第一話 襲うものと襲われるもの
森は人間を拒絶する。自然に囲まれた暮らしから己の力で切り開いた文明という家に住みかを移したらだろうか。何の備えもせずに森に入ったものに自然はその猛威を容赦なく奮う。
対象がどのような存在であるかは関係がない。そういう意味では自然というのはあらゆる生き物に対して平等であるともいえる。
「暑い……」
夏場の森というのは一見涼しげなイメージがあるがそれは間違いである。体感温度というのは気温と湿度によって変化する。植物は光合成を行う際に酸素と同時に水分を大気中に放出する。つまり、湿度が平地に比べて圧倒的に高いのだ。となるとどうなるのか。
「暑い……」
男、というより見た目は十四、五歳と思しき彼は少年と言って差し支えない外見をしている。しかしその髪の毛は老人のように白く、左右で異なる、朱と蒼の瞳はこの少年をどこか不気味な存在へと変貌させている。見た目でさえ異様なのに、それが霞むくらいに圧倒的存在感を放っているのは彼が背負っている自身の身長より大きい大剣だ。鞘に入れられていない剥き出しの刃は日の光さえ吸収してしまうくらいに黒く、鈍い光を放っている。
しかし、そんな可笑しな彼でも暑さのあまりに口数が減り、思考能力も衰え、運動能力も低下し、意識も曖昧になっている状態ではその異様さも鳴りを潜めてしまっている。現在の状態を端的に言えば軽い熱中症になりかけといったところだろうか。ジャングルなどで遭難したとき水分不足や慣れない気候により真っ先に人体に襲いかかるのがこの症状である。対処法は適度な水分補給なのだが、生憎、彼はそんなものなど森に入ってからすぐに飲み干してしまっている。
『よう相棒、大変そうだな』
彼以外に人はいない。少年のものよりも甲高い、聞くものに不快感をもたらすような声が森に響く。その声は彼の背に差してある剣から発せられたものだ。
「……うるさい馬鹿剣。下らないことに付き合っていられるほど、体力の余裕はないんだよ」
返事するのも疲れるのか、背負った剣に対して彼は悪態をついた。そんな彼に背中の剣はケケケといやらしく嗤った。
『つれないな~。これでも心配してんだぜ? 長年連れ添った相方に冷たい冷たい』
「こっちはかれこれ半日彷徨ってんだ。てめえの戯言に一々付き合ってられるほど体力の余裕はねえ」
『ヘイヘイ。そいつは大変だね。そんな相棒に良い知らせだ。団体様が御用だとさ』
少年は剣の言葉に歩みを止めて辺りを見回した。森は不気味すぎるくらいに静かだ。そう、言うなれば嵐の前の静けさといえる。
「囲まれているな……」
『ケケケ。いいじゃねえか。馬鹿共が飛んで火にいる夏の虫ってか! 丁度いい、全部平らげようぜ! 前菜ってやつだ!』
剣は早く襲って来いと言わんばかりの勢いでまくしたてる。
「ならお前が何時も食っているのは何だって言うんだよ?」
少年は皮肉を込めて剣に尋ねた。そう、こんな小物相手ならいざ知らず、彼と剣が本来相手をするのは人の力では対処不可能と言われる存在だ。それでさえもこの剣にとってはというと
『ハッ。あれはただの摘み食いだ。間食みたいなもんだよ』
でしかないらしい。
「そんなのただの食いしん坊ってだけじゃねぇか」
『使い手が悪いとこっちの燃費も悪くなるってことだ』
「そいつは悪うございましたっと……来るぞ」
少年は剣との会話を終わらせると、柄に手を掛ける。
「ひい、ふう、みい……七人か。しかもただの盗賊。丁度いい。路銀も心細くなってきた所だ。盗賊なんだ、殺されたって文句は言えねえよなっ!」
『言うねぇ相棒~。これじゃあどっちが悪党だか分からねぇ!』
少年は背中に背負っていた剣を両手で握る。その姿には先ほどまで感じていた不釣り合いな様子は何処にもない。
彼はとりあえず一番近い所にいるから片付けようと考え、目標に向かって駆け出した。そこに先程まであった気の抜けた姿は何処にもない。瞬き一つする間もなく彼は集団の中に飛び込んだ。
盗賊と一人の少年との戦いは一方的な形で終わりを告げた。
元々盗賊たちにも油断はあった。子供と思い舐めてかかったのだ。見たところ子供でしかも疲労困憊。近隣の町では最近商人が警戒してか実入りが落ちていたため、少年は彼らにとっては良い小遣い稼ぎになるはずだった。
しかし残念なことに相手が悪過ぎた。この少年の剣の技量は彼等がいくら束になったところで敵う相手ではなかったのだ。
少年は最初の一人を一刀のもとに切り伏せると、倒れる相手を確認する間もなく次を狙う。斬り付ける箇所は全て急所。首、胴、あらゆる箇所から血しぶきを巻き上げて、一人、また一人と盗賊はその命の火を消していった。死体から吹きあがる鮮血は少年の真っ白い髪を真っ赤に染めてゆく。
唯一、幸運というべきか、はたまた不幸というべきか、傷が致命傷に達していないものが一人だけいた。とはいってもその傷は深く、彼に残された時間は残りわずかしかなかったが。
そんな今にも切れそうな意識を保ちながら、彼は自分たちを切り殺した少年を見る。少年は死んだ仲間の胸元を探ると、そこから財布を抜き取っていた。袋から硬貨を出しては中身の少なさに悪態をついている。これではどちらが獲物で、どちらが盗賊か分かったものではない。
(この、バケモノめ……)
そう、まさにバケモノとしか言いようがない動きだった。目の前に現れたと思ったら、いつの間にか胸に一筋の真っ赤な線が出来ていた。それに気付く間もなく噴き出す鮮血。同じように切り殺されてゆく仲間たち。狙った相手が悪かったとしか言いようがない。
そうだ。こんな森の中に、こんな少年が一人で歩いていることにどうして疑問に思わなかったのか、男は死ぬ間際になって後悔する。しかし、それももう遅い。目の前の少年がついに男を標的に定めたのだ。近づいてくる少年。そして彼は少年の顔を目にする。
左右で異なる色の朱と蒼の瞳。ゾッとするほど冷徹にこちらを見下ろす視線。耳まで裂けそうなくらいに歪んだ口元。そして少年の手に握られた剣。禍々しく光り、魔術師でもない平凡な彼ですら感じる魔力を刀身から溢れさせるその剣。おそらく魔剣だ。
この世界で唯一、神を殺せる兵器。
(……待て、聞いたことがある。子供のような体格でありながら、その身の丈を超える剣を振るう……まさかこいつは……『血眼のコヨーテ』!?)
分かった時は全て終わったあと。自分たちが手を出してはいけない存在と気付いた時にはすべてが遅すぎた。襲うものと襲われるもの立場は彼らが狙いをつけた瞬間には逆転していたのだ。近づいてくる少年の気配を薄れゆく意識の端で感じながら、男はゆっくりと絶望の海へと沈んでいった