第二話 街は危険でいっぱい
(アナト、兄さんは行かなくちゃいけないだ)
そこにいるのは困った顔をする青年と、泣きわめく幼い少女。
(そんなの嫌だよ! 兄さんと一緒じゃなきゃ嫌だもん!)
少女、アナトは大声で泣いていた。必死で兄、ルーンがこの場から消え去ってしまわないように引き留めようとしているのだ。しかしこの先の結果はすでに決められたもの。
ルーンはアナトに言い聞かせるようにゆっくりと話しかける。
(ごめんな。それでも兄さんは行かなきゃ行けないんだ。いつかちゃんと戻ってくる。それまでいい子にお留守番しているんだよ?)
そう言い残し、ルーンは妹に背を向けて歩き出す。アナトは泣きながら追いかけるが、いつまでたってもその背中は遠ざかるばかり。
(待って、待ってよ、兄さん! 私も、私も一緒に行くから!)
少女の身体はいつの間にか大きく成長している。それでも、行動は変わらない。泣きながら必死で見えなくなる兄を求めて続ける。
(兄さん、待って、待っ――)
そして意識は暗転。
「兄さん!」
アナトは声を出しながら目を覚ました。自分の声の大きさに驚きながら、きょろきょろと辺りを見回す。いつもと変わらない自分の部屋がそこにあるだけだ。確認してようやく自分が夢を見ていたのだと気付いた。
少女の兄、ルーンは幼い頃に少女の目の前から姿を消した。理由は神の戦士として教会に選定されたからだ。
メキシャータ国はロマリア地方の中でも東側に位置している。アナトの住む街「カルプト」はその中でも国境付近にあり、それ故にこの地ではマニアンリを信仰する国との争いが絶えない。国も防衛拠点をこの地に据えていることもあってか、この街では代々、ダーマスアラの中でも軍神と呼ばれる「ラクシア」と呼ばれる神を祭っている。
ルーンもそうした情勢もあってか、神に「選定」という名の徴兵を受けた。ルーンはアナトから見ても争いごとに向いているとは思えないほど大らかで、優しい人格の持ち主だった。だからこそ、兄が戦争に行くなんて想像も出来ず、慣れない戦場からすぐに自分の元へと戻って来るだろう、彼女はそう信じて疑わなかった。
しかしルーンが戻ってくることはなく、代わりに来たのは兄の死亡を知らせる紙きれ一枚だけであった。
アナトはその話を信じるわけにはいかなかった。ルーンは彼女にとって唯一の肉親だ。幼い頃に両親を亡くして以来、兄妹は父親の友人であるマーケンの家で暮らしている。若くして妻を失い、子もいなかったマーケンは彼女たちを実の子供のように接しまた彼女も本当の父親のように慕ってはいたが、それにもましていつも優しく笑っていた兄にアナトは懐いていた。
だからこそ、ルーンの死というのは受け入れられない現実でしかなかった。アナトは養父の店を手伝いながらいつか兄が戻って来てくれると今も信じている。
「さて、そろそろ起きないと……」
アナトはベッドから降りるとグッと背を伸ばした。昨日のうちに料理の仕込みはマーケンが済ませているだろうが、開店準備は彼女の仕事である。手早くすすめていかないと開店が遅れマーケンに迷惑をかけてしまう。
養父であるマーケンは寡黙な人柄で、ある種のとっつきにくさがあった。それでも馴れ親しんでくると気まじめ過ぎる気質の裏にある彼なりの優しさを感じることがある。まあ、彼女にしてもそれを感じるまでにかなり時間がかかったのだが。
街の小さな飲み屋兼自宅が少女と養父が暮らす家である。地域柄、傭兵と思われる荒っぽい連中が店に来るけれど、その人たちが落としてくれるお金でご飯が食えているのだから文句は言えない。けれど、アナトは彼らを内心嫌っていた。彼らがいるせいで兄が今も帰ってこないのだと考えてしまう。彼らが悪いわけではないが、そう簡単に割り切れるものでもなかった。
アナトは起きて身支度を整えると台所へ向かった。養父が朝の早いうちに起きてくることは滅多にない。店を閉めた後、朝方までは次の日の仕込みをしているからだ。昔は兄がそれを手伝っていたが、兄が戦争に行ってからはずっと一人で作業している。一度彼女から手伝いを申し出た事がある。けれどマーケンは断固として手伝いを拒否した。私が子供だからということもあるのだろうが、兄が帰って来た時の居場所がなくならないようにというのが彼なりの理由だとアナトは考えている。彼も兄がいつか帰ってくると信じているのだ。
そういうわけで、アナトとマーケンとの間で自然と生活リズムにズレが生じてしまうのは仕方無いことなのだと何年も前に割り切っていたりする。
「何が残っていたっけ……」
アナトは貯蔵庫の中の様子を確認した。干し肉が数切れと、ジャガイモなどの保存の効く根菜類しか入っていない。
「朝のうちに市場に言って買い足さないと。最近値段が上がっているから安いのは買い溜めしとかないといけないかな」
店のことはたいてい養父がしているのだが、時々仕事中にストックが切れてしまうことは度々あった。そうなる前に少なくなった食材を追加しておかなければならない。少女は財布を手に取ると、街の一角にあるに市場に足を運ぶことにした。
「おや、アナトちゃん。これから買い物かい?」
「はい、ちょっとこれから市場まで」
常連客の男がアナトを見かけて声をかけてきた。気立ての良い看板娘であり、客からの人気もあるアナトは良く街中で声を掛けられる。彼もその一人だ。
「気を付けてな、最近は傭兵どもの神兵様も殺気だっているからよ。難癖引っかけられて傷ものになっちまったら大変だ」
「大丈夫、私逃げ脚には自信があるもの」
アナトはそう言って軽く答えた。最近はまた川向うとの戦争が近いという話もあり、街は以前に比べて殺気立っていた。それゆえの男からの忠告だろう。少し気にかけておこう、そう考えて市場に足を向けた。
その時だった。向かう先でどなり声が聞こえてきたのは。
「テメーいい度胸じゃねえか! 教会の腰巾着のくせに生意気なこと抜かしてんじゃねえぞ!」
「無礼もの! 我が神、ラクシア様を侮辱しようというのか! 返答次第ではその醜い口が二度と開けないようにしてやる!」
そこはすでに人だかりが出来ており、とてもそれを押しのけていけるような隙間は何処にもなかった。見物人達は彼らの遣り取りを面白おかしく、興奮した目付きでそれを観戦している。それもそのはず、このカルプトではこのような喧嘩は日常茶飯事だからだ。街の者たちもむしろそれを歓迎している雰囲気さえある。戦場に近い街だからか血の気の多い人間が多いのだ。
争っているのは街の教会の騎士だろうか。もう一人はおそらく傭兵、もしくは賞金稼ぎだろうか。カルプトで教会の者といざこざを起こすのはそういう輩とこの街では相場が決まっている。
理由は簡単だ。彼らは街を転々とするため、特定の神に祈りを捧げるものは少ない。信じられるのは己の武器のみ。神頼み(ペテン)で民から金を搾り取る教会連中とは相いれないものがあるのだろう。
だからこそ、この街ではこういったいざこざが絶えない。カルプトでは教会の力が強く、治世はもっぱら聖職者が担っている。また教会が傭兵連中を防衛軍に組み込んでいるから、内部で騎士と傭兵がそれぞれの立場とプライドから反発し合う。よって街の中でこういう喧嘩がいたるところで見られるのである。
「まあ、私には関係ないことかな」
アナトはその場から立ち去ることに決めた。喧騒に惹かれ集まってくる人々の間を通って行く途中、フードを被った少年とすれ違った。
その瞬間、身体中の毛穴が開くかのような感覚が少女を襲った。原因不明な感覚に彼女の足は地面に縫いつけられたかのように動かなくなる。背中を気持ち悪い汗が流れ、寒気と恐怖で一瞬頭が真っ白になる。
どれくらいそうしていただろうか、動けるようになった頃になってからようやくアナトは先ほどまであった興奮とは違う、どこか戸惑うような空気が周囲に漂っているのに気付いた。その原因はおそらく、人だかりの中心。
「おい、ありゃどういうことだ?」
「なんで子供があんな所に……」
見物人達は突然の乱入者に戸惑いを隠せずにいるようだった。その人だかりの隙間から騒ぎの中心を覗き見ると、そこにいたのは一人の少年だった。背は私よりも少し小さいかもしれない。被っていたフードをとり、今は素顔を晒している。しかしそんなことよりも目に付くのは背中に差している一本の剣だ。彼の身長よりも遥かに長いその剣を全く苦にすることなく背負うその姿は、近くにいる傭兵や騎士の姿が霞んでしまうほど存在感を放っている。
「おいガキ、邪魔だからすっこんでな!」
傭兵が少年を突き飛ばそうと近づいた。そして彼が少年に触れると思った瞬間、それは起きた。少年は自ら傭兵のほうに一歩近づくとその腕をかいくぐりつつ彼の横を取り過ぎ、そして通りざま足を引っかける。
自身の勢いも殺せぬままに、傭兵は顔を地面に激突させた。その一連の動きに一瞬、騎士は目を奪われていたものの、すぐに少年のほうを睨みつけて警戒を露わにする。
「……危ないな、いきなり何するんだよ」
その声は周りの緊張とは全く無縁な、こちらの気が抜けてしまうような間延びした声だった。倒れている傭兵のほうに視線は向けられているものの、その落ち着いた立ち振る舞いから隙は一切見られない。
「この街じゃ迷い込んだ旅人に襲いかかるのが礼儀なのか」
少年は騎士に語りかける。
「貴様、何者だ。ここカルプトはラクシア様によって統治された聖なる土地と知って……」
「ていうと、ここはメキシャータって国でいいんだよな?」
『ケケケ、ラクシア様ねぇ。大戦前は三下の低級神だったくせにアイツも立派になったもんだ』
騎士の声に反応したのは二種類の声。そこに感じた不思議な違和感。けれどそれは少年の背後から襲いかかる傭兵の姿を目にした瞬間、頭の隅に追いやられる。
「このクソガキがッ!」
復活した傭兵が腰に差していた剣を抜き、少年に切りかかった。振り下ろされた剣は確実に少年の頭を狙っている。
(危ないッ!)
アナトは恐怖のあまりに目を閉じた。周りもこれから始まる惨劇に悲鳴を上げる。
しかしその悲鳴はすぐにどよめきに変わった。何故だろうか、アナトは閉じていた目をうっすら開ける。そこに映っていたのは少年が振り向くことなく背中にあった剣で傭兵の攻撃を受け流したという驚くべき光景だった。
「危ない奴だ、いきなり斬りかかるとかさ。あんまりふざけた真似して欲しくないな。じゃないと……次は痛いじゃ済まないから」
少年は振り返りながら底冷えするような視線で傭兵を睨む。それに恐れをなしたのか、怯えるような眼をし、この二、三のやり取りの間ですっかり戦意を喪失した傭兵は持っていた剣を手放し、背を向けて逃げ出した。
傭兵に一瞬だけ放たれた闘気は圧倒的存在感を持って周囲を囲む人々に伝波する。誰一人として動けない中、その中心にいる少年だけは周りを退屈そうに眺めると立ち尽くす騎士に背を向けて歩き出した。彼など眼中にない、そう暗に背中で語っているように。
「ま、待て! 貴様、何者だ!」
騎士は己の義務感からか、恐怖に縛られていながらも懸命に言葉を紡ぐ。少年はそれを面白そうに眺めると、口を歪ませながらそれに答える。
「お前の主に伝えな。赤き眼は次にお前の心臓を狙うと!」
『テメェの命、俺様が有効に使ってやるからよ!』
二つの声が響き渡る。あまりにも尊大で、傲慢で、意志の強き声に誰もそこから動くことが出来ない。唯一少年だけはその場に興味を無くしたのか悠然と歩きだした。
今度こそ、誰も彼の歩みを止めなかった。