が蹲っていてそれが目に入るのも竜之介を落ち着かなくさせている一因ではあった。
貧しい者の姿が不快なのではなく──無性に腹が立つのだ。何故かはわからない。俺は冷徹と言われる人間なのに? 硝子の灰皿にシキシマを押し潰したのと、今ではもう見慣れた竹のステッキを小脇に抱えて栄造が店内に飛び込んで来たのはほとんど同時だった。
「遅いじゃないか?」
竜之介は少々皮肉っぽく微笑んで手帳を開いた。
「僕の方はそれなりに収穫があったぞ。現在、寺に住んでいるのは住職の円了と副住職の円佑。これは住職の実弟だ。一人娘の七宝子。タマという名のばあや。それに女中が二人、いしと節で、いしが年増で節が若い。あと事務方というかお寺の運営を手伝っている親子がいて、これは大蔵家の遠縁に当たるそうだ。名は大蔵甚平と太。これに寺男が二人。以上総勢十名。他には大きな法事なんかの際、若干名応援が来る。臨時の女中や男衆だな。まあ、こんなところだ」
これらの情報を竜之介は寺に茶菓子を納めている菓子屋から仕入れたのである。
竜之介が意気揚々と午前中の自分の成果を披露している間、栄造は女給が置いていったコップの水を一気に喉に流し込んでいた。何しろ巨体である。竜之介も長身だがこちらは痩せている。片や栄造は広目天のごとき豊かな肉付き。
「どうだい、こんなところで? 君の方も似たり寄ったりだろう?」
「僕はそっちは調べなかった。僕が調べたのは〈後姿の佳人〉さ!」
漸く息の整った栄造、満面の笑顔で、
「喜べ! 〈謎の女〉の正体が判明したぞ!」
これには竜之介も心底吃驚した。率直に賛嘆する。
「そいつァ、凄い!」
「いや、種を明かすとあんまり凄くも謎でもないのだが。実は誰でも──この街の大抵の人は知っていた。見た場所と背格好を告げると『ああ、あの人か』と。つまり、住職のいい人……愛人らしい」
名は澤田葉と言う。二、三年前にここ湯河原に引っ越して来た。夫とは離縁したとか。
どういう事情があるかは定かではないが生地には戻らぬ決心らしく、親の墓を移したいと寺へ相談に来たことから円了と懇意になったそうだ。現在は唐物屋──今風に言えば〝西洋小間物屋〟で働いている。これは住職の親戚筋の店で、つまり、働き口を斡旋したのも住職ということになる。それだけではない。最近では正式な結婚話も進んでいる。住職は以前に妻を亡くして、ずっと独り身だった……
ここまで一挙に話してから、栄造はやおらステッキを持ち直した。
「どうだ? これからその、西洋小間物屋とやらを覗きに行こうではないか!」