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「どうだ、古寂びていてチョット良いだろう?」
ステッキを刀のように振り上げて栄造は指し示した。
「ええ、まあ……」
曖昧に相槌を打つ竜之介。
竜之介が大文豪・夏目漱石の門下生になったのは昨年の十二月だった。
その漱石先生が湯河原へ湯治に行ったと知り、居ても立ってもいられなくなって追って来たのが昨日、年も改まって大正四年一月十九日である。
来てみて驚いたのは先生の傍らに栄造が巨体を折り畳んで招き猫よろしくチョコナンと座っていたこと。
この男、竜之介とさほど歳は変わらない。実際、帝大では同じ講義を取っている。それでも、入門が早いというだけでやたら先輩風を吹かすから堪らない。
今朝も、先生がのんびり湯に浸かっているのをいいことに『散歩に行くぞ』と竜之介を強引に引っ張り出した。一体、何処で手に入れたのやら風変わりな竹の杖を振り回しつつ着いたのが、ここ、今にも倒れそうな古刹である。
「慶宮寺と言うのさ!」
こんなのの何処が良いのだ、と竜之介は内心思った。それを察したか、栄造、
「馬鹿にしちゃいかん。こういう古いものにこそ新しい発見がある。シティ・ボーイの君なんぞにはわからないかねぇ?」
「僕だって、古いものは嫌いじゃない。むしろ──」
その通り。竜之介は去年、今昔物語から材を採った短編小説《羅城門》を同人誌に発表した。
尤も、大して反響はなかったが。
実は今現在、同じく古典を題材にした短編を書いていて、漱石先生を追って来たのもその新作を見てもらいたかったせいもある。
一方、弟子の先輩を気取る栄造はと言うと、未だこれといった傑作をモノしてはいなかった。
だが、当人はさほど気にしている風には見えない。
祖母に溺愛されて育った造り酒屋の御曹司は鷹揚で愛嬌があった。
竜之介はそんなところを内心気に入っている。ともすれば繊細過ぎて物事に拘る傾向のある自分と正反対でいい。
「おい、見たまえ!」
さっさと寺の中に上がり込んだ栄造が大声で叫んだ。
「これぞ、天上のお花畑だ……!」
なるほど、天井の格子の一つ一つに違った意匠の花が彫刻されている。
「ふふ、だが、こんなのはまだ驚くに当たらない。いいか? この寺はな、地元では別名カラクリ寺と呼ばれている。それこそ、知らない者はいないくらい有名なんだぞ。今は──見ての通り荒れ果てているが、それでも面白い仕掛けが随所に残っている」
扉の前にいた竜之介に、
「おい、そこだ! その扉、覗いてみたまえ」
「?」
扉にはちょうど人の目の高さに四角い穴が穿ってあった。
竜之介は長身なので屈まなければならなかったが、言われた通り覗いて見る。
すぐ合点がいった。そこから覗くと須弥壇の本尊の御顔が目の当たりに拝めるのだ。
「わかったかい? そう、扉を開けなくとも有難い仏様をお参りできる趣向なのさ! 昔の人の知恵も捨てたもんじゃないな」
(この程度でカラクリとは大仰な……)
恬淡な竜之介は別段感動などしなかった。
懐手のまま寺の周囲を歩いて見ることにした。
風景はすこぶる良い。空はカラリと晴れて樹木が冬の陽に燦いている。来て良かったと染み染み思った。心が洗われるようだ。
一巡りして戻った時、ハッとして竜之介は足を止めた。
何やら奇妙な音がする──
最初は空耳かと思ったが、違う、確かに、幽かな音が響いていた。
こんな場所で聞くには甚だ違和感のある音。軋むような、喘ぐような、地の底から湧いて来る、そんなくぐもった音……
咄嗟に、竜之介は先刻の扉の覗き穴から堂宇の中を覗いた。
奇妙な音の正体は瞬時に解明した。
須弥壇の真ん前で栄造が大の字になって眠っている。
「なんだ、鼾か!」
苦笑しつつも、改めて栄造の暢気さが羨ましくなった。
見ろ、仏様まで笑っていやがる。おや? それにしても──
(アレはあんな顔してたっけか? さっき覗いた時はもっと違った顔に見えたような……)
とはいえ、もはや竜之介は驚かなかった。
こんな風に、見るたび像の表情が違って見えるのは、見る側の心象を対象が素直に反映させるから。つまり、笑っている自分の目に、須弥壇の本尊はさっきよりずっと優しく見えるのだ。
竜之介は扉を開けて中に入ると、須弥壇の前に立った。
「──……」
自然、ため息が漏れた。澄み切った心で対峙した本尊のなんという美しさ……!
像は千手観音だった。先刻、栄造に促されて扉の穴から覗いた時は、手までは見えず、十一面観音かと思ったが、こうして近くで見ると額の〝第三の目〟まではっきりと確認することができた。
観音様は優しく厳しく竜之介を見下ろしていた。
須弥壇の右側、床の上にもう一体、像がある。こちらは如意輪観世音のようだ。
こちらも、須弥壇に据えられた本尊に勝るとも劣らない荘厳さだった。
寺の仕掛け──カラクリがどうのと言うより──してみると、この古刹の凄さはこれら仏像にこそあるのだ、と竜之介は思った。その証拠に、廃寺になっても拝みに来る熱心な参拝者がいるのだろう。蝋燭立てには燃えさしの、まだ新しい蝋燭が刺してある。
「おい、栄造サンよ、起きろよ、風邪をひくぞ?」
益々大きくなる鼾に、流石に竜之介は友を揺り起こした。
午後から時間があったら、今度こそ先生に小説を見てもらおうと思っていた竜之介だったが。
その日の昼食後、漱石に来客があった。
懇意の住職だそうで、上背のある、壮年の品の良い僧侶だった。
客はほどなく帰って行った。と、入れ替わりに二人が呼ばれた。
漱石は、やや迷惑そうな、面倒臭そうな顔で言うのだ。
「これから出て来る。ちょっとした頼み事をされてな。何、さほど時間はかからないと思うが……」
若い、前途ある弟子たちの顔を互い違いに見て──実際、漱石は自分亡き後、〈門下生〉と呼ばれる大勢の中で名を残すとしたらこの二人だろうと思っていた。口に出して言ったことはなかったが。
「君たち、なんなら一緒に来るかね?」
二人は即座に同意した。
「ええ、ぜひ!」
「お供させてください!」