第9話「離婚届」
帰宅した時、家の中にはカレーの匂いが漂っていた。
玄関の靴は揃えられ、廊下の電気も点いている。
リビングのドアを開けると、そこにはエプロン姿の美咲が立っていた。
「あ……おかえりなさい。お疲れ様」
彼女は微笑もうとしていた。
だが、その笑顔は陶器の人形のように強張って、ひび割れそうだった。
リビングの壁を埋め尽くしていたあの忌まわしい写真は、すべて剥がされていた。
壁にはテープの跡だけが黒く残っている。
テーブルには、温かいカレーとサラダ。
彼女なりに、必死に「日常」を取り戻そうとしたのだろう。
まるで、何もなかったかのように。
「……ごめんね、勝手に剥がしちゃった。もう、見たくなかったから」
「そうか」
俺は短く答え、ダイニングテーブルには向かわず、ソファのローテーブルの前に座った。
そして、鞄から「それ」を取り出し、テーブルの上に置いた。
緑色の縁取りがされた紙。
離婚届だ。
「恒一……」
美咲の声が震える。
彼女はエプロンの裾を握りしめ、その場に立ち尽くしている。
「新田との話はついた。彼は会社を辞め、慰謝料を払い、二度と俺たちの前に現れないと誓ったよ」
俺は淡々と報告した。
美咲が息を呑む音が聞こえる。
かつての愛人が社会的生命を絶たれたという事実は、彼女にとって自身の未来を暗示する死刑宣告のようなものだろう。
「次は、お前の番だ」
俺はボールペンを離婚届の上に置いた。
俺の署名と捺印は既に済んでいる。
「書いてくれ。これで全て終わりにする」
「……いや」
美咲が首を横に振る。目から涙が溢れ出し、頬を伝う。
「いやよ……別れたくない。恒一、お願い。何でもするから……奴隷みたいに扱ってくれてもいい。一生償うから……捨てないで……」
彼女はその場に崩れ落ち、床に手をついて泣きじゃくった。
一か月前なら、俺はこの涙に揺らいだかもしれない。
あるいは、数週間前なら、この姿を見て溜飲を下げたかもしれない。
だが今は、ただの「現象」にしか見えなかった。
雨が降っているのを眺めるような、無感動。
「美咲。無理なんだよ」
俺は静かに告げた。
「壊れたコップを接着剤で繋ぎ合わせても、もう元のようには水は飲めない。俺たちは、粉々になったんだ。お前がその手で、叩き割ったんだよ」
「ううっ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「謝罪はいらない。名前を書いてくれ」
俺は冷徹に促した。
美咲はしばらく泣き続けていたが、俺が一切動じないことを悟ると、やがて震える手でペンを握った。
抵抗しても無駄だということを、この一か月の「教育」で彼女は骨身に染みて理解していたのだ。
サラサラと、ペンが走る音。
紙が擦れる音。
それだけの音が、十年近く続いた俺たちの関係を断ち切っていく。
書き終えた美咲は、魂が抜けたように項垂れていた。
俺は用紙を確認し、不備がないことを確かめてから鞄にしまった。
「……家は売却する。財産分与の手続きは弁護士を通じて連絡する。お前の実家には話を通してあるから、とりあえずそっちに戻ればいい」
「……うん」
美咲は小さな声で頷いた。
もう、彼女に言葉は残っていないようだった。
俺は立ち上がり、彼女を見下ろした。
これが、妻としての彼女を見る最後の瞬間だ。
「さようなら、美咲さん」
「美咲」ではなく「美咲さん」。
他人行儀な呼び名。それが俺からの最後のメッセージだった。
俺たちはもう、夫婦ではない。赤の他人だ。
他人になれば、もう憎む必要もない。愛する必要もない。
美咲はその呼び名にハッとしたように顔を上げ、何か言おうとして口を開いたが、結局何も言えず、再び顔を覆って泣き崩れた。
その背中は、以前よりもずっと小さく見えた。
俺は振り返らずに、寝室からまとめておいた荷物を持ち出し、玄関へと向かった。
カレーの匂いが、やけに鼻についた。
かつて愛した家庭の匂い。
それはもう、腐敗臭のようにしか感じられなかった。
ガチャリ。
ドアを開け、外に出る。
夜風が冷たい。
だが、その冷たさが今の俺には心地よかった。
***
後日、弁護士を通じて聞いた話では、美咲は実家に戻ったものの、精神的に不安定になり、心療内科に通っているらしい。
近所の目もあり、外出もままならない生活を送っているそうだ。
だが、その話を聞いても、俺の心は凪いでいた。
同情も、ざまあみろという感情もない。
ただ、「そうか」と思うだけ。
遠い国のニュースを聞くような感覚。
それが、俺の復讐の完成形だった。
関心をなくすこと。
彼女を、俺の人生から完全に消去すること。
俺は手元の離婚届受理通知書を眺め、それを引き出しの奥にしまった。
長かった戦いが、ようやく終わったのだ。




