第一章:一人で生き残る
初めまして、粗茶オンエアです。
面白いかはさておき、初めての投稿になるので、温かく見守ってほしいです(笑)
1. 巡―― 主人公
見た目の特徴:20代前半の痩身な青年。無造作な黒髪に、青く鋭い冷静な観察眼。黒〜チャコールグレーを基調とした実用的な外套・戦闘服を着用。
固有装備・ギミック:
右手首:赤く発光するバーコード状の認識票(バグ刻印)。
左腕:黒ずんだ鉄と真鍮パイプ、圧力弁が組み合わさった非対称で無骨な《負荷固定装具》。
### プロローグ:境界領域のエラー
背中に伝わるのは、硬くひび割れた土の冷たさだった。
鼻を突くのは、焦げた鉄と生乾きの泥が混ざり合ったような異様な臭気。
見上げれば、青というよりは濁った鉛色の空が、どこまでも果てしなく広がっている。
「……徹夜のあとに、デバッグ室の床で寝落ちしたか?」
乾いた唇から漏れた声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
身を起こそうとして、異変に気づく。
着慣れたスウェットの感触がない。身に纏っているのは、見覚えのない無骨で粗末な灰色の布切れだった。それに、ここはオフィスビルの一角どころか、遮るもの一つない赤茶けた荒野だ。地平線の向こうには、刃物のように尖った連峰が黒く沈んでいる。
手のひらに食い込む砕石の感触は、夢にしては生々しすぎた。
「……状況の切り分けが先だな」
職業病のような独り言を吐き出しながら、手足を確かめる。
手足は動く。視界も正常。呼吸もできる。
胸に手を当てれば、心臓が一定のリズムで力強く脈打っている。
――少なくとも、俺自身は生きてここにいる。
だが、右手首の内側を見た瞬間、思考が止まった。
血管が透ける皮膚の上に、まるで炭で焼き付けられたような漆黒の線が刻まれていた。
太さと間隔が不揃いな複数の平行線。
物流倉庫の段ボールや、ゲームの製品パッケージで見飽きるほど目にしてきた――バーコードに酷似した幾何学的な刻印。
触れようと左手の指先を伸ばした、その瞬間だった。
《――警告:不正規事象の発生を検知》
鼓膜を震わせた音ではない。直接、頭蓋の奥へノイズ混じりに割り込んできた機械音。
《境界内領域における死亡個体の継続稼働を確認。当該存在は《順行法則》の不可逆原則に違反しています》
《個別識別:巡》
《状態:死亡》
思考のメモリが一瞬、完全に白く焼き切れた。
「……は?」
死亡個体。
状態、死亡。
自分の胸を強く押し当ててみる。
トクン、トクン、と温かい拍動が確かに掌を押し返してくる。喉元を通る空気の冷たさも、全身を撫でる風の感覚もある。
なのに、この世界を管理する何者かは、生きている俺を「死んだエラーデータ」として処理しているらしい。
「……ふざけた仕様だな。生きてる人間を死亡判定のまま放置するなんて、どんな手抜き設計だ」
軽口を叩いて平静を装おうとした。
だが、背中を冷たい汗が伝うのを止められない。
もしこれがシステムの不具合なら、次に待っているのは――異常を検知した防衛機能による、強制消去だ。
### 第一話:死せる残骸と最初の代償
荒野の乾いた風が、じっとりと冷たい腐敗臭を運んできた。
土を擦る不揃いな足音が、一定の間隔で近づいてくる。
メグルは咄嗟に身を屈め、近くにあった黒ずんだ巨岩の影に滑り込んだ。呼吸を殺し、岩の裂け目から音の発生源を覗き込む。
数十メートル先を徘徊していたのは、かつて人間だったであろう人型の残骸――動く死体だった。
だが、ただの腐乱死体ではない。
剥き出しになった赤黒い筋肉は異様な密度で収縮を繰り返し、引きずり出された肋骨の隙間からは、紫がかった粘性の液体がぼたぼたと地面に滴り落ちている。液体が触れた土壌はジュッと激しい音を立て、泡を吹いて瞬く間に炭化していった。
強烈な腐食性の酸だ。一滴でも皮膚にかかれば、肉ごと骨を溶かされる。
(……冗談だろ。あんな生体兵器みたいなもの、素手でどうしろって言うんだ)
引き返して逃げようと足元を見るが、遮蔽物のない平坦な荒野だ。
逃げれば背中を晒すことになる。
ピク、と怪物の首が奇妙な角度で傾いた。
眼窩に瞳はなく、濁った紫の光が、メグルの潜む岩へと正確に向けられる。
敵意や怒りといった感情の揺らぎは一切ない。ただ「排除すべき異物を捉えた」という、純粋な機械のような反応。
ギシャアアッ、と押し潰したような金属的な絶叫を上げ、怪物が地を蹴った。
速い。
足を引きずっていたはずの怪物が、前傾姿勢のまま弾丸のような速度で距離を詰めてくる。
人間を遥かに超える脚力。石を踏み砕き、荒れ地を直線的に疾走してくる。
「っ……!」
メグルは岩陰から飛び出し、後退しながら足元の拳大の硬い石を掴み取った。
(距離十……八……! 投擲で頭を潰しても止まらない。生物としての急所判定がない相手だ。あの腐食液を撒き散らされたら逃げ場がなくなる!)
怪物が跳躍した。
身の丈を超える高さから、爛れた両腕を振り上げ、メグルの頭上から体重ごと押し潰すように落下してくる。腕の表面から滲み出た腐食酸が、飛沫となってメグルの頭上へ降り注ぐ。
退路はない。避ける猶予もない。
死が網膜を焼いたその瞬間――右手首のバーコードの刻印が、皮膚を焼き焦がすほどの熱を放った。
視界のすべてが、一瞬だけ色を失う。
上から下へ、質量と重力を伴って叩きつけられようとする破壊の力。
その不可逆な「下向きの流れ(ベクトル)」に、メグルの本能とデバッガーとしての直感が、強引に指を突っ込んだ。
(――「反転」しろ!)
バチンッ、と大気が軋む音が炸裂した。
落下していた怪物の両腕と腐食酸が、メグルの前髪を掠める直前――まるで下から超高圧の蒸気が噴き上がったかのように、真上へと急激に跳ね上がった。
ギュオッ、と怪物の巨躯が不可解な力に引っ張られ、無防備に宙へと仰け反る。
「……ぐ、あああああっ……!?」
次の瞬間、メグルの胸の奥で、心臓を内側から鉄の杭で貫かれたような激痛が走った。
膝が砕け、荒野の泥に両手をつく。
肺が激しく痙攣し、喉の奥から熱い血がせり上がって地面を赤く染めた。
《MP消費:15》
《順行法則との致命的矛盾を検知――代償負荷の還元》
《肉体組織への不可逆的侵食》
「……カハッ……! そういう、ことか……!」
血反吐を吐き出しながら、メグルは激痛に震える手で胸を強く押さえつけた。
魔法を使えば魔力(MP)が減る。
だが、この世界においてエネルギーの流れを無理やりひっくり返す「反転」という行為は、消費した負荷をそのまま自分自身の生体を破壊することで支払わせる劇薬だ。
視界が激しく明滅している。
デバッガーとしての冷徹な直感が告げていた。
(二度目は使えない。もう一回これを使えば、確実に俺の身体が先に壊れる)
前方で、体勢を崩して仰向けに叩きつけられた怪物が、骨を軋ませながら起き上がろうとしていた。
「反転」させたのは腕の軌道と腐食酸の飛沫だけだ。怪物の耐久力そのものは何一つ減っていない。起き上がられれば、次は確実に殺される。
(能力に頼るな。仕様を見ろ……!)
メグルは血を吐きながら、起き上がろうとする怪物の身体を凝視した。
人間離れした筋力。骨を砕くような打撃力。
だが――泥にまみれた右膝の関節から、異常な軋み音が鳴っている。
先ほど急激に腕のベクトルを真上へ「反転」させた反動で、怪物の全体重を受け止めた右足の関節に、致命的な負荷の歪みが生じていた。
(そこだ……!)
メグルは震える足に無理やり力を込め、右手に握りしめていた尖った石を振りかぶった。
怪物が立ち上がる寸前、その歪んだ右膝の関節の隙間へ向けて、全体重を乗せて石の角を叩き込む。
メキョッ、と鈍い破砕音が響いた。
膝の結合が外れ、怪物が前のめりにバランスを崩して倒れ込む。
「ギシャッ……!」
怪物はなおも腕を振り回し、爪から腐食酸を撒き散らそうとする。
メグルは腕の可動域の外側――背後へと転がるように回り込んだ。
(頭部破壊は無意味。だが、全身へ運動伝達を送っているのは首の付け根、骨のジョイント部だ!)
怪物が起き上がるより速く、メグルは怪物の背中に乗り、剥き出しになった頸椎の骨の継ぎ目へ、石の尖った先端を深々と突き立てた。
全体重をかけ、腕の筋肉が千切れるほどに押し込む。
一度、二度、三度。
泥臭く、必死に、骨の継ぎ目をこじ開けるように石を打ち据える。
ゴキリ、と鈍い破壊の手応えとともに、怪物の全身から硬直が解け、濁った紫の光が霧散した。
荒野に、静寂が戻る。
残ったのは、吹き抜ける乾いた風の音と、メグルの喘ぐような荒い呼吸だけだった。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ……」
泥と血にまみれながら、メグルはその場にへたり込んだ。
胸の奥を焼くような鈍痛は、今も拍動のたびに消えてくれない。
右手首のバーコードの刻印を見つめる。
黒い線は、先ほどよりも微かに赤みを帯びて熱を持っていた。
「……「反転」は、便利なチートなんかじゃない」
もし最初からこの能力で敵を粉砕しようとしていれば、吹き飛んでいたのは怪物の頭ではなく、俺の心臓だった。
だが――仕様を観察し、敵の動きの破綻を見抜き、最小限の力だけを「反転」させれば、圧倒的な格上相手でも生存の道筋は作れる。
(生き残るには、観察して、検証して、勝ち筋を見つけるしかない)
メグルは立ち上がり、血を拭って前を見据えた。
自らの存在を「エラー」と定義する、この狂った世界の仕様を解き明かすために。
### 第二話:観測された絶望
胸の奥が、まだ焼けていた。
右手首の刻印も熱を持っている。
(……次はない)
そう判断した直後だった。
突風が、先ほどの泥臭い腐敗臭とは異なる、鋭利な金属臭と焦燥を運んできた。
「――陣形を崩すな! 大盾、魔導障壁を維持しろ!」
怒号。それに続く、硬質な破裂音。
メグルは反射的に近くの黒ずんだ巨岩の亀裂に滑り込み、わずかな隙間から音の発生源へと視線を向けた。
百メートルほど先の窪地。
銀色に輝く統一された甲冑を纏った四人の男女が、円陣を組んでいた。
装備の規格。淀みのない足捌き。無駄のない声の掛け合い。
(……手練れだ)
その中央で大盾を構えた前衛が叫ぶと同時に、後衛の魔術師の杖先から淡い青色の光膜が展開された。
《順行法則》に則った正規の魔力運用。術者の体内から外部へと整然と放出されたエネルギーが、規則正しく編み上げられた防壁を形成していく。
「アンデッド三体、一掃する! 合わせろ!」
前衛の戦士が踏み込み、大剣を一閃させた。
剛風が巻き起こり、先ほどメグルが石を使って必死に倒したはずのアンデッドが、二体まとめて胴体から両断され、砂埃となって弾け飛ぶ。
さらに後衛の魔術師が放った圧縮火球が、残る一体を寸分の狂いもなく撃ち抜き、蒸発させた。
洗練されている。
これが、この世界における「正規の強者」の戦い方だ。彼らなら、この荒野の魔物など容易く掃討して前進できるはずだった。
――だが、彼らが対峙している「それ」は、あまりにも異質だった。
大気を引き裂く重低音とともに、窪地の向こうから現れた巨躯。
全身を黒錆のような禍々しい鎧で覆った、人型の怪物。
兜の隙間からは生気を感じさせる瞳など見えず、ただ虚無のような暗黒が覗いている。右手に提げているのは、身の丈をゆうに超える無骨な大剣。
――異端騎士。
なぜか、その単語がメグルの脳裏に鋭く突き刺さった。
騎士の一歩。
ただ足を下ろしただけだ。それなのに、足元の赤茶けた土壌から、同心円状に黒い靄のようなものが急速に広がっていく。
《腐蝕》。
触れた草木が一瞬で黒ずみ、砂埃となって崩壊する。アンデッドの酸のように「物質を溶かす」のではない。生命力、大気、そして空間そのものの輪郭を黒く削り取っていくような、絶対的な侵食現象。
「囲め! 吹き飛ばせッ!」
探索者のリーダーが叫び、前衛の戦士が電光石火の踏み込みを見せた。
鋭い刺突が騎士の喉元へ正確に繰り出される。同時に、後衛の魔術師が放った最大威力の収束火球が、死角である騎士の背後から寸分の狂いもなく着弾した。
完璧なタイミングの挟撃。回避不能の十字砲火。
しかし――。
ガィィィンッ!!
空間を震わせる鈍い破裂音が響き渡った。
戦士の大剣も、着弾した極大の火球も、騎士の眼前数十センチで完全に静止し、そして弾き返された。
「な……障壁ごと弾かれた……!?」
戦士が狼狽の声を漏らす。
だが、岩陰から見ていたメグルの目は、戦士たちとはまったく違う異常を捉えていた。
(……おかしい)
メグルは額に冷や汗を滲ませながら、その衝突面を凝視した。
防がれたんじゃない。
硬い盾で受け止められたのでも、魔法の結界で威力を減衰させられたのでもない。
大剣の切っ先も、炸裂するはずだった魔力も、騎士の周囲に展開された境界に触れた瞬間――攻撃という事象そのものが成立を拒絶され、外側へ押し返されている。
物理も魔法も関係ない。
外部から内部へと向かうエネルギーの干渉を、無条件で無効化し、外へと弾き出す絶対の拒絶。
《絶対防御》。
「退け! 一旦距離を――」
リーダーの判断は迅速だった。だが、世界のルールそのものが違う存在の前では、その速度すら無意味だった。
異端騎士は一瞥すら寄越さず、ただ無機質な動作で右腕の大剣を横一文字に薙ぎ払った。
ドンッ、と大気が圧縮される爆音。
大盾を構えて防御態勢を取っていた戦士の身体が、盾ごと紙屑のように真っ二つに両断され、宙を舞った。
さらに、騎士の周囲から噴き上がった《腐蝕》の黒霧が、逃げようとした後衛の魔術師たちを瞬く間に呑み込む。
肉体だけではない。魔術師たちが展開しようとした防護の術式そのものが、黒霧に触れた瞬間に構成を崩壊させられ、炭化した灰のように霧散していく。
「あ、ぐ……あぁぁっ……!」
悲鳴が途絶えるまで、わずか十数秒。
圧倒的な蹂躙。手も足も出ない、完全な敗北。
あれほど強大に見えた探索者たちが、傷一つつけられないまま、冷酷に更地へと変えられた。
(……嘘だろ)
岩陰の奥底で、メグルは奥歯を強く噛み締めた。
アンデッド戦の成功体験など、一瞬で消し飛んでいた。
観察しても、敵の挙動を切り分けても、今の自分には勝ち筋が何一つ見当たらない。
触れれば肉体も術式も腐蝕させられ、こちらの攻撃は事象ごと弾かれる。
見つかれば、次の瞬間には死ぬ。今の「反転」をどれだけ工夫したところで、あの規格外の仕様を覆す手立てはない。
息を殺し、石になりきる。あいつが通り過ぎるのを待つしかない――そう祈り、胸を押さえたコンマ一秒後。
ピシリ。
右手首のバーコードの刻印が、焼けるような紫電を放った。
直頭部の処理領域へ、鼓膜を無視した無機質なノイズが叩きつけられる。
《――警告:重大な不整合の拡大を検知》
《境界内における死亡個体【巡】の未処理状態を確認》
《順行維持機構――対象の強制排除プロセスへ移行します》
立ち去りかけていた異端騎士の足が、ピタリと止まった。
ギチ、ギチと首が怪異な角度で旋回し、兜の奥の底知れぬ虚無が、岩陰のメグルを正確に捉える。
敵意ではない。怒りでもない。
ただ、システム内に発生した「エラー」を修正するための、冷徹な削除ルーチン。
ゴォッ、と騎士の足元の地面が陥没した。
黒錆の巨躯が、大気を切り裂きながらメグルめがけて弾丸のように突進してくる。
### 第三話:逃走のデバッグ
正面衝突は即死。
メグルは躊躇なく、隠れていた巨岩を蹴って左斜め後方へと身体を投げ出した。
ドガァァァンッ!!
直後、メグルが潜んでいた巨岩が、異端騎士の大剣の一撃で粉微塵に破砕された。
飛び散る破片の一つが頬を掠め、生温かい血が滲む。だがメグルは振り返らない。荒涼とした斜面を転がるように滑り降り、全速力で地を蹴る。
逃げる。
だが、ただ走るだけでは三秒で追いつかれる。
背後から迫る重低音の足音は、馬の疾走よりも速い。
メグルの脳内で、冷徹なデバッガーの思考がフル回転を始めた。
(速度差:絶望的。直線走では追いつかれて両断される)
(遮蔽物:無意味。《腐蝕》とあの大剣の前では岩壁すら一撃で粉砕される)
(攻撃:不可能。《絶対防御》にすべて弾かれる)
(「反転」による迎撃:自滅する。あの一撃の威力を丸ごと反転させれば、引き換えに俺の心臓が破裂する)
全部ダメだ。
正攻法の逃走ルートはすべて塞がれている。
ならば――前提の条件を疑え。
(あの怪物の挙動。探索者を殺したときも、今の突進も、一切の迷いがない。……なぜだ? あいつは『俺を見ている』のか?)
違う。
直頭部に響いた《強制排除プロセス》の無機質な機械音。
あいつは視覚や聴覚でメグルを追っているのではない。
手首の刻印――世界に存在するはずのない「死亡個体」というエラーの座標シグナルを検知して直進しているだけだ。
(直線的な最短距離しか通らない。障害物を避ける知恵もない。ただ目標の座標へ向けて質量を突っ込ませている……!)
背後に迫る死の気配。大剣が風を切り裂く轟音が、すぐ背中まで迫っていた。
メグルは前方に見えた深いクレバス――荒野の断層の裂け目へと進路を向けた。
幅はおよそ三メートル。底には鋭利な岩が突き出ている。
ジャンプして飛び越える脚力は、今のメグルにはない。
だが、飛び越える必要はない。
「……「反転」は、攻撃に使うんじゃない」
メグルはクレバスの縁のギリギリで、急ブレーキをかけるように身体を横へスライドさせた。
追従してくる異端騎士。最短距離でメグルを両断すべく、黒錆の巨躯がクレバスの直前で踏み込み、大剣を上段から振り下ろす。
振り下ろされる刃の切っ先。
その直前、メグルは手首の痣に意識を集中させた。
大剣そのものじゃない。騎士の身体でもない。
メグルが触れたのは、自らの足元――乾いた土壌と自分の靴底の間の摩擦力。
――「反転」!
ツンッ、と胸の奥に針で刺されたような痛みが走る。
摩擦係数の局所的な反転。
踏ん張るはずだったメグルの足が、まるで凍結した氷の上に油を撒いたかのように、信じられない滑らかさでツルリと真横へ滑り抜けた。
スカッ、と空を切る大剣の轟音。
真横へ滑り出たメグルの前髪を掠め、騎士の振り下ろした大剣が、何もない空を踏み抜いた。
そして――。
最短距離でメグルを殺すためだけに全質量を前傾させていた異端騎士は、標的が物理的にあり得ない挙動で横に滑り抜けた瞬間、突進の運動エネルギーを殺しきれず、クレバスの虚空へと前のめりに足を踏み外した。
ズズンッ、と巨躯が重力に従って落下していく。
崖下に転落する一瞬、騎士の兜の奥の虚無が、崖上で息を荒らげるメグルを見上げた。
《――対象の喪失を検知》
《排除プロセスの再計算を実行中》
感情のないシステム音が遠ざかり、崖底でドシャアンッ、と重たい衝撃音が響いた。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ、ハァ……ッ……!」
メグルはその場にへたり込み、激しく上下する胸を押さえた。
胸の痛みはある。だが、アンデッドの時と比べれば遥かに軽い。
大剣の威力をひっくり返したのではなく、ほんのわずかな靴底の摩擦を「反転」させただけだからだ。支払った代償は最小限で済んだ。
だが、メグルはすぐに立ち上がった。
崖底を見下ろせば、黒錆の巨躯は四肢を軋ませながら、すでに這い上がろうと岩肌に手をかけていた。
あの程度の落下で死ぬ相手ではない。すぐに再計算を終えて登ってくる。
だが――この数秒のデバッグで、メグルは確信していた。
(あいつの《絶対防御》……。外からの干渉をすべて弾くなら……)
頭の中で、パズルのピースが組み合わさっていく。
外から壊せないなら、外から入ろうとしなければいい。
あの絶対的な壁そのものが、あいつを殺すための最悪の武器になり得る。
メグルは落ちていた探索者の短剣を一本拾い上げると、逃げるのをやめ、息を整えながらクレバスの縁で静かに振り返った。
(……まだ、一つだけ手がある)
### 第四話:閉じた世界の破断点
クレバスの底から、硬質な破砕音が響いた。
泥土を擦り、垂直の断層を強引に削りながら、黒錆の巨躯が這い上がってくる。
兜の隙間から覗く暗黒。そこに感情の揺らぎはない。
落下という致命的な障害を経てなお、足取りにブレはなかった。ただ、世界に紛れ込んだ不純物を消去するためだけに、一歩を踏み出す。
《――対象の再捕捉を完了》
《強制排除を再開》
直頭部へ響くノイズ混じりの機械音。
メグルは荒野の砂利を踏みしめ、右手に拾い上げた短剣を握り直した。
距離、およそ十メートル。
騎士の全身から、再び同心円状に《腐蝕》の黒霧が滲み出し、赤茶けた土を黒ずんだ砂へと崩壊させていく。
近づくだけで皮膚がチリチリと焼かれ、喉の奥が張り裂けそうになる。
(外からの攻撃は事象ごと拒絶される。なら――内側からならどうなる?)
仮説の第一歩。
メグルは短剣を突き出し、騎士の間合いの外縁、見えない境界へと刃先を叩きつけた。
ガィンッ!!
硬質な反発音とともに、短剣が強烈に弾き返された。
衝撃が手首を痺れさせ、踏み込んだ前足がズズッと後方へ押し戻される。
(違う。ただ弾いているんじゃない)
メグルは額に冷たい汗を滲ませながら、弾かれた切っ先の挙動を凝視した。
防壁に当たって止まったのではない。
境界を越えようとした瞬間、侵入しようとする攻撃のベクトルそのものが、システム的な異常処理のように真逆の向きへと強制的にすり替えられている。
境界を跨ごうとする干渉を、外側へ突き返す絶対の排斥処理。
ならば――攻撃を通そうとするから拒絶されるのだ。
(なら……「外へ突き返す力」そのものを「反転」させればいい)
「ギシャアアッ……」
大気が震えた。
異端騎士が無機質な動作で巨躯を沈め、身の丈を超える大剣を真横へと引き絞る。
両断の薙ぎ払い。
先ほど熟練の探索者たちを鎧ごと紙屑のように引き裂いた、不可避の質量攻撃。
逃げ場はない。距離を取れば《腐蝕》に削り殺される。
メグルは短剣を捨て、両腕を開いたまま、突進してくる騎士の正面――自ら《絶対防御》の境界へ向けて身を投げ出した。
世界がスローモーションに引き延ばされる。
迫る黒錆の大剣。
そしてメグルの胸元が、目に見えない排斥の境界に触れた、その瞬間。
ドゥンッ、と全身の骨が軋むほどの反発力が、メグルを外側へ弾き飛ばそうと膨れ上がった。
(――今だ!)
手首のバーコードの刻印が、皮膚を焼き焦がす閃光を放つ。
ひっくり返すのは、世界そのものじゃない。
敵の巨躯でもない。
自分を外側へ叩き出そうとしている、この排斥処理の向きだけだ!
――「反転」ッ!!
ミシッ、と胸骨の奥で何かが砕けるような痛みが走った。
だが、心臓の破裂には至らない。
押し出そうとする力が、真逆のベクトル――内部へ引き込む力へと書き換わる。
ズンッ!
強烈な吸引力に引っ張られるように、メグルの身体は境界をすり抜け、騎士の懐――《絶対防御》の内側へと強引に引きずり込まれた。
鼻孔を焼く濃密な腐蝕の臭気。
目の前には、黒錆の装甲。
そして頭上からは、空気を圧殺しながら大剣の刃が振り下ろされようとしていた。
(侵入は成功した。……だが、ここは死地だ!)
避けられない。
振り下ろされる刃先まで、わずか数十センチ。
大剣のすべてをひっくり返せば、反動で自分の頭蓋が吹き飛ぶ。
狙うのは全体じゃない。
メグルは泥と血にまみれた右手を伸ばし、振り下ろされる刃の切っ先――その極小の先端が描く最後の数十センチの運動方向へと意識を絞り込んだ。
大剣がメグルの前髪を裂く、コンマ零秒前。
――「反転」!!
ツンッ、と頭の奥が真っ白に焼き切れるような衝撃。
刃先の軌道が、不自然に跳ね上がった。
メグルの脳天を両断するはずだった切っ先が、真上――騎士自身の肩口へと急激に撥ね返る。
その瞬間、異端騎士が踏み込んでいた全体重と膂力が、完全に仇となった。
振り下ろしのエネルギーを逃がせなくなった大剣が、自身の腕をへし折りながら後方へと暴発し、騎士の背後に張り巡らされていた《絶対防御》の内壁へと激突した。
外からの侵入を絶対に拒絶する、破壊不能の境界。
内部で発生した事象には干渉しない、絶対の壁。
逃げ場を失った騎士の突進力と、大剣の質量、そして反転した軌道。
すべてが、騎士自身の肉体という極小の隙間に閉じ込められた。
派手な爆発は起きなかった。
ギンッ。
金属と空間が軋む、耳障りな一点の停止音。
次の瞬間――。
パキ。
黒錆の鎧の胸元から、乾いたガラスが割れるような一本の亀裂が走った。
音もなく、その亀裂が全身へと蜘蛛の巣のように伝播していく。
《――重大な矛盾を検知》
《排斥座標の内部崩壊――処理を中断します》
無機質なシステム音が、途切れ途切れに脳内へ散っていった。
騎士の兜の奥の暗黒が、ふっと灯を落とすように消える。
バサリ、と錆びた鉄屑が崩れ落ちるような音を立てて、黒錆の巨躯が荒野の土の上へ崩壊した。
取り巻いていた黒い靄が霧散し、大気に乾いた静寂が戻る。
「……カハッ……!」
メグルは膝から崩れ落ち、両手を地面についた。
喉からせり上がった熱い血が、乾いた砕石を赤く染める。
全身の皮膚が《腐蝕》の余波で爛れ、呼吸をするたびに肺が針で刺されたように痛んだ。
手首のバーコードの刻印は、赤黒く変色し、熱鉄を押し当てられたように脈打っている。
指先一本動かすリソースすら残っていない。
(……倒した、のか……?)
達成感などなかった。
あるのは、ただ薄氷を踏み抜いて水底に沈みかけたような、冷え切った戦慄だけだ。
こんな綱渡り、二度は通用しない。
今回は敵の仕様の穴を突いて自滅させられたが、自分の肉体はもう限界の破断点に達している。
次に出会うバグが、同じように自壊してくれる保証などどこにもない。
不意に、霞む視界の端で、脳内のノイズが微かに揺れた。
《個別識別:巡》
《状態:存続》
《――警告:エラーコード【001】の未解消を再確認》
世界はまだ、俺を消すべきエラーとして見据えている。
「……まだ、死ねない」
メグルは血反吐を泥の中に吐き捨て、震える腕で地面を押し上げた。
生き延びるための手がかりが要る。
この身を焼き切る反転の負荷を逃がし、世界という巨大なシステムに抗うための足場を探さなければならない。
荒野の鉛色の空の下、メグルは倒れた探索者たちの遺骸の方へと、泥を這うようにして手を伸ばした。
### 第五話:一人で生き残る
耳鳴りだけが、頭蓋の内側に響き続けていた。
「が、はっ……、オエッ……!」
激しく咳き込むたび、喉からこぼれた暗褐色の血が、砕けた泥土に染みを作っていく。
手首の痣は熱を失い、皮膚が引き攣れるような嫌な痛覚だけが残っていた。
身体の感覚が、爪先から順に消えかけている。
視界はピントを失い、白黒のノイズがチリチリと明滅していた。
数値化されたHPメーターなど、どこにも浮いてはいない。
だが、システムの限界値を日々テストしてきた経験則が、冷酷なアラートを叩きつけていた。
(……残ってる。たぶん、ほんの少しだけだ)
一度目の「反転」で身体が軋み、二度目で内側まで焼けた。
いや――違う。二度目だけじゃない。ここまで使ってきた全部の反動が、今になって一気に身体へ噴き出している。
もしもう一度、どんなに微小な「反転」であれ法則の逆回転を起こせば、その瞬間に自分の心臓は破裂する。生きていること自体が、システムの処理落ちによる奇跡にすぎない。
「……ハ、笑えないな。一匹倒すのに、命をすり潰してどうする」
震える腕に体重を預け、メグルは這うようにして前進した。
立ち上がる力など微塵も残っていない。指先を泥に突き立て、擦り切れた膝を引きずりながら、数メートル先――先ほど異端騎士の猛攻に呑まれた探索者たちの残骸へと近づく。
酸鼻を極める光景だった。
《腐蝕》の黒霧によって爛れた銀の甲冑。無残に折れ曲がった手足。
現代日本で暮らしていれば、嘔吐して腰を抜かしていたはずの死の惨状だ。
だが、メグルの冷え切った思考は、生存に必要なリソースの確保だけを冷徹に優先していた。
「……すまないが、使わせてもらう」
誰にともなく小さく呟き、事切れた前衛の革袋から水筒を抜き取る。コルクを歯で引き抜き、僅かに残っていたぬるい水を喉へと流し込んだ。乾ききった食道が激しく痛んだが、わずかに思考の輪郭が戻る。
続けて、魔術師と思しき遺体の懐を探る。
指先に触れたのは、硬質な革表紙で綴じられた一冊の手記だった。
泥を拭い、震える指先でページをめくる。
走り書きのような文字。見たことのない文字なのに、意味だけが直接、頭の中へ流れ込んできた。
『――前線技術都市エルディアへの到達を最優先とする』
『境界域の魔導工学工房において、《負荷固定》に関する試作品の研究が進んでいるとの情報あり』
『順行法則によって生じる反動を、装具側へ一時的に固定する機構らしい』
『理論上、適合者の身体に集中する負荷を分散できる可能性がある――』
手記の文面を追うメグルの瞳が、僅かに揺れた。
「……負荷を一時的に、固定する……?」
手首の痣を見つめる。
「反転」の代償。自分の肉体をすり潰す、世界の歪みによる直接打撃。
確実な保証などどこにも書かれていない。だが――。
(それがあれば――少なくとも、このまま死ぬよりは可能性がある)
生き残るための道筋が、暗闇の中に一本の細い糸のように通った。
異端騎士の残骸を見やる。粉々に砕け散った黒錆の装甲、その中心で淡く明滅する、親指大の異様な核。
メグルは泥を這い、その核を拾い上げて懐へ押し込んだ。何の素材になるかは分からない。だが、あの異常な《絶対防御》を展開していた残骸だ。何らかの技術的ヒントになるはずだった。
「……行くしかないか」
全滅したパーティーの荷から拾い上げた布で傷口を縛り、折れた槍を杖代わりに、メグルは泥土を蹴って立ち上がった。
一歩を踏み出すたび、視界が激しく揺れ、全身の骨が悲鳴を上げる。
誰の助けもない。見渡す限りの荒涼とした大地の中、血の足跡を残しながら、メグルは手記に記された方角――前線技術都市へと歩き出した。
ありがとうございました。
書き溜めているので、様子を見ながら更新していきます。




