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第8話「限界点」



新田の実家に乗り込んだ翌日、俺のスマホに一本の電話が入った。

 登録のない固定電話。


出ると、相手は弁護士を名乗った。


『新田翔太氏、およびそのご両親の代理人となりました、弁護士の阿久津あくつです』


事務的で、感情の乗らない声。

 俺は「来るときが来たか」と冷静に受け止めた。


あの両親が息子を守るためにとる手段は、もはや法律にすがる以外になかったのだろう。

 俺の暴走は、ここで強制停止となる。


これ以上、新田やその家族に接触すれば、今度は俺が「加害者」として法に裁かれることになるからだ。


復讐という名の感情戦は終わり、ここからは冷たい数字と契約の処理だけが残る。


***


数日後。

 俺は指定された都内の法律事務所の会議室にいた。


隣には、俺の代理人として依頼した弁護士が座っている。

 対面の席には、新田翔太とその両親、そして阿久津弁護士。


新田は別人のように萎縮していた。


背中を丸め、視線はテーブルの一点を見つめたまま動かない。あの軽薄な笑顔も、生意気な口調も見る影もない。

 ただの「抜け殻」だった。


両親もまた、心労で一気に老け込んだように見える。


『……では、示談の内容を確認させていただきます』


阿久津弁護士が書類を読み上げる。


慰謝料の金額は三百万円。一括払い。

 接触禁止条項。

 そして、口外禁止条項(今回の件を第三者やSNS等にこれ以上広めないこと)。


新田側は、すべての条件を呑んだ。

 というより、呑まざるを得なかったのだろう。


妹の学校や近所へのこれ以上の流出を防ぐためには、金で口を封じるしかないのだから。


『新田翔太氏は、本日付で株式会社〇〇を依願退職されました。今後、神谷美咲氏とは一切の接触を断ち、誠意を持って償うことを誓約いたします』


退職。

 事実上の解雇だろう。地方への左遷ですらなく、彼は職を失った。


この不景気の中、不祥事で前職を追われた男を雇う会社がどれだけあるか。

 彼の「遊び」の代償は、これからの人生という長いローンで支払われ続けることになる。


「……神谷様、ご署名とご捺印をお願いします」


俺の弁護士に促され、ペンを手に取る。


サラサラと自分の名前を書く音が、静まり返った部屋に響く。

 拇印を押す。

 赤いインクが、血のように見えた。


これで終わりだ。

 法的には、俺の「完全勝利」だ。


相手から家庭も、仕事も、金も、プライドも奪い取った。これ以上の復讐はない。

 だが、署名を終えて顔を上げた時、俺の胸に去来したのは歓喜ではなかった。


ただ、ひたすらに重い、鉛のような疲労感だった。


「……新田さん」


俺は最後に、抜け殻のような男に声をかけた。


新田がビクリと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げる。その目は、完全に俺に怯えていた。

 かつて俺の妻を抱き、俺を嘲笑っていた男の見る影もない。


「三百万円。確かに受け取ります。……でも、覚えておいてください」


俺は淡々と告げる。


「金で解決したのは、あくまで法的な責任だけです。あなたが壊したものの重さは、その金じゃ一生買い戻せない。……妹さんに、胸を張れる生き方をしてください」


新田の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 彼は言葉にならぬ嗚咽を漏らし、何度も何度も頭を下げた。


両親もまた、涙を流しながら深々と頭を下げる。


謝罪。涙。後悔。

 それらは全て、俺が欲しかったもののはずだ。


なのに、どうしてこんなに白々しく感じるのだろう。


会議室を出ると、廊下の窓から灰色のビル群が見えた。

 俺の手の中には、示談書のコピーと、通帳に入金される予定の数字だけが残った。


「……勝ったんだよな、俺は」


誰にともなく呟く。

 勝った。完膚なきまでに叩きのめした。


だが、壊れた家庭は戻らない。

 美咲への信頼も、かつての穏やかな日常も、二度と帰ってこない。


相手を地獄に落としても、俺が天国に行けるわけではなかったのだ。


ポケットの中でスマホが震えた。

 啓介からだ。


『終わったか?』という短いメッセージ。

 俺は『ああ、終わった』と返した。


そして、最後の大仕事に向かうために足を動かした。

 自宅へ帰る。


そこには、まだ処分を下していない「もう一人の共犯者」が待っている。


「帰ろう。……そして、別れよう」


俺はタクシーを拾った。

 行き先は、かつて愛の巣だった廃墟だ。

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