第一話 罪と罰
「それじゃあ、あとはよろしくね」
どさどさっと放り投げるように積み重ねられた書類を前に、私は引きつった笑みを浮かべた。
現在時刻、二十時。
終業時間はとっくに越え、残業の終わりに差し掛かっていればこれだ。
直属の上司は悪びれもせずに「これ、指示書ね」と更に一枚重ねる。
いつも通り事細かに書かれた指示書に
(こんなの作る暇があるなら、自分でやればいいのに)
と内心ため息をついた。
「分かりました! いつまでに——」
「あー……。急ぎじゃないんだけど、できれば明日までに欲しいかな。私、明日、休日出勤するから」
(そんなの知らねーよ)
と悪態をつくことは出来ない。
ぎこちない笑みの口角を更に引き上げて、私は「分かりました!」と不満が漏れださないように、努めて明るく言った。
だけど敏感な上司は、私の不満を感じとったらしい。
眉根を寄せ、いかにも気に障りましたといった表情で息を吐き出した。
「聖成さんさぁ、忙しいのは分かるんだけど、頼まれたことは素直に引き受けた方がいいよ」
忙しいのは上司の仕事配分が下手なせいだし(同じ部下の石田くんは気に入られているのか、いつも定時きっかりに帰れる量しか頼まれない)素直さは——いや、さっきの返答に素直さ以外の何があるというのか。
ただ、ここで反抗しても、私の帰る時間が遅くなるだけだ。
ストレス発散のサンドバックになる時間があるなら、一刻も早く、この何時間かかるか分からない仕事を始めてしまいたい。
「……すみませんでした」
「そうやって、何も分かってないのに謝るのも——」
「金子さん、駅まで一緒に帰りませんか」
ぬっと背後から現れた巨体に、私は思わず肩を跳ね上げた。
一瞬で上司——金子さんの目の色が変わる。
「田山くん! 田山くんも、今から帰るの?」
「はい。なんで駅まで送りますよ。女性一人じゃ危ないし」
「田山くん……」
うっとりと頬に手を当てる金子さんの眼中に、私はもういない。
嬉しいような、複雑なような。
突然始まったラブロマンス劇に、私は指示書へと視線をずらした。
(前にもやったことがある業務だから、三時間あれば終わるかな)
それでも、終電ギリギリだけど。
二人のラブストーリーは足早に進んでいたみたいで、金子さんが
「それじゃあよろしくね!」
と私に
「あ、先にお手洗い寄ってもいいかな」
と田山くんに残し、風のように去っていく。
(この後の展開を考えると、色々と準備しておきたいもんね……)
と生暖かい視線を、金子さんの背中へ送っていれば、田山くんが背後から私の顎を掴んだ。
「んえっ!?」
ぐぎっと凝り固まった首から音が鳴り、太い指に挟まれた顎もぎちぎちと軋む。
「……ぶっさいくな面ですね」
私は思わず白目を剥きそうになった。
「……田山くんって、一応、私の後輩だよね」
「俺の方が仕事できるけど、一応、そうですね」
分厚い前髪の奥で、心底残念そうに瞳が細まる。
私は歯の隙間からほそーいため息を吐き出し「……ニンニク食べました?」「夕飯にコンビニラーメン食べた」田山くんの手を振り払った。
案外手は呆気なく離れて、私はそのまま書類を掴んだ。
「金子さん、帰ってくるよ。大事なデートでしょ」
「……分かってて言ってんすか? それとも素?」
くるりと椅子が回転し、田山君の腕が椅子の背もたれを掴む。私を囲うように近づいた体からは、甘いムスクの香りがした。私はその全てから視線を逸らす。
「さぁ?」
態度を改めるつもりのない私に、田山くんが筋肉質な腕を組んだ。
「……もう行きますけど、無理しないでくださいね」
「それは君のデート相手に言ってほしいかな」
ひらひらと手を振り、パソコンへと向き直る。
引き際の分かる男である田山くんは、静かにオフィスを出て行った。
また、静寂で満ちる。
田山くんが好意で助けてくれたのも、上司と後輩と私の三角関係に巻き込まれそうになっているのも、分かる。
だけど——。
「もう、恋愛はこりごりなんだよな~」
いや、まともに恋愛したことないけど。
何度も夢に見る、前世の記憶を脳裏に浮かべる。
前世、異世界転生系ラブファンタジー小説のヒロイン並みの立ち位置に居た私は、それはもう、恋愛の引き起こす様々な災難の渦中にいた。
おかげで恋愛が軽くトラウマだし、なにより——。
(……いや、今は考えるのはやめよう)
私はパソコンに向き直り、指を必死に動かす。
結局、気もそぞろでした業務が終わったのは深夜一時で、終電はもちろんなく、私は片道五十分かかる距離を歩いて帰宅することにした。
春が終わりかける、青臭い匂いが鼻孔をついた。
川岸の道路沿いを歩く。
土手を覆い尽くした草の隙間から、小さな生き物が鳴いた気がした。
不幸中の幸いとでもいうべきか、空は雲一つなく、都会には珍しく、降り落ちてきそうなほど星が見えた。
前世でよく見た光景だけど、星空は何度見たって、心を動かされる。
(星が導いてくれるって言ったのは誰だっけ——)
最初に忘れるのは声の記憶らしいけど、私はなぜだか、その酷く優しい声だけは覚えていた。どんな人だったか、思い出せないけど。
前世の記憶を持っていることに気付いたのは小学生の時。何度も同じ夢を見て、ふと「あ、これ私の前世じゃん」とひらめいた。
だけど全てを覚えているわけじゃない。
自分がどこで生まれて、どう生きて、どうやって死んだのか、思い出せない。
覚えているのは、城でのラブロマンスに関係することのみで。
(たぶん、すっごいトラウマだったんだな。前世に持ち越すくらい)
「それか、罪悪感か……」
ぼんやりと歩いていた私の背後から、無点灯の自転車が猛スピードで脇を通り抜けていく。
「えっ、わっ!」
体がぐらついて、私はそのまま土手の下へと転がり落ちた。
鞄を宙を舞い、パンプスが脱げ落ち、草と小石が髪に絡まりながら、最終地点の川底に体が叩きつけられる。
「ぶへっ! ごほっ、ごぼっ」
慌てて仰向けになれば、案外川面が低かったのか、耳までしか水はなかった。
おかげで、体へのダメージが大きくなったけど。
くすんだ黒髪が水面に広がり、じわじわとスーツに水が染みていく。
「あー、馬鹿みたい」
自転車は私の事なんか気にせず走り去り、こんな時間だ、周囲に助けてくれる人もいない。
今すぐ水から上がって、怪我の確認をして、身なりを整えて——やるべきことが頭に浮かぶが、立つ気力はなかった。
労働が罰だと言ったのは、誰だったか。
罰なら、受け入れるしかない。新卒で入った会社がブラック企業だと知った時、全てを諦めた。
何より、軽い罰よりも、重い罰のほうが私には似合いだと、誰かが受けるべきだった重い罰(仕事)を肩代わりできるなら、それが私には相応しいと、本気で考えていた。
前世で私は、一人の少女を殺してしまったから。
今世の名前は聖成なごり。
前世の名前はリディア・ブーゲンビリア。
前世で私は、王子の婚約者を追放し、処刑した。




