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 さて、漱石先生の向かった先は名を圓願寺という地元の名刹である。

 これは朝方、竜之介と栄造が立ち寄った裏寂れた寺とは比較にならない大寺で、町の西方、小高い丘の上にあって周囲をグルリと築地塀が巡らしてあった。

 先生はさっさと庫裡に入って行ったが、勝手についてきた二人は外で待つことにした。

 ブラブラと広い境内を散策する。何しろ丘全体が寺領という広さ、散策し甲斐があった。

 山門を入ると左手に鐘楼があり、手入れの行き届いた前庭、鈎の手に本堂だ。その奥はずっと墓地となっている。

 最奥の墓地まで行ってみる。そこの裏門からの湯河原の町の眺めが素晴らしかった。

 つくづく見蕩れていると、何処からか走り寄って来た犬に滅茶苦茶に吠えられた。地獄のように真っ黒い犬だ。

「ウアッ……タッ……」

「あっちへいけ! こら!」

「何だ、こいつは? 咬まないだろうな?」

 ほうほうの体で二人は前庭まで逃げ帰って来た。ことに犬が苦手な竜之介、全身ビッショリ汗をかいている。栄造は面白がった。

「さては、僕たち墓荒らしとでも思われたかな?」

「でなければ──幽霊だな」

 竜之介のその言い方があまりに真剣だったので一層声を上げて栄造は笑った。

「よせやい、縁起でもない! しかし、実際、犬に吠えられるのはあんまり気持ちのいいものじゃないな。まだ昼間だからいいようなもののこれが真っ暗闇だったら──」

 栄造の口調が変わった。

「僕の父親が息を引き取った瞬間、魂が体から出ていくのがわかったかのように、父の可愛がっていた犬が、突然庭から縁側に飛び乗って来て吠えたんだ。あれには驚いたな」

「だから、連中には霊魂が見えるのさ」

 そこまで言って、竜之介、いきなり足を止めたので栄造は背中にぶつかりそうになった。

「おい? どうした──」

「見ろよ」

 行く手、本堂の前に中を窺うような格好で佇んでいる人影があった。

 ほっそりした女人。紺地に藍の縦縞の着物。帯は蘆手模様と見た。

 思わず二人とも息を殺して棒立ちになった。

「……先生の小説のようではないか」

 暫くして栄造が囁いた。

「うむ」

 竜之介もそれを思っていた。

 時に漱石は舞踏会へ赴くような姿の女人を寺に置く。だから二人は、眼前の女が先生の創作意欲が産んだ白昼夢ではないかと半ば本気で疑ったのだ。かなり離れているし、後ろ姿ではあるが、その人が〈佳人(うつくしいひと)〉であることも二人は確信した。黒いショールで覆った華奢な肩が不安そうに傾斜して、頻りに本堂の中を気にしている。

 盗み見ていることにバツの悪さを覚えて竜之介と栄造は同時に女から視線を逸らせた。

 幸い、向こうは二人には気づかなかった様子。

 そっと(きびす)を返して、どちらともなく鐘楼の方へと歩き出した。

 先刻あれほど二人を震え上がらせた犬も何処かへ走り去ったと見えて境内は森閑と静まり返っている。時折行き交う(くるま)の音が築地塀越しに聞こえるだけだ。 ※俥=人力車

 歩いていて鐘楼の横にも門があることに二人は気づいた。

 そこからの眺めはどんなだろうと、足を向ける。

「立派な門だな!」

「うむ。ひょっとしてこの門(・・・)が正式の山門なんじゃないのか?」

 本堂を例の竹のステッキで指し示しながら栄造が指摘した。なるほど、そう言われると始めに潜った門よりもこちらの方が遥かに大きかった。距離的にもこの門からなら本堂まで一直線だ。

 扉は閉まっていたが構わず、栄造は手をかけた。

「──うん?」

「どうした?」

「びくともしない。開かないや」

「どれ?」

 竜之介も加勢して一緒に押し開けようとした途端、

「およしになった方がよくってよ。その門は封印されていますの」

 突然の声に扉に手を置いたまま二人は振り返った。

 声の主は海老茶の袴姿の少女──女学生である。

 束髪に結った豊かな黒髪に綿菓子のような薄桃色のリボンが揺れている。

「そこは〈開かずの門〉です」

 既に妻帯者でありながら女に純情な栄造が真っ赤になっているのを尻目に、あくまで冷静に竜之介が問い質した。

「開かずの門──とは?」

「その門を通ったら不幸が訪れるのです」

「まさか」

「あら、本当よ!」

 少女は臆することなく言葉を継いだ。濃い睫毛に縁どられた瞳は朝露に光る苺のように瑞々しい。

「尤も、昔は封印まではされてなかったのだけれど──十七年前、そこを通った人が言い伝え通り不幸な死に方をして、以来、父が閉めてしまったの」

「父? じゃ、君はここの──」

「ええ。私はこの寺の娘ですわ」


「初めまして。私、大蔵七宝子(なほこ)と申します」

 竜之介と栄造が漱石に同行して来たと知って、改めて少女は挨拶をした。

 すぐにピンと背筋を伸ばして、向日葵のごとき大輪の微笑で、

「この度は父がご厄介なお願いをして申し訳ありません。大文豪の漱石先生をこのようなことで煩わせるべきではないと私は反対しましたのに。その天下の夏目漱石だからこそ解決できると言って父は聞きません。でも……行方知れずになった本尊を見つけ出すなんてこと、いくら漱石先生でも不可能ですわよね?」

「え?」

「今、何と?」

 お供をして来た門下生ならとっくに事情は知ってるはずと大寺のお嬢さんは話しだした。

 それによると──

 遡ること五日前。有ろう事か有るまい事か、この寺の本尊が消え失せてしまったのだ。

 盗まれた、と言った方がいいかもしれない。

 本尊は平安末期・定朝作と伝わる菩薩立像(りゅうぞう)である。

 その前夜は何も変わったことはなかった。朝のお勤めに出た住職自ら須弥壇の上に御本尊のおられないことに気づき大騒ぎになった。

 とはいえ、県下でも一、二、に数えられる名刹、その本尊が消失したとあっては……

 住職も副住職もまず世間体を憂慮した。その結果、このことは未だ警察には届け出ていない。


「それで、ウチの先生に相談しに来たと?」

 ここへ来て初めて声を発した栄造である。竜之介も呆れ顔で、

「しかし、そんなこと相談されたって先生だって困るだろうに。飼い猫がいなくなったとか言うのとわけが違うのだからな」

「〝溺れる者は藁をも掴む〟ですわ」

 思わず顔を見合わせる竜之介と栄造。我等が大先生を〝藁〟とは……!

 その二人の仰天振りがよほど可笑しかったと見えて七宝子は鈴を転がす様な声で笑った。

「あら! 西洋のお偉い学者がおっしゃるには〝人間は考える葦だ〟とか。〝葦〟と〝藁〟ならさほどの違いはありませんでしょう?」

 これぞ、当世の女学生気質。何とも凄いお嬢さんではある。


       


       


 挿絵(By みてみん)

     



 

       ☆ 女学生七宝子

      

       当時女学生は袴の色から〈蝦茶(えびちゃ)〉と呼ばれたとか。

       現在JKと呼ぶようなものですね?






 

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