みずがめ市場の白黒猫 リライト版
過去に作品をリライトした小説です。
0.白黒猫
ある山の中腹に一軒の家が建っています。
家は木と石と土で出来ていて、ドアのノブが金ぴかに輝いていました。
家の前には小さな池があり、3匹のマスが気持ちよさそうに泳いでいました。
家の後ろには大きな木が1本と中くらいの木が1本と小さな木が1本生えていました。
風が吹くと、3本の高さの違う木がそれぞれに、ザワザワ、サワサワ、サラサラと歌声を上げるのでした。
この辺りは気候が穏やかで、夏は暑くなりすぎず、冬は山の上の方にスキーが出来るくらいの雪が降ったけれども、風邪をひくほど寒くはなりませんでした。
春になると、たくさんの花が咲いて、家の周りはちょっとした花畑のようになります。
今はまだ春には少し早くて冬が終わるくらいの時期。太陽は少し西に傾き、お昼と言うには少し遅くて、夕方にはまだ早い時間でした。
山の麓から続く道を、家のあるじが帰ってきました。
立派なヒゲに金色の目、ピンと立った耳は三角で、よく手入れされた毛皮は真っ黒にツヤツヤとしていて、お腹だけが雪のように白い、白黒猫でした。
白黒猫は町の市場へ買い物に行った帰りです。
まだ春になっていない季節は、気がつくとすぐにお日様が山陰に沈んでお月様が顔を出します。白黒猫は寒いのが苦手なので、早めに家に帰ることにしたのでした。
「思ったより早く着いちゃったな」
白黒猫は背負っていた赤いリュックサックを揺すりながら、なだらかな山道を登り、家の前に到着しました。
池をのぞき込むと、3匹のマスに言いました。
「ただいま。今晩のおかずは誰に決まったのかな?」
するとマスの姉妹はこう言いました。
「ずっと話し合ってるんだけど、それが決まらないのよ。明日の朝までには決まると思うわ」
「そう。じゃ、明日の朝食のおかずは誰か、決めておいてくれよ」
そう言うと、金ぴかのドアノブを回して家に入りました。
家に入るとすぐ右側が台所。水を入れておく水瓶や、料理をするためのちょうど良い高さの台があります。台所の横で、部屋の向こう側の壁にはストーブがあります。左の奥の壁には窓があり、その下には気持ちよさそうなベッドがあります。部屋の真ん中には小さなテーブルが1つと椅子が2脚。だいたいそれくらいが、この部屋の全部です。
白黒猫はテーブルにリュックサックをよいしょっと置くと、ストーブに火をつけに行きました。
ストーブは薪ストーブで、黒い鉄で出来ていました。
白黒猫はストーブの隣に積んである薪の中から、細い枝を5本と中くらいの薪を3本と太い薪を2本選び出しました。ストーブのふたを開けると、細いのを5本、その上に中くらいのを3本、最後に太いのを2本積み上げます。
それから薪のまた隣に置いてあるバスケットから、栗のイガを取り出しました。柔らかい肉球を傷つけないように気をつけながら、細い薪の間に挟みます。
それからマッチを取り出すと、シュッと火をつけ、その火を栗のイガに移しました。
栗のイガはすぐにパチパチと音を立てて燃えながら、細い枝に火を移します。
細い枝に移った火は、今度は中くらいの薪に移り、最後は太い薪に火が移って、全体が燃え始めるのです。
白黒猫は中くらいの薪に火がついたのを確かめると、鉄の扉を閉め、空気穴を調節して火がよく燃えるようにしてやってから、やっとテーブルのところに戻りました。
白黒猫は赤いリュックサックから、リンゴを3つ、小麦粉を一袋、バターを1箱、チーズを1個、卵を5個、最後にミルクを1本取り出しました。
キッチンの隣にある棚に、買ってきたリンゴやバターを片づけると、夕飯の支度に取りかかります。
今日のメニューは最初からアップルパイと決まっていたのです。明日の朝はホットケーキ。
「マスの姉妹は、僕が魚を食べられないのを本当に知っているんだろうか?」
そう思うと、白黒猫はクスクスと笑いながら小麦粉を練るのでした。
パイ皿にすっかりアップルパイの準備を整える頃には、薪ストーブがほどよく熱くなっていたので、パイ皿をセットして、あとは焼けるのを待つばかり。
白黒猫は窓から夕焼けを見ながらベッドに横になるのでした。
お月様が顔を出す前にアップルパイは焼き上がり、白黒猫はあまり熱いのが食べられないので、お月様が出るまでアップルパイが冷めるのを待ちました。
辺りが暗くなると、白黒猫はランプを取りだし、明かりをともします。
ほどよく冷めたアップルパイを半分と少し食べたところで、白黒猫はお腹一杯になりました。
「残りは明日の昼食にしよう」
白黒猫は残りのアップルパイを紙で丁寧に包むと、棚にしまい込みました。
さて、これからが白黒猫のお仕事の時間です。
道具をテーブルの下からひと揃い出してきます。
それはきれいな鳥の羽や鹿の毛や、キラキラと光る細い糸でした。その他に、釣り針がたくさん。
白黒猫のお仕事は、マスを釣るための毛針を作ることでした。毛針は虫の形をした釣り針のことで、マスが虫と間違えて食べに来るのです。
白黒猫は釣り針をカチッと動かないよう鋏にはさむと、色とりどりの羽や糸で、まるで生きている虫のように毛針を作っていきます。
白黒猫の作る毛針はよく釣れると、町の釣り人たちに大人気でした。15本も毛針を作れば、その日のご飯代くらいにはなったものです。
白黒猫は30本の形の違う毛針を作ると、紙の箱に並べました。紙の箱は小さな部屋に区切られていて、毛針1本に1つの部屋、合わせて30個の部屋にそれぞれがきれいに収まりました。
「さて、今日の仕事は終わり。もう寝よう」
白黒猫は辺りをきれいに片づけ、ストーブに太い薪を1本入れると、ランプの明かりを小さくしてベッドに潜り込みました。
山から少し冷たい風が吹いてきて、3本の木をザワザワ、サワサワ、サラサラとならしましたが、フワフワの暖かい布団にくるまれた白黒猫は、気持ちよく夢の世界へと入っていきました。
朝になると、ベッドのすぐ上にある窓にムクドリがやってきて、窓をコツコツと叩きます。それが白黒猫の目覚まし代わり。
白黒猫は暖かい気持ちの良い夢を見ましたが、どんな夢かは忘れてしまいました。
「おはよう」
あくびを一つすると、白黒猫は窓を開けました。
ムクドリが窓から入ってきて、天井の梁にとまります。
白黒猫はタオルを用意すると、家の裏を流れている小川に顔を洗いに行きました。小川の水はロープを結んだバケツですくいます。まだ川の水は冷たくて、白黒猫は一気に目が覚めました。
「おはよう」
マスの姉妹にも挨拶をします。
「朝食のおかずは誰に決まったのかな?」
白黒猫は尋ねます。
「それがまだ決まらないのよ。今日の夕方には決まると思うわ」
マスの姉妹は答えました。このやりとりは、マスの姉妹が小さな池に引っ越してきてから、もう2年と82日も続いていました。
「じゃあ、夕食のおかずは誰か、決めておいてくれよ」
白黒猫は朝食の準備に取りかかります。
まずはストーブに中くらいの薪を入れて、また火をおこします。小さな火種になっていたストーブのおき火たちは、すぐに元気を取り戻して薪を燃やし始めます。
小麦粉、卵、ミルクを混ぜて、ホットケーキの生地の完成です。
白黒猫はストーブの上に黒い鉄のフライパンを乗せて熱くすると、ホットケーキの生地を流し込み、あとは待つばかり。天井ではムクドリが朝ご飯を心待ちにしています。
白黒猫の朝ご飯はいつもホットケーキ。ムクドリと半分ずつ食べます。ムクドリはそんなにたくさん食べられないので、子供たちに持って帰るのです。
お腹もふくれて、ムクドリも帰っていきました。白黒猫もお出かけの準備をします。
昨日の夜に作った30本の毛針の箱を持って、池の前までやってきました。
「マスさんたち、この虫が食べたい?」
一つ一つの毛針をマスの姉妹に見せていきます。
「その虫は美味しくなさそうだわ」「そっちの虫は美味しそうね」
3匹のマスの姉妹は口々に、白黒猫の作った毛針を選んでいきます。
マスの姉妹の気に入った毛針を大切に仕分けて、お出かけの準備は出来ました。本物のマスが選んだ毛針が、釣れないわけがありません。
今日も赤いリュックサックを背負った白黒猫は、町の市場へ毛針を売りに行きます。
夕方の少し前、お昼の少し後、果物と小麦粉と卵とミルクとバターとチーズを買って、白黒猫はまた、家へつづく坂道を登ってくるのでした。
1.ビリーの毛針屋
今日も市場は大変にぎやかです。
まるで迷路のような細い通路の両側にお店がたくさん出ています。
白黒猫はいつも通り、果物屋さんのと金物屋さんの間、ミルク屋さんの向かいの壁に小さな敷物を敷いて、小さな毛針屋さんを開きます。
「やあ、ビリー」「おはようビリー」
果物屋さんのウサギのシンプソンおばさんや、金物屋さんのアリクイのトマソンおじさんが挨拶をします。ビリーというのが、この白黒猫の名前です。
「おはよう、トマソンさん。おはよう、シンプソンさん」
白黒猫のビリーは、金物屋さんのおうちの軒下を借りてお店を出しているのでした。お店と言っても、壁に「ビリーの毛針」と書いてあるだけです。
今の季節は冬と春のちょうど中間くらいで、寒い日は寒いし、ぽかぽかする日はぽかぽかしていました。川のマスたちも、よく食べる日もあれば、川底でじっとしているときもある、そんな季節です。まだ、ビリーの毛針が飛ぶように売れる時期ではないのです。
「今日は何本用意してきたんだい?」
トマソンさんが長い鼻をぶらぶらさせてビリーに聞きました。
「今日は18本用意してきたんだ」
ビリーの家の前の池に住んでるマスの姉妹が、18本の毛針を美味しそうだと言ったから、今日売る毛針は18本。
でも、トマソンさんや、ほかのお客さんたちはそんな話を知りません。いつも売りに来る本数がバラバラなので、欲しくても買えないのお客さんがたまに出ます。そんなときビリーは、次の日の毛針の予約をその人のためにとっておくのでした。
お昼前に、山猫のスチュワートさんとツキノワグマのランディーさんが2本ずつ毛針を買ってくれました。今日はお客さんが少ないようです。
お日様が真上から差してくる頃になると、ビリーもお腹がすいてきたので、赤いリュックサックからアップルパイとチーズ、それにミルクを取りだしました。
「もうお昼ご飯かい?」
それを見ていた、お向かいのミルク屋さんの年老いたヤギのトーマスさんが声を掛けました。
「うん、お腹がすいたんで、ちょっと早いけどね、トーマスさん」
トーマスさんは目を細めて言いました。
「美味しいオレンジ風味のクリームチーズがあるんだが、そのアップルパイと交換しないかい?」
ビリーは昨日の夕ご飯もアップルパイだったので、喜んで交換してもらうことにしました。クラッカーに乗せたクリームチーズは本当に美味しくて、ビリーは幸せになりました。
お昼ご飯を全部食べるとお腹一杯で、今度は眠くなってきました。ビリーは壁にもたれて目を閉じると、お日様が気持ちよくて、体がフワフワしてきました。
「ビリー、起きろよ」
本当に今、夢の中に入っていこうとしていたビリーを起こしたのは、ジェスでした。ジェスは茶色い毛並みの犬です。
「なんだ、ジェスか。なんのよう?」
ビリーはまだ眠そうです。
「それはないだろう? せっかく毛針を買いにきてやったのに」
ジェスもビリーの毛針を使っている釣り人です。
「ああ、ありがとう。ふわぁ~」
ビリーはあくびをしつつ、箱のふたを開けてジェスに見せました。箱の中には14本の毛針が並んでいます。
「よし、全部おくれ」
ビリーはびっくりしました。
「ちょっと待ってよ、まだほかのお客さんが来るかもしれないから、買い占めはやめてよ」
ビリーは毛針の入った箱を引っ込めます。
「なんだよ、客が買いたいって言ってるんだから、売るのが商売だろ!」
ジェスは耳を後ろに寝かせて、少しうなり声を上げました。
それを見ていた金物屋のトマソンさんが止めに入りました。
「ジェス、どうしたんだい? いつもの君らしくないんじゃないかね」
「そうだよ、ジェス。ビリーが困ってるじゃないか」
シンプソンおばさんも声を上げました。ジェスはきまりが悪そうです。
「なにかあったのかい?」
ビリーが聞くと、ジェスは悔しそうに身振り手振りを交えて話し始めました。さっき市場の入り口で、キツネのピーターに会ったのだというのです。
ピーターは釣り竿を下げていました。川や池に行くのならともかく、市場に来るにはおかしな格好です。ジェスが理由を尋ねると、ピーターはこう言ったのでした。
『いやね、今朝、大きなマスを80匹も釣ったんだ。あんまりたくさん釣れたから市場へ売りに来たんだけど、ちょっと目を離したすきに、みんな逃げ出しちゃったみたいなんだよ。君、僕のマスを見なかったかい?』
ジェスは目を丸くしました。この地域でも有名な釣り名人であるジェスには、今の季節に80匹ものマスが釣れるなんて信じられません。
『どんなにがんばっても、20匹以上釣れるわけがないさ。からかっているんだろう?』
ジェスがハッキリ言うと、ピーターの目がきらりと光りました。
『からかってなんかいないよ、本当に釣れたんだ。じゃあ明日、僕とマス釣りの競争をしよう。僕がまた80匹釣ったら信じてくれるかい? 朝からクネクネ川で勝負だ!』
クネクネ川は、ビリーの家の裏を山から麓へと下る綺麗な川です。話を聞いたビリーは言いました。
「今の季節に80匹もマスを釣るなんて、僕も無理だと思うよ」
今の季節の寒い朝などは、ビリーの家の前にいるマスの姉妹たちも食欲がありません。
「でも、もし本当にピーターがたくさんのマスを釣ったら、負けちゃうじゃないか。だからビリーの毛針がたくさんいるんだよ」
ジェスの言い分を聞いて、ビリーは考え込みました。
(自分が買い占めという強引な手段を使ってでも、絶対に勝ちたいんだな……)
「そりゃ、そういうことなら売っても良いけどさ……」
ピーターがビリーのお店に毛針を買いに来たことは一度もなかったので、まあ良いかとも思いました。ジェスは残りの14本の毛針をすべて買って行きました。
「やれやれ、今日はもう店じまいだよ」
ビリーが敷物をたたんで赤いリュックサックにしまい込んでいると、また声が掛かりました。
「やあ、ビリー、毛針を売ってくれないか?」
それは、さっき噂に上ったキツネのピーターでした。
「ピ、ピーター」
ビリーはちょっとびっくりしました。
「ごめん、今日はもう売り切れちゃって、店じまいなんだよ」
「ええ? そうなのかい? 困ったなぁ……どうしても毛針がいるんだよ」
ピーターは相変わらずニヤニヤと笑いながら言いました。しかしビリーには、ピーターが全然困っているようには感じられませんでした。
「明日じゃダメかい?」
ピーターが毛針を欲しがっている理由を知っているため、ビリーの声は少し小さくなりました。
「明日、朝から釣りに行くんだよ、ジェスとね。でも仕方がない。おじゃまさま」
ピーターはあっさりと帰っていきました。それを見ていたシンプソンおばさんが言いました。
「きっと何かたくらんでるよ。ピーターはずるがしこいので有名なんだから」
ビリーは少し気になりながらも、自分の買い物をして家に帰ることにしました。
「ビリー、これを持ってお行き」
シンプソンおばさんが、リンゴを2つビリーに持たせてくれました。
「ありがとう。じゃあ、また明日。さようなら」
赤いリュックサックを背負うと、少し気分が楽になりました。
今日の夕食のメニューはクリームシチュー。お向かいのトーマスさんのお店でミルクを買って、ハリネズミのアンディさんの八百屋でジャガイモとニンジンとタマネギを買って、坂道を登りました。
翌日。ビリーは市場でマスを売るピーターを見かけました。
「おはようピーター」
「やあ、ビリー。マスはいらないかい? 安くしとくよ」
バケツの中には10匹ほどのマスが入っていました。
「いや、僕はマスを食べないからいいよ」
「かわった猫だな……。じゃあな」
ピーターは上機嫌でまた、マスを売り始めました。
ビリーがいつもの場所へ来ると、シンプソンおばさんが店先から飛んできました。ビリーがリュックサックをおろす暇さえなく、腕を掴まれます。
「ビリー! 聞いたかい?」
「え、なに?」
「ピーターだよ!」
「ピーターならそこで会ったよ。上機嫌でマスを売ってた」
やっとリュックサックをおろしながらビリーが言うと、シンプソンおばさんはあきれたように大きく手を広げて言いました。
「そのマスをどうしたと思う? あのマスは、全部ジェスが釣ったんだよ!!」
朝、まだ早い時間、クネクネ川の一つめの橋で待ち合わせをしたピーターとジェスは、時間通りにマスを釣り始めました。ただの競争ではつまらないので、勝った方が二人の釣ったマスを全部もらえるという賭けをして。
水が冷たくてマスたちは川の底の方でじっとしています。ピーターはニヤニヤとするだけで、釣り竿を持ったまま一向に始めようとしません。
ジェスは不思議に思いつつも、竿を振りました。マスは、目の前を通り過ぎるビリーの「沈む毛針」に耐えかねて、寒さを我慢してぱくっと食いつきました。
ジェスは水面に浮かぶ毛針と、水の中に沈む毛針を器用に使い分けて、2時間で12匹のマスを釣り上げました。
ジェスが夢中で釣っていると、ピーターがニヤニヤしながら籠をのぞき込んできました。
『やあ、釣れてるようだね』
『ピーターは釣れたのかい?』
竿を休めてジェスが聞くと、ピーターはニヤニヤ笑いのまま言いました。
『いやね。昨日、ビリーの毛針を買いに行ったら、早い時間なのに売り切れてて買えなかったんだよ。だから今日は、釣りたくても毛針がなくって釣れないんだ。僕の負けでいいよ』
ジェスは胸がズキリと痛みました。昨日、自分がビリーの毛針を買い占めてしまったせいで、ピーターは釣りができなかったのだ。そんな汚いやり方で勝っても、ちっとも嬉しくありません。ジェスはますますきまりが悪くなって、がっくりと肩を落としました。
『いや……僕の負けで良いよ』
ジェスはそう言って、自分が釣ったマスをすべてピーターに渡すと、そのまま家に帰ってしまったのだそうです。
「と、いうわけなのさ」
シンプソンおばさんの話を聞いて、ビリーは考え込みました。
「それで、ピーターはマスを売っていたんだね。昨日、ピーターが店に来たときに感じた変な違和感はこれだったんだ。ピーターは、ジェスが悔しさのあまり毛針を全部買い占めていくことを、最初から分かっていて釣りに誘ったんだね」
「そうさ。あいつは最初からジェスの魚を奪うつもりだったんだよ」
ビリーは静かにつぶやきました。
「そんな釣りをしても、ちっとも楽しくないだろうなぁ……」
マスを食べない白黒猫のビリーは、釣った魚はいつもそのまま川に逃がしてあげます。ビリーはいつものように小さな敷物を敷いてお店を開きました。
「やあ、ビリー。今日は美味しいスモークチーズがあるよ」
お向かいのトーマスさんが声を掛けます。
「ありがとう。お昼に買いに行くよ」
今日も良い天気で市場はにぎわっています。寒さと暖かさが行ったり来たりするこの季節、川のマスたちもよく食べる日もあれば、川底でじっとしているときもある、そんな季節です。まだ、ビリーの毛針が飛ぶように売れる時期ではないのです。
白黒猫のビリーは壁にもたれて、お日様を浴びながら、お客さんが起こしてくれるまで気持ちよく昼寝を始めるのでした。
2.ジェスのレストランバー
ジェスは茶色い毛並みの犬です。首の周りだけ、白い毛皮がマフラーのようにぐるりと巻いています。
ジェスは市場のはずれに小さなレストランを開いています。メニューはそんなに多くはないのですが、どれも美味しいものばかりで、大変人気がありました。
レストランを開くのは夕方からで、お昼はお休みです。午前中、時間のあるときはクネクネ川へいってマスを釣るのがジェスの楽しみ。釣れたマスはお店で料理されて、みんなのお腹に消えていきます。
ジェスの作るマスのムニエルは、とりわけ評判でした。ハーブをふんだんに使い、ソースにたくさんのクリームと、お向かいのトーマスさん特製のブルーチーズが隠し味で入っているのがポイントです。クネクネ川の川っ縁にはたくさんのハーブが生えていますから、釣りに行ったときにカゴ一杯に摘んでくれば、2日分のハーブには十分なのでした。
また、ジェスは何種類かのお酒やジュースを混ぜてカクテルを作るのも上手です。お客さんはジェスのマス料理に舌鼓をうちながら、美味しいカクテルを飲んで、気持ちの良い夜を過ごすのでした。
「やぁジェス、もう店は開いてるのかい?」
ジェスが今夜のオススメメニューの看板を店の前に出しているところにやってきたのは、金物屋のアリクイのトマソンさん。
「こんばんは、トマソンさん。今あけるところですよ」
ジェスのお店は少し薄暗く、所々にランプが下げてあります。6人くらいがゆったりと座れるカウンター席と、4人掛けのテーブル席が4つ。
「さあどうぞ」
「おじゃまするよ」
トマソンさんは大きな体を揺すってお店に入り、カウンターのいつもの席に腰掛けました。
「いつものヤツですか?」
カウンターの内側に入ったジェスが注文を聞きます。
「ああ、頼むよ」
ジェスはシェイカーを取り出すと、まず氷を詰めてから水を入れました。そしてジンのボトルとベルモットのボトルを棚から取り出します。一度シェイカーの水を丁寧に捨ててから、ジンとベルモットを注ぎ、蓋をして手際よくシェイクします。
良く冷やしたロックグラスに中身を注ぎ、数個の氷を落とし、最後にピックに刺したオリーブを沈めて完成です。
「どうぞ。マティーニ・オールドスタイルです」
トマソンさんは一口すすると、深く頷きながら言いました。
「やっぱり仕事の一杯目はこれにかぎるよ」
「今日はマスがないので、ウズラと鶏肉の良いのを仕入れてあります。でも、トマソンさんにはこれですね」
ジェスは、小皿に山盛りになった黒い小さなものをトマソンさんの前に出しました。
「そうそう、私はこの黒アリの香味揚げが一番の大好物だよ」
トマソンさんは嬉しそうに、長い舌を器用に伸ばして黒アリの香味揚げを口に運びました。
「こんばんは」
入り口で鈴のような声がして、入ってきたのは白黒ネコのビリーでした。
「やあ、ビリー、珍しいね。どこでも好きなとこに座ってよ」
ビリーはトマソンさんの一つ隣の席に座り、赤いリュックサックを反対側の椅子に置きました。
「今朝はピーターと色々あったみたいだから、様子を見に来たんだよ」
ビリーが少し高めの椅子に腰落ち着けながら言うと、ジェスはグラスを磨きながら苦笑いしました。
「まぁね。あいつ、昨日からしっかり下準備をして僕をハメる罠を張っていたんだからね。自分が買い占めをしてでも勝とうと思った時点で、僕の負けだったのさ。……ビリー、何か飲むかい? 一杯おごるよ」
「ありがとう。じゃあ、モスコミュールをもらって良いかい」
ジェスは頷くと、手際よく冷えた銅製のマグカップに砕いた氷を入れ、ウォッカを注ぎ入れました。そしてライムを4つに切って、その内の1つをきゅっとカップに搾り入れ、最後にジンジャービアーを注ぎ入れます。銅のマグカップは外側に白い霜がついていて、見るからによく冷えて美味しそうです。
「モスコミュールをどうぞ」
「ありがとう。……今日は色々あったから毛針が余っちゃってさ。良かったらこれ、ジェスに使ってほしいんだ」
ビリーは、小箱に入れた6本の毛針をジェスに手渡しました。
「そんなの気にしなくても良いのに。逆にビリーの商売の邪魔をしちゃって、悪かったね」
トマソンさんがマティーニを一口飲んでから言いました。
「しかし、ピーターの悪知恵には本当に困ったもんだなぁ」
「ま、そういうことさ」
静まり返ったBarの空間に、突然入り口のカウベルがカランと乾いた音を立てて鳴り響きました。
振り返ると、そこにはピーターが立っていました。
「ピーター!」
ビリーはちょっとビックリしました。ピーターはニヤリと笑ってビリーの後ろを通り過ぎ、カウンターの端まで来ると、手に持っていたバケツをジェスに手渡しました。
「バケツを返しに来たよ」
ピーターはそれだけ言うと、すぐに踵を返して出て行ってしまいました。
「なんだ、あいつ。何かほかに言うことはないのかい」
トマソンさんはマティーニをグッと飲み干して言いました。
「いえ、トマソンさん。ほら」
ジェスがバケツの底から取り出して見せたのは、木の皮で丁寧にくるまれた、小振りですが見事な牛肉でした。
「ピーターの返してきたバケツの中に入ってましたよ。ジェスに魚を譲らせた『お釣り』ってことですかね」
ジェスがくすくす笑うと、ビリーもなんだか可笑しくなってくすくすと笑いました。
「ビリー、せっかくだから、こいつを香草ステーキにして半分こしようか?」
「うん、そうしよう!」
薄暗いジェスのレストランバーが、パッと少し明るくなったような気がしました。牛肉を食べられないトマソンさんだけが、寂しそうに、でもどこか嬉しそうな、なんとも言えない顔をして、空になったグラスをジェスに差し出しました。
「ジェス、おかわり」
3.雨の日には
今日は朝から雨が降っています。クネクネ川もいつもより水かさが増しています。
クネクネ川は、ビリーの家があるカラス岳の上の方に湧き出して、少しずつ大きくなり、ビリーの家の後ろを通りながらクネクネと曲がって流れていきます。そしてビリーが毛針を売っているホーリー町のみずがめ市場の中を通り、最後は「びっくり湖」へと注ぎ込むのです。
この辺りはホーリー郡と呼ばれていて、とても気候の穏やかなところですが、この頃の季節は少し雨の多い時期です。でも、この雨がなければびっくり湖の湖畔に広がる田んぼや畑の穀物、野菜たちが勢いよく育たないので、みんなにとって大変大切な雨なのでした。
ビリーは雨が降ると、赤いレインコートを着て市場へ出かけます。トマソンさんの金物屋さんの軒下では少し雨がかかってしまうので、雨の日はお店の大きなテントの下に少し場所を作ってもらって、毛針屋さんを開きます。
雨の中でも市場は相変わらずにぎやかで、行き交う色とりどりの雨傘が、まるでパレードの時の風船のように見えました。ビリーはそれを眺めながら、うつらうつらと夢の世界に入りそうになっていました。
「ビリー。毛針を見せてくれないか?」
緑のレインコートを着たツキノワグマのランディーさんが、トマソンさんの金物屋に入ってきました。
「やあ、ランディー。うちの店には用事がないのかね? 新しいシャベルやクワも用意してあるよ」
お店の奥の方から、トマソンさんがパイプをくゆらせながら声をかけます。
「いや、この前買い換えたばっかりだからまだ大丈夫だよ」
ランディーさんは熊らしく、ガハハと明るく笑って答えました。
「ランディーさん、こんにちは。はいどうぞ。今日はこれから釣りですか?」
ビリーは毛針が入った箱をランディーさんに手渡しました。
「そうなんだ。びっくり湖で使うのが欲しいんだけどね。どれがおすすめだい?」
ランディーさんは一通りの毛針をじっくり見てからビリーに言いました。
「これなんか、どうですか? 小魚の形を真似た毛針で、少し大きいから、大きなマスを狙うには良いと思いますよ」
ビリーがすすめた毛針は、キラキラとした毛がたくさん生えていて、水に濡れると本物の小魚が泳いでいるように見える自慢の毛針でした。
「なるほど、そうだな。よし、これと、あとこれを含めて2つ、もらおう」
ビリーから毛針を受け取ると、ランディーさんは緑のレインコートを揺らして帰って行きました。
雨の日はお客さんがあまり多くありません。そんなときは、早めにお店を切り上げて、ビリー自身も釣りに行くことにしています。せっかくなので、ビリーはランディーさんと一緒にびっくり湖で大物を追いかけようと決めました。
トマソンさんに挨拶をすると、金物屋の隅っこに預けてあるお気に入りの釣り竿を取り出しました。荷物をまとめたら、すぐにびっくり湖へ続く道を駆け出します。
市場のはずれで、大きな緑色の背中に追いつきました。
「ランディーさん!」
ビリーが後ろから声をかけると、大きな背中が振り返りました。
「やあ、どうしたんだい? 何か忘れ物でもしたかな?」
「いいえ、そうじゃないんです。今日は雨でお客さんも少ないから、僕もびっくり湖で釣ろうかと思って追いかけてきたんです」
ランディーさんはにっこりと笑いました。
「そうかい、じゃあ一緒に大物を釣りに行こう」
ランディーさんは、ビリーの小さな足に合わせて、歩く速さをゆっくりにしてくれました。
市場を抜けて、ちらほらと家や畑が続く道をびっくり湖へ向かって歩いていくと、いつの間にか雨が止んでいました。夕方と言うには少し早いですが、ちょうど魚たちもおなかをすかせて動き出す時間に、びっくり湖につきました。
二人は早速毛針を準備して、岸辺に向かいました。そして夢中で釣り竿を振りました。
少しすると、静かなびっくり湖の水面に、ばしゃりと大きな魚が跳ね上がりました。ランディーさんの竿がぐんと大きく曲がっています。
「よし!」
ランディーさんは右に左に竿をいなしつつ、糸をたぐり寄せます。そしてついに足下まで引き寄せると、大きな手で魚を捕まえました。
「大物のニジマスだ!」
本当に嬉しそうに言いました。
ビリーもランディーさんのニジマスよりは少し小さかったけれど、見事なニジマスを釣り上げました。ランディーさんはさらにもう一匹のニジマスを釣り上げて、満足そうに笑いました。
ビリーはマスを食べないので、釣れたマスをすべてランディーさんにあげることにしました。
「ありがとう、ビリー。お礼に私の畑の野菜を持って帰るといい」
びっくり湖の岸辺から少し丘を上がったところにランディーさんの家があり、その隣が大きな畑になっていました。畑にはトマトやなすび、キュウリなどの野菜から、ジャガイモまでたくさんの野菜が実っていました。
「ありがとう、ランディーさん」
ビリーはトマトとなすびを2つずつ、そしてジャガイモを3個もらいました。そしてランディーさんと別れると、急いで市場へ向かいました。
市場へ着くともう辺りは暗く、半分以上のお店は閉まっていました。ビリーは閉まりかけているスチュワートさんのお肉屋さんへ滑り込み、挽肉を買うことが出来ました。
トマソンさんの金物屋さんはとっくに閉まっていたので、ジェスのレストランバーへ向かいました。
「やあ、ジェス。こんばんは」
ジェスはカウンターの内側でグラスを磨いていました。
「ビリー、今帰りかい? どうだった? 釣れたかい? 今、トマソンさんからびっくり湖へ釣りに行った話を聞いていたんだよ」
カウンターのいつもの席に座っていたトマソンさんは、マティーニのグラスを軽くあげながらビリーにウインクをしました。
「うん、短い時間だったけど、ニジマスの大きいのを1匹釣ったよ。ランディーさんはもっと大きいのを2匹も」
「へぇー、僕も行きたかったなぁ」
ジェスも釣りが大好きなので、目を輝かせながら言いました。
「今度一緒に行こうよ。夕方もいいけど、明け方からもなかなか良い感じだと思うよ」
「そうだな。朝なら、僕もお店がお休みで時間があるからね」
「それで、悪いんだけど、この釣り竿を預かってくれない?」
「ああ、いいよ。そこの物置に僕の竿も入ってるから、一緒にしておくといい」
「ありがとう」
釣り竿を預けてジェスと次の釣りの約束を交わすと、ビリーはカラス岳の家に帰りました。
空は厚い雲に覆われてお月様は見えません。しかしビリーは暗くてもよく見える目を持っていたので、道を間違うことなく家に帰り着きました。
「今日は遅くなってしまったなぁ」
ビリーは急いでオーブンに火をつけると、トマトとなすびと挽肉でグラタンを作り始めました。
まず挽肉をオリーブオイルで炒め、トマトをつぶして入れます。お皿になすびを薄く切って並べると、鍋からトマトと挽肉のソースを流し込み、たっぷりのチーズをふりかけてオーブンに入れました。
窓の外を見ると、またしとしとと雨が切り始めていました。
「明日も雨かなぁ……」
ビリーは焼き上がったグラタンがほどよく冷めるまで、ベッドに横になりながら窓の外を眺めていました。
今の季節、ホーリー郡は本当に暑くなる少し前に、たくさんの雨を降らします。でもそのおかげで、野菜たちは美味しく育つのです。
4.みずがめ市場のカーニバル
今日のホーリー郡は雨の多い季節が終わり、本格的に暑くなり始めた、そんな日のことです。
山猫のスチュワートさんは朝から大忙しです。スチュワートさんはみずがめ市場のお肉屋さんですが、売っているのはお肉だけではありません。スチュワートさんの作る手作りコロッケは、市場の誰もが大好きな大人気商品なのです。
前の日に仕込んだコロッケは午前中のうちに売り切れ、午前中に仕込んだ分も午後にはあっという間に消えてしまう、といった具合です。スチュワートさんはお店を開けるずっと前から仕込みを始めますが、開店と同時に長い行列ができるほどの大忙しでした。
スチュワートさんのお店は、奥さんのメアリーさんと、3人の三つ子の娘たちが手伝っています。娘たちの名前はアンナ、ローザ、エルザ。3人ともとっても働き者で、それにとても愛らしかったので、市場の人気者でした。
人気のコロッケには、極上の挽肉とたくさんのタマネギ、そしてそれ以上にもっとたくさんのジャガイモが使われていました。
大きなボールにたくさんのふかしたジャガイモと、炒めたタマネギ、挽肉を合わせて、丁寧にこねていきます。味付けは塩とこしょう、そして隠し味にコクを出すためのラードを入れています。あとはヒミツのハーブを少々。
ボールから取り出して、きれいな小判型に、すべて同じ大きさに丸めていくのは、しっかり者の長女アンナのお仕事です。
丸めたコロッケの生地に粉を振って、卵をくぐらせるのは、ちょっとおしゃまな次女ローザのお仕事。
続いて、ふかふかのパン粉の衣を優しくつけて、きれいに箱に並べるのは、素直で可愛い三女エルザのお仕事です。
3人は手際よく自分の仕事をこなしていきます。
もうすぐ開店時間の10時になります。なんとか午後に売る分のコロッケのもとが完成しました。
「さぁ、少し休憩したらお店を開けるよ。3人ともよく頑張ったね」
スチュワートさんは3人の娘に言いました。
お店の奥から、お母さんのメアリーさんがそれぞれのマグカップに入ったコーヒーを5杯持って来ました。メアリーさんは奥で、午後の支度分のジャガイモをたくさんふかしている最中なのです。
「さあ、今日も元気いっぱいがんばるわよ!」
メアリーさんはエネルギーに満ちあふれています。
コーヒーを飲みながら、スチュワートさんはコロッケを揚げる油の温度を測りました。温度計は180度を示しています。
「よし。じゃあみんな、お店を開けるよ」
「はぁ~い!」
娘たちは元気に返事をすると、表の扉を開けに行きました。
今日も素晴らしいお天気で、午前中だというのにふわっと熱い夏の風が市場を舞い上がります。
『いらっしゃいませー!』
娘たち3人は声をそろえて開店のご挨拶をしました。
「おはよう、ローザ。コロッケを2つちょうだい」
一番乗りのお客さんは、白黒猫のビリーでした。
「おはよう、ビリー君! お父さん、ビリー君よ。コロッケ2つお願いしまーす」
「はいよ、コロッケ2つ!」
スチュワートさんは、丸められたコロッケの生地を大きな揚げ鍋に入れました。コロッケは小さくジュっと音を鳴らして、油の底に沈んでいきました。
「やあ、ビリー。今日のお昼はうちのコロッケにしてくれたのかい?」
エプロンで手を拭きながら、スチュワートさんが声をかけます。
「うん、今朝は早くからジェスとびっくり湖で釣りをしていたんだ。それで自分のお弁当を用意していなくてね」
ビリーは肩に担いだ釣り竿とバケツを指さしながら言いました。
「それで、このマスをお土産に持ってきたんだ。よかったらみんなで食べてよ」
バケツから取り出したのは、ビリーが両腕をいっぱいに広げたくらいもある、見事な大物のニジマスでした。
「わぁ、すごい大きさね! ビリー君」長女のアンナが目を丸くします。
「これならお父さんが釣ってくる魚よりずっと大きいんじゃない?」次女のローザがくすくす笑います。
「うん、ビリー君って本当に釣りの天才だね!」三女のエルザが頬を染めて感心しました。
「ははは、ありがとう。じゃあ、今日のコロッケは私からのお返し(プレゼント)にしておくよ」
スチュワートさんが笑っている間に、コロッケは揚げ油の上にぷかりと浮いてきて、パチパチ、ジュワジュワとにぎやかな音を鳴らしながら、綺麗なきつね色に染まっていきます。
スチュワートさんは手早く網でコロッケをすくい上げると、油切りの上でパセリの粉を軽く振りました。
「さぁ、最高の状態に揚がったよ」
「はぁ~い!」
エルザがコロッケを温かい木の皮で包むと、ビリーのところへ持って行きました。
「はい、ビリー君」
「ありがとう、エルザ。……あ、エルザ、今日の夜は市場にいる?」
「うん、お店が終わったらみんなでびっくり湖の方へ出かける予定だよ」
「そうなんだ! 私たちもびっくり湖へ花火を見に行くの。ビリー君、一緒に行こうよ」
「じゃあ、夜にお店まで迎えに来るよ」
ふと見ると、ビリーの後ろにはもう5人もお客さんが並んでいました。
「さぁ、今日も忙しくなるよ。じゃあね、ビリー」
ぱんぱんと手を叩きながらメアリーさんが笑顔で言いました。エルザが少し照れくさそうに小さく舌を出しながらお店の奥に引っ込み、ビリーは挨拶をして自分のお店に向かいました。
お昼頃になる少し前、午前中に売る分のコロッケがすべてなくなってしまいました。スチュワートさんがメアリーさんに合図をすると、メアリーさんは並んでいる最後のお客さんのところへ行き、次から並ぼうとする人たちに丁寧に説明をしました。
「ごめんなさいね、午前中の分は売り切れなの。午後からの販売のときにこの引換券を持ってきてくれたら、順番を飛ばして先にお渡ししますから、これで勘弁してね」
コロッケはお父さんのスチュワートさんが揚げますが、お肉を売るのはお母さんのメアリーさんの仕事です。メアリーさんが外へ引換券を配りに行っている間は、三人娘が店番をこなします。
「こんにちは! ロース肉を300グラムですね? 少々おまちくださいませー!」
冷蔵庫から取り出した立派なお肉を、大きな包丁できれいに切り分けます。秤に乗せて、300グラムを少し超えてしまっても、それは内緒のおまけ。木の皮できれいにくるんで、お客さんに手渡します。
三人は声をそろえて、
『ありがとうございましたー!』
「さあ、一段落したからお昼ご飯にしようか」
スチュワートさんが「お昼休み」の札をお店の前に出すと、さっきビリーが持ってきてくれた大きなニジマスを贅沢にムニエルにして、楽しいランチタイムが始まりました。
「ビリー君はすごいねぇ。こんなに大きなお魚、どうやって釣るんだろう」
エルザはしきりに感心しています。
「あら、お父さんだって大きなお魚を釣ってくることあるじゃない」とアンナ。
「でも、こんなに大きいのをお父さんが釣ってきたこと、あったかしら?」とローザが首を傾げます。
それを聞いていたお母さんのメアリーさんが、優しく笑って言いました。
「ビリーは毛針屋さん。お父さんはお肉屋さん。それぞれに得意なことがあるのよ。比べるものじゃないわ」
スチュワートさんは、お肉を切る大きな包丁を砥石でシュッシュと研ぎながら、家族の賑やかな会話を楽しそうに聞いていました。
夕方少し前になると、またスチュワートさんのお店は忙しくなります。夕飯の支度の買い物や、お祭りでの食べ歩き用に、コロッケやお肉が飛ぶような勢いで売れていきます。
なぜなら、今日は特別な日。みずがめ市場の「カーニバル」の日なのです。
今日だけは、いつもなら夜になると閉まってしまうお店も、遅くまで明かりを灯してお客さんを迎えます。
みんなが今夜一番楽しみにしているのは、花火です。大きな花火をびっくり湖の近くで打ち上げるのです。スチュワートさんのお店は、夕方でお肉の販売を終わりにして、お昼から仕込んだコロッケだけを売り始めました。お客さんたちは揚げたてのコロッケを片手に、びっくり湖へ向かって花火見物をするのです。
ジェスのレストランバーではお店の前に特設のテーブルを出し、冷たいジュースや新鮮な果物を売っています。果物屋のシンプソンおばさんは特製のフルーツジュースを、金物屋のトマソンさんは夜道でキラキラ光るおもちゃを売っていました。この日だけは、子供も大人も夜遅くまで楽しく過ごすことが許されているのです。
ドーン!
一発目の大きな花火が夜空に上がったようです。ざわめくような大歓声が市場いっぱいに広がります。
「こんばんは」
仕事を終えたビリーが、約束通りエルザたちを誘いにやってきました。
「やあ、ビリー。娘たちを迎えに来てくれたのかい?」
「ビリー君! 待ってたよ、早く行こう!」「行こう!」「行こう!」
三つ子の娘たちが嬉しそうに飛び出してきました。
「ビリー、これを持って行きなさい」
スチュワートさんが、木の皮にくるんだ出来立てのコロッケを4つ、持たせてくれました。
「ありがとう、スチュワートさん!」
みずがめ市場はたくさんの人たちで溢れかえっています。子供たちは手に手に色とりどりの風船を持っています。たくさんの人たちが、びっくり湖へ続く一本道をにぎやかに歩いていきます。
ビリーがエルザたち3人と一緒にびっくり湖の近くにある小高い丘へ登っていくと、そこにはすでにたくさんの人たちが腰を下ろして待っていました。
ヒュルルルル……ドーン!!
大きな大輪の花火が夜空に咲き誇りました。
「わぁ、きれい……! すごいね!」
花火の眩しい光に照らされたみんなの顔は、夜空の花火に負けないくらいの輝かしい笑顔でした。
お昼間のうだるような暑さが嘘のように和らぎ、涼しい夏の風が丘を優しく流れてゆきます。
みずがめ市場では、本当に暑くなったこの時期に、みんなでカーニバルを開きます。そして、楽しい夜は夜更けまでずっと続くのでした。
5.実りの秋
暑い季節が一段落して、少し寒い日がやってくると、ホーリー郡ではそろそろお米の収穫の季節になります。
びっくり湖から少し丘を上がった辺りにはたくさんの田んぼがあって、金色に輝く稲穂がこうべを垂れて、涼しくなった秋の風に心地よさそうに揺られています。
ツキノワグマのランディーさんの田んぼでも、いよいよ稲刈りの時期を迎えていました。
一人でこの広い広い田んぼの稲をすべて刈り取るのは大変なことなので、近くの田んぼを作っている5人のクマ仲間が集まって、今日はランディーさんの田んぼ、明日はヒルズさんの田んぼというように、順番に助け合いながら稲を刈り進めます。
刈った稲はお日様の光でよく乾燥させてから、稲穂からお米の粒を外して大切に貯蔵するのです。
今日はランディーさんの田んぼの稲刈りの日。
二束刈ったらわらで器用に縛って、地面に置いていきます。置かれた稲穂の束は、お隣のブラウンさんが稲穂を干すための長い竿に次々とぶら下げていきました。
ザク、ザク、バサリ、シュッシュッ、ドサ。
ザク、ザク、バサリ、シュッシュッ、ドサ。
ザクザクと稲を刈り取り、バサリと重ねて、シュッシュッと縛り、ドサっと置く。その小気味よい音が、秋の田んぼに優しく響き渡ります。
ザク、ザク、バサリ、シュッシュッ、ドサ。
ザク、ザク、バサリ、シュッシュッ、ドサ。
「ランディーさん、そろそろ一息入れないかい?」
田んぼの反対側から、同じように背を丸めて稲を刈っていたマシューさんが声を掛けました。
「ふう、そうしますか」
ランディーさんは大きく息をつくと、ぐっと背中を伸ばして、自分の腰をトントンと叩きました。
ランディーさんは自宅から、温かいコーヒーを入れた大きなマグカップを5つ持ってくると、手伝ってくれている大切な4人の仲間に手渡しました。5人のクマは土手に仲良く並んで腰掛けます。
「明日は誰のところの刈り入れだったかな?」
「たしか、ヒルズさんのところだったんじゃないかい?」
「そうそう、うちが明日で、明後日がワトソンさんのところでしたね」
コーヒーを飲みながら一服して空を見上げると、青い空が本当に高くなったなとランディーさんは思いました。これからの季節、川の魚たちも一段と美味しくなる季節です。ランディーさんは嬉しくなって、ぺろりと舌で口の周りを舐めました。
「さあ、残りの仕事を終わらせてしまいましょう!」
ブラウンさんが元気に立ち上がって声を掛けると、みんなも腰に手を当ててぐっと体を伸ばしたりしながら、それぞれの仕事へと戻っていきました。
それから1時間ほどで、ランディーさんの広い田んぼは見事にきれいに刈り取られ、干し竿にはたくさんの黄金色の稲穂がずらりと吊るされました。
「今日はどうもお疲れ様でした。明日もよろしくお願いします」
日暮れの少し前に無事仕事が終わり、ランディーさんは一度家に戻って泥を落としてから、みずがめ市場にあるジェスのバーへ出かけました。
ランディーさんが到着する頃には、みずがめ市場はもうすっかり「夜の顔」になっていました。お昼に開けていたお店は静かに閉店の準備をしています。そして、夕方から開店するレストランやバー、サロンなどは、これから灯りがともり、賑やかになっていく時間です。
ジェスのお店に入ると、カウンターのいつもの席にオオアリクイのトマソンさんが腰を掛けて、いつものマティーニを静かに飲んでいました。
「やあ、ランディー。刈り入れはどうだい?」
ランディーさんに気がつくと、トマソンさんはグラスを少し上げて挨拶をしました。
「まずまずといったところだよ。今日はうちの分の刈り入れが済んで、ホッと一段落したさ」
トマソンさんの2つ隣の席に、ランディーさんはどっさりと腰を下ろしました。二人は体がすごく大きかったので、隣同士の席だと少し狭くて座れなかったのです。
「こんばんは、ランディーさん。今日は脂の乗った良い鮭が入りましたよ。バターソテーでいかがですか?」
店主のジェスが注文を取りに来ました。
「それは旨そうだな、それをもらおう。それと、お祝いに蜂蜜酒を出してくれるかい?」
「かしこまりました。飲み方はロックでよろしいですね?」
ジェスは奥へ行くと、お酒の瓶がたくさん並んでいる棚から黄金色の蜂蜜酒の瓶を抜き取りました。丁寧に砕いた氷を入れたロックグラスにそれを注ぎ入れ、バースプーンで静かに5回ほどステアして、ランディーさんの前に置きました。
「どうぞ。蜂蜜酒のロックスタイルです」
「ありがとう。うむ、本当に良い香りだ」
ランディーさんは甘い香りを楽しみながら、チビリとグラスからお酒を口に含みました。
「稲刈りは大変だったろう?」トマソンさんが聞きます。
「そうだなぁ、でも、それだけ稲穂が立派に実ってくれたってことだから、疲れなんて吹き飛ぶくらい嬉しいよ」
トマソンさとランディーさんが楽しそうに話している間、ジェスはお店の奥で鮭の調理に取りかかっていました。
鮭の切り身に塩コショウを振り、小麦粉をまぶして、熱したフライパンで贅沢にバターソテーにします。ジューシーなバターと小麦粉の香ばしい匂いが、ふわりとバーカウンターにいるランディーさんの鼻にまで届きました。
「ジェスの料理は、舌だけでなく鼻でも楽しませてくれるな」
ランディーさんは嬉しそうに言いました。
ソースは、特製のケチャップソースです。ケチャップにすり下ろしたニンニク、ウスターソース、少量の砂糖とお水を加えて、ソテーが終わった旨味たっぷりのフライパンに入れて熱します。なんとも甘くて香ばしい香りが立ち上り、たちまち極上のソースが完成しました。
お皿に鮭のバターソテー、付け合わせのたっぷりのクレソン、そして特製のソースを掛けたら出来上がりです。
「お待たせしました、鮭のバターソテー・特製ケチャップソースです」
ランディーさんの前に置かれたお皿から、うっすらと湯気と、食欲をそそる素晴らしい香りが立ち上っていました。
「これは格別だ」
ランディーさんは舌なめずりをしながら、フォークとフィッシュナイフに手を伸ばしました。
「そう言えば、今日はビリーは来ていないのかい?」
一口、鮭のソテーを美味しそうに食べてから、ランディーさんが言いました。
「びっくり湖で使う大物用の毛針がまた少し欲しいんだが、昨日市場を通りかかったら、お店を出していなかっただろう?」
ジェスがトマソンさんのマティーニのお代わりを作りながら、少し心配そうな顔で答えました。
「そうなんです。一昨日からお店を出していないので僕たちも心配になって、お肉屋さんのエルザに聞いてみたんですよ。そしたら彼女も知らなかったらしくて、ビリーの家まで飛んでいってくれてね。どうやら風邪をひいて寝込んでいるそうで、お肉屋さんの親父さんも心配して、エルザをそのまま看病に行かせてるんです」
「そうだったのか。そりゃ、明日にでも畑で体に良い野菜を見繕って、持って行ってやらないといけないな」
ランディーさんは蜂蜜酒をすすりながら言いました。
「僕も何か、体に優しいお料理を作って届けてあげますよ」と、ジェスも優しく頷きました。
翌日。午前中のうちに、ジェスは鶏肉のミンチと新鮮なトマトを使った温かいリゾットと、ビタミンたっぷりのオレンジジュースを持って、カラス岳にあるビリーの家へお見舞いに行きました。
朝早くからエルザが看病に来ていて、ビリーの身の回りの世話をしていました。
「やあ、エルザ、ビリーの具合はどうだい? 今は眠っているんだね?」
ジェスが声を潜めて聞くと、エルザは優しく微笑みました。
「うん、でも、おかげさまでずいぶん良くなったのよ。昨日は熱が下がらなくて何も食べられなかったんだけど、今朝からはミルクを少しと、柔らかいパンを少し食べられるようになったの」
「そうか、よかった。これ、お見舞いのお料理だよ。お昼にでも温めて食べておくれ」
「あら、嬉しい! ありがとう。……ところでジェス、なんでお見舞いに来るのに、そんな立派な釣り竿を持ってるの?」
エルザが笑いながら突っ込むと、ジェスは少し照れくさそうに肩をすくめました。
「いや、まぁ、ほら、もののついでと言うか、帰り道にちょっと川の様子を……。じゃ、ビリーによろしくね!」
ジェスはさっさと帰ってしまいました。
パタン、と静かに扉の閉まる音で、ビリーが目を覚ましました。
「エルザ、誰か来たのかい?」
「うん、ジェスがお料理を作って届けてくれたの。かっこよく釣り竿を担いでね」
エルザが楽しそうに言うと、ビリーは少し申し訳なさそうに毛布を引っ張りました。
「そうか……みんなにそんなに気を遣ってもらって、なんだか申し訳ないなぁ」
「もう、そんなこと気にしなくていいのよ。そう思うなら、早く元気になってね」
二人はお昼に、ジェスが持ってきてくれた絶品のリゾットを美味しく食べました。お腹がいっぱいになると、エルザはお店の手伝いをするために、一度市場へと帰っていきました。
その後、少し眠ってずいぶんと調子が良くなったビリーは、部屋を暖かくして、ベッドの上で毛針を作り始めました。これからの秋の深まりとともに、びっくり湖で大物を狙う釣り人が多くなるので、いつもより大きめの針を用意します。
10本ほど丁寧に針を巻き終えて、ふぅと一息ついたとき、ドアが優しくノックされました。気がつくと、外はもう夕方になろうとしていました。
「はぁい、どうぞ」
「お邪魔するよ。ビリー、具合はどうかね?」
入ってきたのは、大きなランディーさんでした。
「稲刈りの仕事がようやく終わったんでね、畑から体にいい野菜を色々持ってきてやったぞ」
「ありがとうございます、ランディーさん。お昼前にはジェスも来てくれて、本当にこの街のみんなは優しいです」
「うん、みんなビリーに早く治ってほしいんだよ」
ランディーさんは熊らしくにっこりと笑いました。
ふとテーブルの上を見ると、新しい毛針が並んでいます。
「もう仕事をしても大丈夫なのかい?」
「ええ、ずいぶん楽になりました。熱もすっかり下がったみたいですし」
そこへ、市場の手伝いを終えたエルザが再びやってきました。
「こんにちは、ランディーさん! お見舞いに来てくれたんですか?」
「うむ、畑で採れたてのお野菜を持ってきたんだ。なにか美味しいものでも作ってやってくれ。それじゃビリー、お大事にな」
ランディーさんが帰ろうとすると、ビリーが慌てて呼び止めました。
「あ、ランディーさん、ちょっと待ってください! 今作ったばかりのものですが、この大物用の毛針、ジェスと二人で分けて使ってください」
ビリーは作ったばかりの毛針を2つの小さな箱に丁寧に仕分けて、ランディーさんに手渡しました。
「おお、これは嬉しいな。遠慮なく頂いておくよ。それじゃ、帰りにジェスのバーに寄って渡しておこう」
ランディーさんは嬉しそうに箱をポケットにしまうと、少し薄暗くなってきた山道をゆっくりと下っていきました。
「さて、今夜は何を作ってあげましょうか? あら、ランディーさんのお野菜、たくさん入っているわね。ニンジン、タマネギ、カブラ、ジャガイモ……うん、ちょうど良いわ!」
エルザはキッチンにあるミルクとバター、小麦粉を用意すると、手際よく野菜たっぷりの温かいクリームシチューを作り始めました。ビリーはそのトントンという小気味よい包丁の音をベッドで聞きながら、さらに毛針を巻いていきます。
毛針が15本出来上がる頃に、部屋中に美味しそうな匂いが広がり、シチューが完成しました。
「いただきます。……うん、すごく美味しいよ。エルザ、本当にありがとう」
ずいぶんと元気が出てきたビリーは、シチューを笑顔でお代わりしました。
「明日はお店を開けられそう?」エルザが優しく顔を覗き込みます。
「うん、明日はお店を開けないとね。がんばるよ」
「無理はしちゃダメよ。それじゃ、私はこれで帰るわね」
エルザが帰る仕度をはじめると、ビリーは小さな紙箱を取り出しました。
「ありがとうエルザ、これ、スチュワートさんに渡してほしいんだ」
ビリーが差し出したのは、箱に入った、作ったばかりの特製の毛針が5本。
「お父さんに? ありがとうビリーくん、渡しておくわ。お父さん、きっと大喜びで明日川へ行っちゃうわね」
「僕には、これくらいしかお礼ができないから……」
ビリーが少しはにかむと、エルザは優しくビリーの手を包み込みました。
「そんなことないよ。ビリーくんはすごく優しいから、みんなはビリーくんから優しさをいつもたくさんもらってるんだよ。じゃあ、もう帰るね」
エルザは可愛らしく手を振って、もうすっかり暗くなった山道を帰っていきました。
みんなの優しさのおかげで、すっかり元気になったビリーは、ランプの明かりの下でまた静かに毛針を作り始めました。
「明日からまた、がんばらなきゃな」
ホーリー郡の季節の変わり目は、突然寒くなったり、少し暖かくなったり、風邪を引きやすい季節。でも、それ以上に、みんなの温かい優しさが心に沁みる、最高の実りの秋なのでした。
6.みずがめ市場のクリスマス
ホーリー郡に本格的な冬がやってきました。
白黒猫のビリーにとっては、ただの寒がりというだけでなく、職人として少し寂しい理由で、少し苦手な季節です。
川のマスたちは秋のうちにたくさん食べて太ると、春が来るまで水の底の方でじっと動かなくなってしまいます。ビリーの家の前にある小さな池のマスの姉妹も、今は静かに眠っているようです。そんなわけで、冬の間は自慢の毛針がまったく売れない季節になるのです。
一年中暖かくて、いつでもマスがよく釣れたらなぁと思っても、季節は巡り、毎年冷たい冬がやってくるのでした。
さて、街ではクリスマスの準備で大忙しです。ビリーはこの冬の間、器用な手先を活かして、色とりどりのクリスマスの飾りや小物を作って売るのが冬の初めのお仕事でした。
このお仕事は本当のところ、毎日の毛針屋さんよりもずっとたくさんのお金をもらうことができました。ビリーは秋が終わるとすぐに手作りの飾りをたくさん作り、クリスマスまで毎日、トマソンさんの金物屋さんに買ってもらいに行きます。
トマソンさんはビリーの作った素晴らしいクリスマスの飾りをお店に並べて、お客さんに売るのです。みずがめ市場のどこのお店も、冬になるとビリーが作った飾りを店先に飾ることになります。
ビリーの作る飾りはとても手が込んでいて、材料も良いものを使っているので大人気。並べるとすぐに品切れになるほどでした。
でも、ビリーの心の本音を言えば、やっぱり大好きな毛針を作って、みんなと釣りを楽しむ日々が恋しいのでした。
そんな話をトマソンさんにこぼすと、トマソンさんはパイプの煙をくゆらせながら、優しく言ってくれました。
「いいかい、ビリー。そりゃあ、自分が一番楽しいと思える仕事ができれば最高さ。でもね、周りのみんなが心から喜んでくれる仕事があって、それでちゃんと暮らしが立てられるなら、本当はそれこそが一番素晴らしいことだと私は思うよ」
ビリーは毎年、クリスマス前まで一生懸命に飾りを作って働き、クリスマスが終わると、ジェスのお店を手伝ったり、シンプソンさんの果物屋さんを手伝ったりして過ごします。お金は冬の間も十分にあるのですが、かといって家でゴロゴロしているのは、どうも性に合わなかったからです。
クリスマスの夜には、毎年ジェスのバーで盛大なパーティーが開かれます。今年もきっと市場のみんなが集まって、大いに盛り上がることでしょう。
そして、いよいよクリスマスの当日がやってきました。
朝一番にビリーは最後のクリスマスの飾りをトマソンさんに買い取ってもらうと、そのまますぐにジェスのバーへと向かいました。お店の営業は夜からですが、パーティーの特別な飾り付けをするために、ジェスと朝から待ち合わせをしていたのです。
「やあ、ジェス! 遅くなっちゃってごめんね」
「いや、いつも朝から手伝ってもらって悪いね、助かるよ」
ジェスは背の高い椅子に乗り、天井に届きそうな大きなツリーの上の方に飾り付けをしていました。その大きなツリーは、すでにビリーの作ったたくさんの飾りできれいに彩られています。
ビリーは赤いリュックサックから、丁寧に包まれた、特別に大きな星の飾りを取り出しました。
「はい、ジェス。この一番綺麗な星を、ツリーのてっぺんに飾ろうよ」
ジェスは星飾りを受け取ると、ツリーの一番上へと慎重に飾りました。
「うん、完璧だ、ビリー! これは本当に立派なツリーになったぞ」
椅子から降りると、ジェスは満足げに腕を組んで深くうなずきました。それから二人は、壁に特別に大きな手作りのリースを吊るしたり、とても一人では出来なかった大がかりな飾りつけを楽しくこなしていきました。
「さあ、これで飾り付けはバッチリだ。ビリー、本当にありがとう。お腹がすいただろう? お昼は僕が何か美味しいご馳走を作るよ」
「ありがとう! そう言ってくれると思って、朝ご飯を少なめにしてきたんだ」
ビリーは嬉しそうに笑顔でカウンターの席に座りました。
「夜のパーティーはご馳走が山ほど出るから、お昼は簡単なもので良いかい?」
ジェスがそう言うと、ビリーは「もちろん!」と頷きました。
ジェスは鶏肉を細かく切り分けると、刻んだタマネギと一緒にフライパンで手際よく炒め、塩コショウを振ってから、仕上げに白ワインをひと回し入れました。ジューっと煮立ってアルコールが抜けると、温かいご飯を入れ、ケチャップで綺麗に味付けをしていきます。
そして別のフライパンを熱して、ふわふわのオムレツを作り上げました。お皿にラグビーボールの形に整えたケチャップライスを盛りつけると、その上に焼き立てのオムレツをそっと乗せます。仕上げに、小さなナイフでオムレツの真ん中にすっと一本の切れ目を入れました。
すると、オムレツはするりと左右にきれいに割れて、とろとろの中身がまるで花が開くようにケチャップライスを包み込み、とても可愛らしい特製オムライスが出来上がりました。
「さあどうぞ。ジェス特製、とろとろオムライスです」
「うわぁ、美味しそう! いただきます!」
ビリーは猫なので熱いお料理が少し苦手でしたが、スプーンですくってハフハフと息を吹きかけながら、夢中であっという間に平らげてしまいました。その様子を、ジェスはカウンターの向こう側から目を細めて、本当に嬉しそうに眺めていました。
「あー、美味しかった! お腹いっぱいだよ」
「どういたしまして。それだけ美味しそうに綺麗に食べてくれると、料理人としてはこっちがお礼を言いたいくらいさ」
ビリーはそれを聞いて、スプーンを持ったまま少しきょとんとしてから、パッと目を輝かせました。
「そうか……! そういうことなんだ」
「ん? どうしたんだい?」ジェスは何のことか分かりません。
ビリーは嬉しそうに、カウンターをトントンと叩きました。
「わかったよ、ジェス。トマソンさんが言っていたのはこれだ。これが『本当の良いこと』なんだよ!」
ジェスには何がなんだかさっぱり分かりませんでしたが、ビリーの目がまるで金色の星のように輝いているのを見ると、静かに優しくうなずきました。
「なんだかよく分からないけど、ビリーが大切なことに気づけたなら、それでいいや」
「ジェス、今日のお店の手伝い、僕を最後まで使ってよ。今夜は、みんなが楽しんでくれる顔を、僕も裏方からたくさん見たいんだ」
ビリーが真っ直ぐに言うと、ジェスも最高の笑顔で応えました。
「ありがとう。そう言ってくれると思ってたよ!」
二人は声を合わせて笑いながら、夜のパーティーの仕込みに取りかかりました。
夕方、完全に日が暮れると、みずがめ市場はクリスマスのきらびやかなイルミネーションと飾り付けでいっぱいに満たされました。
「お父さん、早く行こうよ!」
長女のアンナと次女のローザが、お肉屋さんの戸締りを待てずに先に行ってしまった三女のエルザの後ろ姿を見ながら、お父さんのスチュワートさんの両手をぐいぐいと引っ張ります。
「もう、エルザったら、私たちを置いて先に行っちゃうなんて狡いわねぇ」
「そうよね! お父さん、もっと急いで!」
二人が口々に急かすと、スチュワートさんは苦笑いしながら答えました。
「まぁ、良いじゃないか。お前たちにとっても今日は特別なクリスマスなんだ。先に行って、自分たちが一番座りたい特等席を取りに行っておいで」
それを聞いた二人は目を丸くして、
「そうだわ! 席がなくなっちゃう! 急がなきゃ!!」
と、今度はお父さんを置き去りにして、ジェスのバーまで風のように飛んでいきました。
「やれやれ。しかし、今夜のビリーは手伝いで大忙しだから、ゆっくり座って娘たちの相手をしてやる暇なんてないと思うがねぇ」
スチュワートさんは、紫煙をぷかりと夜空に吐き出しながら、父親らしい優しい苦笑いをつぶやきました。
「あら、どうしました?」
スチュワートさんの奥さんのメアリーさんが、お店の最終チェックを終えてやってきました。
「ん? なんでもないよ。おや、雪が降ってきたね。夜には辺りが一面、白く染まるだろう」
スチュワートさんはメアリーさんの手を優しく引くと、賑やかなバーへと二人で歩き出しました。
今日だけは、賑やかなのはパーティーを開いているバーやサロンだけで、みずがめ市場の他のお昼のお店は、綺麗な飾り付けとは反対に、静かに白い雪に降られてロマンチックな静けさを保っていました。
「メリークリスマス!!」
ジェスのバーのドアを開けると、みんなの弾けるような笑顔と大歓声が溢れていました。
今夜のビリーとジェスは大忙しです。座っている暇なんてどこにもありません。
スチュワート家の3姉妹は、ビリーがエプロンを着けてせっせと働いているので、最初は「せっかくのクリスマスなのに……」とそろって少し不機嫌そうにしていましたが、ビリーが特製のジュースを運んできて優しく声をかけると、すぐに機嫌を直して、それぞれ他のお客さんたちと楽しげに話を始めました。
今夜のお店は、厨房のオーブンの熱が冷める暇がないほど、次から次へと豪華なお料理が運び出されていきます。ジェスがお料理とカクテルを作り、ビリーがそれをテーブルやカウンターへ手際よく運びます。
「やあ、ビリー。今日はジェスの頼もしい相棒かい?」ランディーさんが声を掛けます。
「はい! 今夜は、みんなの笑顔がたくさん見たいんです!」
「そうか、素晴らしいな」
ランディーさんはクマらしくにっこり笑うと、深くうなずきながら蜂蜜酒のグラスを傾けました。
トマソンさんは相変わらずいつものカウンターの特等席に座り、お気に入りのマティーニを飲みながら、オオアリクイらしい小さな目をさらに細めて、にこやかにお隣のシンプソンおばさんとお話をしていました。普段は夜のバーへは来ないシンプソンおばさんですが、みんなの笑顔にすっかり当てられて楽しくなってしまったようで、
「なんて楽しいんだろうね! 子供たちもみんな独り立ちしたことだし、これからは夜も時々ここに寄らせてもらうよ!」
と、グラスを片手に大はしゃぎです。
キツネのピーターも来ていました。
「この前ね、足が6本もある不思議な鶏を見つけたんだよ。ローストチキンにしたらさぞ食べごたえがあると思ったんだけどね。さすがに足が6本もあるもんだから、逃げる足が速くてさ。あっという間に逃げられちゃったよ」
相変わらず突拍子もないホラ話を披露しながら、ニヤニヤ笑いでコニャックのグラスを傾けていました。
「さあ、ビリー、これが今夜最後のローストチキンだ。これをお客さんに出したら、僕らも席に入って一緒にクリスマスを楽しもう!」
ジェスが厨房から声を上げると、お店のお客さんたちからワーッと大きな歓声が上がりました。
テーブルの真ん中に置かれた、今夜5つめの見事なローストチキンは、ランディーさんの大きな手で綺麗に切り分けられ、その最初の2皿が、頑張ったビリーとジェスの前に差し出されました。
「お疲れ様、二人とも! 最高のクリスマスディナーをありがとう!」
「ジェス、ビリー、メリークリスマス!」
「美味しかったよ! でもパーティーはこれからさ、全員そろってお祝いの乾杯をしよう!」
みんなが口々に二人の労をねぎらい、温かい声を掛けてくれます。
ビリーはみんなの笑顔と優しさが胸に一杯に広がって、嬉しさのあまり少し目を涙ぐませながら、
「みんな、本当にありがとう……!」と言いました。
「ビリーくん、本当にお疲れ様。ありがとう」
そう言いながら、ビリーの頬にそっとキスをしたのは、エルザでした。
お店の中は、一瞬の静寂のあと、先ほどよりもさらに大きな「わぁーっ!」という冷やかすような大歓声で包まれました。
「エルザ……!?」
「ほら、ビリーくん、上を見てごらん?」
ビリーがびっくりして上を見上げると、ジェスの釣り竿の先に吊るされた緑色の「宿り木」の枝が、ビリーの頭の上にぴったりとぶら下がっていました。そして、その釣り竿を後ろからいたずらっぽく差し出していたのは、キツネのピーターでした。
「クリスマスの夜にはね、宿り木の下にいる好きな人には、男の子からでも女の子からでも、キスをしても良いことになってるのよ。ビリーくん、知らなかった?」
「ピ、ピーター……! お前が仕組んだのか!」
ビリーが真っ赤になって叫ぶと、ピーターは相変わらずのニヤニヤ笑いを浮かべながら、片目をパチンとウインクしてみせました。
横にいたアンナとローザは、お父さんのスチュワートさんの隣で悔しそうに声をそろえて、
『エルザ、ずるーい!!』
お店のボルテージは最高潮に達し、今夜まだ一滴もお酒を飲んでいないはずの白黒猫のビリーが、店内の誰よりもお顔を真っ赤に染めてしまうのでした。
外では冬の名残をまとった少し冷たい風が、3本の高さの違う木をザワザワ、サワサワ、サラサラと鳴らしています。けれども、みずがめ市場のBarの中は、みんなの笑い声と、おだやかで優しいクリスマスの光でいつまでも温かく満たされているのでした。
7.冬のお買い物
本当に寒い日が続いたホーリー郡のカラス岳では、冬の間、スキーが楽しめます。
ビリーの家があるカラス岳のふもとの方では雪は積もっていませんが、少し山を登っていくと、もうすっかり銀世界。雪で真っ白に染まっています。
街の子供たちはスキーの板を元気に担いでビリーの家の前を通り、上の方のゲレンデまで歩いていきます。子供たちは、スキーの帰り道にビリーの家に立ち寄って、温かいミルクや美味しいお菓子をもらったりするのが何よりの楽しみで、夕方になると決まってビリーの家に遊びに来るのでした。
ある朝のこと、ビリーはふかふかで暖かいお気に入りの冬用コートを着て、いつもの赤いリュックサックを背負うと、みずがめ市場までお買い物に出かけることにしました。このところ寒さのせいで家に閉じこもることが多かったビリーですが、子供たちが楽しみにしているミルクやお菓子のストックが少なくなってきたからです。
今日のビリーのお買い物ルートは、トマソンさんの金物屋さん、シンプソンおばさんの果物屋さん、トーマスさんの牛乳屋さん、スチュワートさんのお肉屋さん、ワットさんのお菓子屋さん、マーカスさんのパン屋さん、そして最後にジェスのバーに寄ってから家に帰る予定です。夕方に子供たちがスキーから帰ってくる時間までに、すべての用事を済ませて山へ戻らなければなりません。
「うわぁ、それにしても今日は一段と寒いなぁ……」
ピューピューと音を立てながら、冷たい冬の風がビリーの耳元を通りすぎます。ビリーは体を少し丸めて小さくなりながら、市場へと足を急ぐのでした。
「やあ、ビリー。本当に寒い日だね」
金物屋のトマソンさんは、暖かいお店の奥の方でパイプたばこをぷかぷかと吹かしていました。
「本当に、凍えてしまいそうです」
「それで、今日はどうしたんだい?」
「おうちのランプの油が切れそうなので、新しいのを買いに来たんです」
「そうかい。ビリーのうちはそんなに大きくないから、この小さい瓶のサイズで十分だね。はい、どうぞ」
トマソンさんは、古いランプが並んでいる棚の奥の方から茶色い小瓶を出して、ビリーに手渡してくれました。
「ありがとうございます」
「この頃は家でどう過ごしていたんだね?」
「寒いので、家の中で色々と、春に向けて売れそうな手作りのものを作ったりしています」
「そうか、素晴らしいな。またいつでも顔を見せに来ておくれよ」
ビリーはお礼を言うと、トマソンさんのお店を出ました。
次はお隣のシンプソンおばさんのお店です。
「こんにちは、シンプソンさん」
「あら、ビリー! このところすっかり顔を見せないから、寒さで丸まってるんじゃないかと心配してたよ!」
「うん。家でね、こんな感じの飾りや小物を作っていたんだ。毛針が売れないこの時期には、これを市場で売ろうかと思って」
ビリーは赤いリュックサックから、冬の間に丁寧に仕上げた、キラキラと美しく光る手作りのネックレスを取り出して見せました。
「おやまぁ、なんてきれいなネックレスなんだい!」
シンプソンおばさんは驚いてネックレスを手に取ると、自分の真っ白なふわふわの毛皮で覆われた胸元に優しく当ててみました。
「いいねぇ、とっても素敵だよ。それでビリー、これをどこで売るかはもう決めているのかい?」
「ううん、まだ決めていなくて……。今日も10本くらい持ってきてはみたんだけど」
「それなら、私がこのお店で預かって、私のたくさんいる友達に紹介して売り込んであげるよ!」
世話好きで噂好きのシンプソンおばさんには、街中にたくさんのネットワークがあるのでした。
「本当に? ありがとう! じゃあ、これをお願いしますね」
ビリーは手元に3本だけ残して、6本のネックレスをシンプソンおばさんに手渡しました。
シンプソンおばさんは、ビリーの手元に残った3本のネックレスをじっと見つめると、にっこりと悪戯っぽく笑いました。
「その残した3本は、お肉屋さんの可愛い看板娘たちへのプレゼントだね?」
「うっ……!」
ビリーはお顔を真っ赤に染めて、コクンと小さくうなずきました。ビリーはシンプソンおばさんのお店で甘いリンゴを3つ買うと、そそくさと向かいのトーマスさんのお店に向かいました。
「こんにちは、トーマスさん」
「やあ、ビリー。元気そうでよかったよ」
山羊のトーマスじいさんは、いつものようにゆっくりとした口調で言いました。
「うん、元気です。今日は美味しいチーズとミルクを買いに来ました」
「おやおや、ありがとう。チーズは何がいいのかな? 今はブルーチーズが格別におすすめだよ」
「それじゃあ、そのブルーチーズと、カマンベール、ゴーダ、モッツァレラを1つずつください。それと、子供たちのためのミルクを1ダース、カラス岳の家まで配達してもらいたいんだけど……」
「はいよ、お安い御用さ。おーい、ジョン! ビリーの家にミルク1ダースとチーズの配達に行っておくれ」
トーマスじいさんがお店の裏手に声をかけると、若い山羊の店番のジョンがひょいと顔を出しました。
「はいよ! ビリー、いらっしゃい。これから山へ帰るなら、配達の荷馬車に一緒に乗っていくかい?」
「ううん、まだ他に行くところがあるから。気遣ってくれてありがとう、ジョン」
ビリーはお礼を言うと、いよいよお肉屋さんのスチュワートさんのお店へ向かいました。
「やあ、ビリー。しばらくだね!」
「こんにちは、スチュワートさん。今日は美味しいコロッケを買いにきました」
「いつもありがとう。エルザー! ビリーが来てくれたよ!」
スチュワートさんが奥に向かって声をかけると、お店の奥が一気に賑やかになり、すぐにエルザが嬉しそうな顔を出しました。
「ビリーくん!」
『ビリーくん!』
一瞬遅れて、次女のローザと長女のアンナも競うように顔を出しました。
「おいおい、みんな一斉に集まっちゃ、仕事の手が止まってしまうだろう」
スチュワートさんはしょうがないなぁという顔で苦笑いしています。
「スチュワートさん、お邪魔してごめんなさい。……みんな、これ、冬の間に作ったんだ。これはエルザ、これはローザ、これはアンナに」
ビリーはリュックサックから残しておいた3本のネックレスを取り出すと、それぞれに手渡しました。
「うわぁ、すてき……! キラキラしてる!」エルザが胸に当てて喜びます。
「なんてきれいで上品なのかしら!」とアンナ。
「すごくかわいいわ、ビリーくんありがとう!」とローザ。
スチュワートさんも包丁を置いて、感心したようにネックレスを覗き込みました。
「ほう、これは見事なもんだ。ビリーが一人でこれを作ったのかい? 大したもんだなぁ」
「うん、毛針の売れない季節にアクセサリーを作って売ろうかと思って。さっき果物屋のシンプソンおばさんが、友達にたくさん紹介してくれるって言ってくれたんだ」
「そうかい、それはよかったな、ビリー。シンプソンさんなら、街一番のセールスマンだからたくさんの人に広めてくれるだろうよ」
「ビリーくん、本当にありがとう!」エルザが最高の笑顔をビリーに向けました。
「おや、ビリー。あたしの分のアクセサリーはないのかい?」
お店のさらに奥から、お母さんのメアリーさんも顔を出して言いました。
「おいおい、メアリーまでおねだりするんじゃないよ」スチュワートさんが笑います。
「あ、ごめんなさい、メアリーさん……。残りのネックレスは、全部シンプソンおばさんに預けちゃったので……」ビリーが申し訳なさそうに縮こまると、メアリーさんはガハハと豪快に笑いました。
「ビリー、冗談よ、からかっただけさ!」
「あ、でも……! ひとつだけ、試作品で作った指輪ならあるんですけど……」
ビリーがポケットから小さな指輪を取り出そうとすると、メアリーさんはその手を優しく、でもピシッと止めました。
「お前たち、真っ赤になっちゃって。よし、この綺麗な指輪は、ひとまずアタシが貰っておくよ。ありがとう、ビリー」
メアリーさんは悪戯っぽくウインクをすると、その指輪を嬉しそうに受け取りました。
「さあビリー、頼まれていたコロッケがちょうど良く揚がったよ。これ以上うちの女たちにからかわれないうちに、早く持って行きなさい。お代はネックレスのお礼にいいよ」
スチュワートさんが、温かい木の皮でくるんだコロッケの包みをビリーに手渡してくれました。
「スチュワートさん、ありがとうございます!」
ビリーは心臓をバクバクさせながら、逃げるようにお肉屋さんを後にしました。
ビリーは急いで、ハリネズミのワットさんのお菓子屋さんで子供たちのためのキャンディーとチョコレートを買い、オナガザルのマーカスさんのパン屋さんで香ばしいバゲットと食パンを買い込むと、やっとの思いでジェスのバーにたどり着きました。
この冬の間、ジェスのレストランバーはお昼過ぎから「カフェ」としてお店を開き始めていました。なぜなら、今の寒い季節、川が凍ってしまってジェスも大好きなマス釣りができないからです。
「やあ、ビリー。どうしたんだい? なんだかものすごく疲れた顔をしてるよ?」
お店のテーブル席にへなへなと座り込んだビリーを見ながら、ジェスが温かいお水を持ってきてくれました。
「うん、いや、お肉屋さんでいろいろあってね……」
「いろいろあるよねぇ、若い二人には」
突然後ろのテーブル席から聞き慣れた声が掛かり、ビリーは飛び上がるほどびっくりしました。
「ピ、ピーター!」
いつも神出鬼没なピーターには、驚かされてばかりのビリーでした。ピーターはいつものニヤニヤ笑いを浮かべながら、優雅に温かいコーヒーを飲んでいました。ビリーが助けを求めるようにジェスの方を見ると、ジェスはただ肩をすくめただけで、何も言いませんでした。
「さて、ビリー。やっぱり『いろいろ』っていうのは、エルザちゃんのことかね?」
ピーターが核心を突いてくると、ビリーはドキッとして顔を上げました。ジェスを見ると、ジェスはビリーに背中を向けてカウンターの奥を掃除していますが、どうやら肩が小刻みに揺れていて、後ろ向きで必死に笑いを堪えているようです。
「……もう、二人ともからかわないでよ」
ビリーが完全に黙り込んでしまうと、ピーターはコーヒーを飲み干し、席を立ちました。
「ジェス、ごちそうさま」
代金をカウンターに置くと、ピーターはお店を出て行く直前、振り返ってビリーに言いました。
「早くしたほうがいいよ。エルザちゃんは市場でも一、二を争う人気者だからね」
ピーターはそう言い残すと、今度こそ本当に出て行きました。ビリーはピーターの後ろ姿を見送る間、あいつの顔は絶対に今、最高にニヤニヤと笑っているに違いないと確信していました。
「ビリー、お待たせ。何にする?」
ようやく含み笑いを収めたジェスが、改めてビリーの注文を取りに来ました。
「温かい紅茶をください……」
ビリーはそう言って、手に提げていた包みから、お肉屋さんで貰った揚げたてのコロッケを1つ、ジェスに手渡しました。
「お、ありがとう。なるほど、そういうことか」
ジェスはサクッとコロッケをかじりながら言いました。
「ピーターは、ビリーの持っているそのコロッケの包みを見ただけで、エルザちゃんに会いに行ってきたんだって一瞬で見抜いたんだね。あいつの勘の鋭さは本当に侮れないな」
ビリーも自分の分のコロッケを食べながら、深くうなずきました。
「本当にそうだよ。でも、別にいいじゃないか。放っておいてくれたってさ……」
少しご機嫌が斜めになって、ふてくされるビリーです。
ジェスは残りのコロッケを口に放り込むと、ビリーの頭をポンと叩きました。
「まぁ、そんなにむくれてないで。ピーターのやつも、言い方はあれだけど、本当はビリーたちのことをすごく気にかけて、応援してくれてるのさ」
そして、ジェスはビリーのために、最高に香りの良いアッサムの紅茶を淹れてくれました。
紅茶に白いミルクと砂糖を少し入れて、スプーンで静かにかき混ぜていると、温かい湯気とともに、ビリーのトゲトゲしていた気持ちが少しずつ穏やかになっていくのを、はっきりと感じました。
「まだまだ、暖かくはならないねぇ……」
カウンターの中で、ジェスが愛用の釣り竿を振るまねをしながら、恋しそうに呟きました。
「うん、本当にそうだね」
ビリーとジェスの間に、冬の日の静かで優しい時間が流れていきました。
お店の真ん中にある大きな薪ストーブの上で、ケトルがゆっくりと白い湯気を立てて、シュンシュンと音を鳴らしています。奥の壁に吊るされている古びた柱時計が、小さな音でコチコチ、コチコチと、心地よいリズムで振り子を動かしていました。
「そろそろ行くよ。山の上で、子供たちがスキーから帰ってくる頃だ。温かいミルクを用意してあげないと」
ゆっくりとした至福の時間を楽しんだビリーが、荷物を持って席を立ちました。
「そうだね。ビリー、またいつでもおいでよ」
ビリーはジェスに紅茶の代金を支払うと、リュックサックの紐をしっかりと背負い直しました。ドアを開けると、外ではちらちらと白い雪が美しく舞っています。
「ごちそうさま、ジェス!」
ビリーはぶるっと体を一度震わせると、お世話になった市場を抜けて、我が家へと向かいました。
お昼と言うには少し遅くて、夕方にはまだ早い時間、ビリーはたくさんの子供たちへのお土産を背負って、大好きなカラス岳の家へと、クネクネ川のせせらぎに沿って一歩一歩、坂道を上っていきます。子供たちがスキーから帰ってくる前に、最高に温かいミルクとお菓子を用意して、笑顔で迎えてあげるために。
8.みずがめ市場の春
ホーリー郡に、待ちに待った本物の春がやってきました。
ビリーにとっては、一年の中で最も心が躍る季節の訪れです。我が家の前の小さな池に住む、3匹のマスの姉妹たちも、長い冬眠から目覚めて元気に泳ぎ回っています。
ビリーは早速、昨晩のうちに毛針をたくさん作ると、池の前に持っていきました。マスの姉妹たちに「どれが一番美味しそう?」と尋ねて、お気に入りの針を仕分けてもらい、赤いリュックサックに詰め込んでみずがめ市場へと向かいます。
「やあ、ビリー! ようやく暖かくなってきたねぇ」
金物屋のトマソンさんは、お店の奥からパイプをくわえて嬉しそうに声をかけました。ビリーはいつものように、トマソンさんの店の軒先に小さな毛針屋さんを開きます。
「うん、トマソンさん! そろそろマス釣りにも最高の時期になってきたから、気合を入れてたくさん毛針を作ってきたよ!」
「そうかい、しっかりがんばりなよ」
ビリーは軒先にいつもの敷物を広げると、右側には自慢の毛針が入った箱を、そして左側にはきらきら光るアクセサリーの入った箱を並べて、その真ん中にちょこんと座りました。
冬の間に家の中で色々なアクセサリーを作り、シンプソンおばさんに預けて売ってもらっていたところ、思いがけずたくさんのお客さんがついてくれたため、毛針と一緒にこの春からもお店で売り続けることに決めたのです。
早速、お隣の果物屋さんのシンプソンおばさんがやってきました。
「おはよう、ビリー!」
おばさんの胸元には、冬の間にビリーが作った、美しい水色に光る石があしらわれたネックレスが輝いていました。シンプソンおばさんの白いふわふわの毛皮によく似合っています。
「おはようございます、シンプソンさん。はい、これ、頼まれていた新しい分です」
ビリーは赤いリュックサックから、一つひとつ小さな箱に入ったネックレスを3つ取り出して、シンプソンおばさんに手渡しました。
今ではシンプソンおばさんの口コミを通じて、ビリーの手作りアクセサリーを買ってくれるお客さんが爆発的に増えていました。値段はおばさんが市場の価値に合わせて決めて売ってくれたのですが、それはビリーが少しびっくりするほどの高いお値段でした。その代わり、お客さんの細かい注文や好みにあわせた特注品を、ビリーが特別に作るという約束をしていました。
ビリー自身の店先ではもっとシンプルで手頃なものを売っていましたが、街の若い女の子たちは、その安いものでも十分に顔を輝かせて喜んで買っていきました。
なぜなら、そこには街中の女の子たちが憧れる、ある素敵な理由があったからです。
「おはよう、ビリーくん」
鈴が鳴るような可愛らしい声でビリーを呼んだのは、お肉屋さんのエルザでした。エルザの胸元には、シンプルで品のいいピンク色の石がついたネックレスが、春の光を受けて綺麗に揺れていました。
「おはよう、エルザちゃん。今日も本当によく似合っているねぇ。そのピンクの石は、エルザちゃんにぴったりだよ」
シンプソンおばさんが目を細めてエルザを見つめました。
エルザ、ローザ、アンナの3姉妹は、みずがめ市場の誰もが認める人気者で、特に街の若い女の子たちのファッションの憧れの的でした。彼女たちが身につけているアクセサリーは、それだけであっという間に大人気の商品になるのです。ビリーはただ、冬のお見舞いや日頃のお礼として、そんなつもりはなく純粋に彼女たちにプレゼントしただけだったのですが。
というわけで、この頃は毛針を売って稼ぐお金よりも、手作りのアクセサリーの方がたくさん売れてしまい、職人としては少し不思議な気持ちのビリーでした。しかし、トマソンさんの言葉を思い出し、「みんなが喜んでくれることが一番だ」と、もう悩んだり迷ったりすることはなくなっていました。
「エルザ、お店のお仕事は?」ビリーが聞きます。
「うん、今日はお昼の仕込みの野菜が少し足りなくなりそうだったから、シンプソンさんのお店に買い出しに来たの」
「なんだ、そうか」
二人のそんな初々しいやり取りを見ていたシンプソンおばさんが、ニヤニヤしながら言いました。
「ビリー、これからもっとたくさん稼ぐんだよ。この街で新しく結婚して所帯を持つには、結構お金がかかるからねぇ!」
「シ、シンプソンさん……! 何を言ってるんですか!」
ビリーはお顔を真っ赤にして慌てて叫びましたが、エルザは何も言わず、ただ嬉しそうに恥ずかしそうに、黙ってうつむいているだけでした。
お昼過ぎになり、ビリーが店先で手作りのサンドイッチを頬張っていると、エルザのお母さんであるメアリーさんが、ずんずんと力強い足取りでやってきました。
「こんにちは、メアリーさん! 今日は何かお肉のお届けですか?」
「いや、別にアクセサリーを買いに来たわけじゃないんだよ、ビリー。……エルザのことについて、ちょっとね」
ビリーはそれを聞いた瞬間、食べていたサンドイッチを思い切り喉に詰まらせそうになり、飛び上がるほどビックリしました。
「おやおや、ビリー大丈夫かい?」
メアリーさんはガハハと笑いながら、ビリーの背中を大きな手で力強くドンドンと叩いてやりました。
「だ、大丈夫です……ごほごほ」
「そんなにビックリすることないじゃないか。何も取って食おうっていうわけじゃないんだからさ」
メアリーさんは笑いながら言いました。
「だって、突然エルザの名前が出るから……。最近、市場のみんなにも冷やかされっぱなしですし」
ビリーが落ち着いたのを見届けてから、メアリーさんは一息ついて、真剣な優しい目になって言いました。
「それはね、ビリー。あんたがいつまでも男らしくビシッと決めないで、煮え切らない態度を取っているから、みんながじれったいんだよ。まぁ、いいさね。ビリーが真面目で、色々深く考えてくれている気持ちもわからない訳じゃないから。ただ、母親として一つだけハッキリ言っとくよ。うちの大事な娘を、泣かせるようなことだけは絶対に、するんじゃないよ」
メアリーさんはそう言って、ビリーの肩をポンと叩くと、そのままお肉屋さんへと帰っていきました。
ビリーはメアリーさんの後ろ姿を見送りながら、少しの間、じっと考え込みました。そして、決意に満ちた目で顔を上げると、今日はいつもよりずっと早くにお店を片付け、早じまいにしてカラス岳の家に帰ることにしました。
「おや、ビリー。今日はもう帰りかい? ずいぶん早いね」シンプソンおばさんが驚きます。
「ええ、ちょっと……どうしても外せない大切な用事が出来たので!」
ビリーが真っ直ぐに答えると、シンプソンおばさんはすべてを察したようにゆっくりと深く頷き、優しい目で言いました。
「そうかい。ビリー、しっかりがんばりなよ」
「はい!」
ビリーはリュックサックを背負うと、急いで我が家へと向かって坂道を駆け上がりました。
家に帰り着くと、ビリーは急いで指輪を作り始めました。戸棚の奥の隠し引き出しから、大切に保管していた特別な材料を取り出します。
その中に、一際美しくきらめく石が入っていました。それは少し前に、親友のジェスと一緒にクネクネ川の秘密のポイントへ釣りに行ったとき、水底で偶然見つけた、神秘的な緑色に光る美しい原石でした。ビリーはずっと、この特別な石は、自分の人生の一番特別な瞬間に使おうと決めて、丁寧に磨き上げていたのです。
一生懸命に指輪の台座を削り、石をはめ込み、気がついたときには、外はもう夜が更けて深い真夜中になっていました。
「あ、そう言えば、明日のお昼のパンも牛乳も、何にも買ってきていないや……」
ビリーは指輪の出来栄えを見つめながら、胸がドキドキと高鳴って、夕飯を食べるのも忘れていました。明日のお朝食も、きっと緊張で喉を通らないだろうなと思いながら、ベッドに入りましたが、どれだけ羊を数えても全く眠りにつくことはできませんでした。
そして、長い夜が明けて、いつの間にか小鳥が歌う朝になっていました。
ビリーはクネクネ川の冷たい水で念入りに顔を洗い、自慢のヒゲがピンと真っ直ぐになるように丁寧に整えました。そして今日は、毎日の仕事道具である毛針の箱も敷物も持たずに、ただポケットに小さな宝物をひとつだけ忍ばせて、いつもよりずっと朝早くにみずがめ市場へと向かいました。
みずがめ市場へ着くと、なぜかいつもなら朝早くから開店の準備を始めているはずのお店が、一軒もシャッターを開けていません。市場全体が、しんと静まり返っています。しかし、今日のビリーは自分の胸のバクバクという大きな鼓動のせいで、そんな周囲の奇妙な静けさにも全く気がつかないほど、緊張で頭がいっぱいになっていました。
ただ一軒だけ、明かりが灯って開いているのは、スチュワートさんのお肉屋さんでした。
「お、おはようございます、スチュワートさん……!」
店先で仕込みをする風でもなく、ただ椅子に腰掛けて新聞を読んでいたスチュワートさんに、ビリーは意を決して挨拶をしました。
「やあ、ビリー、おはよう。どうしたんだい? こんなに朝早くから、仕事道具も持たずに」
「あの……っ、エルザちゃんは、中にいますか?」
「ああ、いるよ。ちょっと待ってなさい。……エルザー! ビリーが来てくれたよ!」
スチュワートさんがお店の奥に向かって大きな声をかけました。
すると、店の奥の方で「キャー!」とか「ほら、行きなさい!」といった少しザワザワとした騒ぎがあり、後ろから押し出されるようにして、エルザが店先に勢いよく飛び出してきました。
「お、おはようビリーくん。ずいぶん早いのね……」
少しうつむき加減のエルザは、綺麗な両手をエプロンの前でもじもじと合わせて、ビリーを上目遣いで見つめました。
「エルザ……どうしても、今朝伝えたくて、お話があるんだ」
「な、なぁに?」
「これを……受け取ってほしい」
ビリーはポケットから、昨日徹夜で作ったばかりの、とびきり美しく緑色に輝く手作りの指輪をエルザの前に差し出しました。
「これを……?」エルザが息を呑んで聞き返します。
ビリーは足を踏み出し、みずがめ市場中に響き渡るような、人生で一番大きな声で叫びました。
「この指輪を受け取って……僕と、結婚してくれませんか!?」
エルザは一瞬驚いて大きな目を見開きましたが、すぐに大きな嬉し涙をぽろぽろと零して、満面の笑顔で答えました。
「……ありがとう、ビリーくん! 喜んでお受けします!」
エルザの返事が終わったのと完全に同時に、しんと静まり返っていた市場中から、割れんばかりの「ワーーーッ!!」という大歓声と拍手が巻き起こりました。
実は、市場のみんなは、ビリーのこの一世一代のプロポーズが今朝あるだろうということを、昨日シンプソンおばさんから事前に聞いて知っていたのです。みんなビリーを応援するために、息を潜めて静かに見守っていたのでした。
市場中のすべてのお店の扉がパッと一斉に開いて、トマソンさんやトーマスさん、ランディーさんやピーター、街の仲間たちがみんな笑顔で飛び出してきました。
「み、みんな……!? どうしてここにいるの?」
ビリーが目を丸くしていると、親友のジェスがいつの間にかビリーの隣に来て、その肩をポンと叩きました。
「何言ってるんだい、ビリー。みんなビリーがいつまでたってもエルザちゃんにプロポーズしないから、自分のことのようにハラハラして、やきもきしていたのさ。本当におめでとう!」
「そうだよ、ビリーくん。よくやった!」
お父さんのスチュワートさんが、奥さんのメアリーさんと一緒に、いつの間にかビリーの後ろに立っていました。
「スチュワートさん、メアリーさん……っ」
「ああ、ビリー。うちの大事な娘のことを、これからどうかよろしく頼むよ」スチュワートさんが優しく言いました。
「はいっ! 生涯かけて、絶対に幸せにします!」ビリーは背筋をピンと伸ばして、力強く返事をしました。
エルザは隣に駆け寄ってきた姉のアンナとローザから大きなお祝いの花束を贈られ、嬉し涙で頬を濡らしながら、ビリーの手をぎゅっと握りしめました。ビリーはその涙を浮かべた世界一可愛い姿を見て、エルザのことがさらに一段と大好きになるのでした。
「やあ、ビリー。本当におめでとう」
「トマソンさん! ありがとうございます」
パイプを持ったアリクイのトマソンさんが、にこにこしながらビリーの肩を優しく叩きました。
「さあ、結婚して所帯を持つとなると、これから色々大変なことも増えるぞ。しっかり頑張らないとな」
「はい!」
ビリーは元気にそう答えたものの、今の幸せいっぱいのビリーには、これから何がどう大変になるのか、全く見当が付きませんでした。
みずがめ市場に、本物の輝かしい春が来ました。
ビリーとエルザの二人にも、待ちに待った最高の春がやってきたのです。暖かい春の日差しが、祝福するように街中を隅々まで照らしていました。
おめでとう。本当におめでとう。
市場のあちこちから、絶え間なくお祝いの声が響き渡ります。
「さあ、みんな! 今日は営業は終わりだ! ウェディングパーティーの準備をするぞ!」
誰かが広場の真ん中でそう叫ぶと、再びワーッと大歓声が上がりました。
市場の広場はそのまま、ビリーとエルザのための特設ウェディングパーティー会場へと早変わりしました。ジェスも、この日のために事前に仕込んでいたのか、広場の真ん中に手際よくテーブルをたくさん並べて、即席の出張バーコーナーを設営してくれました。
「さあ、みんな、今夜はタダだ! 好きなだけ飲んで食べてくれよ! お代はすべて、ビリーとエルザへのご祝儀さ!」
どこからか陽気な音楽まで流れ始め、あちこちの広場では手を取り合ってダンスをする輪が出来ていたり、市場全体がもうお祭り騒ぎです。
ビリーはたくさんの街の人たちから次から次へとお祝いのお酒を飲まされ、すっかりお顔を真っ赤にして、
「みんな、本当にありがとう! ありがとう!」と、壊れた時計のようにそればかりを繰り返していました。エルザの周りにはたくさんの女の子たちが集まり、春の綺麗なお花を次々と手渡して祝福していました。
ホーリー郡のみずがめ市場には、いつもの春よりも、ずっとずっと温かくて心地よい幸せの風が、優しく吹き抜けてゆくのでした。
◇
「あれ……? ここはどこだろう?」
ビリーがゆっくりと目を覚ましました。頭が少し重たくて、まだ夢の中にいるようです。
「おや、やっと主役の王子様がお目覚めかね?」
グラスを傾けながらそう言って笑ったのは、トマソンさんでした。
気がつくと、場所はいつものジェスのレストランバーのカウンター席でした。
「もう、ビリーったら。みんなにお祝いのお酒をたくさん飲まされて、パーティーが始まってすぐに酔っ払って寝ちゃうんだから」
ビリーのすぐ隣には、優しく微笑むエルザが座っていました。
ジェスのお店の中は、広場に出していたテーブルもきれいに片付けられて元の位置に戻っており、いつもと変わらない、落ち着いたスモーキーで温かい空間になっていました。
そして、カウンターを見渡せば、そこにはいつもの愛すべき人たち。
茶色い犬の、最高の料理人ジェス。
ツキノワグマの、実直な農家ランディーさん。
オオアリクイの、物知りな紳士トマソンさん。
キツネの、ずる賢くて粋なピーター。
ウサギの、世話好きで優しいシンプソンおばさん。
そして――。
ビリーの隣には、新しく世界で一番大切な奥さんになった、エルザがいました。
「みんな……本当に、ありがとうございました。僕、これからもこの街で、みんなと……」
ビリーはそこまで言うと、胸がいっぱいで言葉が出なくなってしまいました。
外では、冬の名残をまとった少し冷たい風が、3本の高さの違う木をザワザワ、サワサワ、サラサラと鳴らしています。けれども、みずがめ市場のBarの中は、お昼と言うには少し遅くて、夕方にはまだ早い時間のような、おだやかで優しい春の光でいつまでも、いつまでも温かく満たされているのでした。
さて、白黒猫のビリーたちの物語は、これでひとまずおしまいです。
ビリーはエルザと、カラス岳の小さなお家でこれからも仲良く幸せに暮らしていくでしょう。
ジェスは、春の釣りを楽しみつつ、レストランで極上のお酒と美味しい料理を作り続けるでしょう。
ホーリー郡には今日も爽やかな風が吹き抜け、季節折々の美しい顔を見せてくれています。
ホーリー郡の穏やかな日常にお付き合いいただいた皆様にも、明日からまた素敵な毎日が訪れるよう心から祈りつつ――。
またの機会に、この温かい市場でお会いできることを楽しみにしています。
(第一部・完)




