第7話「家庭を盾にする男」
その日の夕方。
俺は都下の住宅街にある、新田の実家の前に立っていた。
築年数の浅い、立派な二階建ての戸建て。庭には自転車があり、玄関先には可愛らしい花が植えられている。
平和そのものの光景だ。
これから俺が、この平和を踏みにじるのだと思うと、奇妙な高揚感と冷え切った感覚が同時に押し寄せた。
インターホンを押す。
しばらくして、昨日の電話で聞いたのと同じ、少しヒステリックな女性の声がした。新田の母親だ。
「……はい。どちら様ですか?」
「神谷です。翔太さんに、お話を伺いに参りました」
カメラ越しに告げると、長い沈黙が流れた。
ガチャリ、と鍵が開く音がして、ドアが少しだけ開く。
隙間から覗く母親の目は、恐怖と敵意で濁っていた。
「……お引き取りください。息子は、帰ってきてすぐに部屋に閉じこもって……あなたのせいで、会社で大変な目に遭ったと泣いていました」
「自業自得です」
俺はドアの隙間に足を差し込み、閉められないようにした。
乱暴なやり方だ。だが、丁寧な挨拶の時間は終わっている。
「警察を呼びますよ!」
「どうぞ。その代わり、警察が来たら近所の皆さんも集まってくるでしょうね。『息子さんが不倫をして、会社で騒ぎを起こして、被害者が抗議に来ている』と説明することになりますが、よろしいですか?」
「ッ……」
母親が息を呑む。
世間体。それが彼女たちの弱点だ。
俺は強引にドアを開け、玄関に入り込んだ。
「ひっ……!」
母親が後ずさる。
その騒ぎを聞きつけたのか、奥の部屋からジャージ姿の父親と、目を真っ赤に腫らした新田翔太が出てきた。
「な、何なんだ君は! 不法侵入だぞ!」
「あ、アンタ……! ここまで来るなんて異常だろ!?」
新田が父親の背後に隠れるようにして叫ぶ。
会社での威勢はどこへやら、今は親の威光を借りて吠えるだけの子供に見えた。
「異常? 人の家庭を壊しておいて、『遊びだった』と笑っていた人間が何を言いますか」
俺は玄関ホールで仁王立ちになり、彼らを見下ろした。
「会社への報告は済ませました。次はご両親への説明です。あなたたちが育てた息子さんが、具体的に何をしたのか。証拠写真と共に詳しく解説しましょうか」
「や、やめろ! やめてくれよ!」
新田が頭を抱える。
その時だった。
二階から、階段を降りてくる足音がした。
「……なに? すっごいうるさいんだけど」
現れたのは、制服姿の少女だった。
高校生くらいだろうか。新田の妹だ。
彼女は玄関の惨状――土足で上がり込んでいる見知らぬ男と、怯える両親、そして泣きじゃくる兄を見て、呆然と立ち尽くした。
「え……誰、この人。お兄ちゃん、何したの?」
その純粋な疑問が、場の空気を凍らせた。
新田の顔色が、紙のように白くなる。
妹にだけは知られたくない。かっこ悪い姿を見せたくない。
そんな浅はかなプライドが見て取れた。
「み、美穂……お前は部屋に戻ってろ! 関係ないんだ!」
新田が叫ぶ。
だが、俺は逃がさない。
「関係ない? いえ、大いにありますよ」
俺は少女の方へ視線を向けた。
冷徹な、他人の人生を査定するような目で。
少女が「ヒッ」と小さな悲鳴を上げ、手すりを強く握りしめる。
「君のお兄さんはね、人の妻と不倫をして、ある家庭をめちゃくちゃにしたんだ。それも、君が学校で勉強している間に、会社の金を横領してね」
「やめろぉぉぉっ!!」
新田が絶叫し、俺に掴みかかろうとするが、父親がそれを必死に止める。
「お兄ちゃん……嘘でしょ? 不倫って……」
少女の目から、兄への敬意が消え失せ、軽蔑と恐怖が入り混じる。
その視線こそが、新田にとって最も鋭い刃物だったようだ。彼はその場に崩れ落ちた。
「……これが、あなたが守りたかった日常ですか?」
俺は新田に問いかけた。
「君が俺の家庭を壊した時、俺も同じ絶望を味わった。いや、それ以上だ。……妹さん、学校で噂になるといいですね。『お兄さんが不倫で会社をクビになった人』だって」
「やめて……お願い、それだけは……」
新田が床に額を擦り付けて懇願する。
母親も泣き出し、父親は苦渋の表情で沈黙している。
そして、何も悪いことをしていない少女が、ただただ怯えて震えている。
俺の心臓が、早鐘を打っていた。
怖い。
俺自身が、恐怖の対象になっていることが怖い。
罪のない少女を言葉の暴力で傷つけている自分が、どうしようもなく恐ろしい。
だが、ここで引くわけにはいかない。
俺は恐怖を押し殺し、さらに冷たい仮面を被った。
「妹さんを巻き込みたくないなら、誠意を見せなさい」
俺は懐から、弁護士作成の『示談書案』を取り出し、新田の前に投げ捨てた。
「慰謝料三百万円。分割は認めない。期限は一週間。……払えなければ、次は法廷で会いましょう。その時は、親戚中、近所中、そして妹さんの学校にも知れ渡ることになる」
新田は震える手で書類を拾い上げた。
もう、彼に反抗する気力は残っていない。
家族という最後の砦の中で、彼は「家族を危険に晒す元凶」として孤立したのだ。
俺は少女に一瞥もくれず、背を向けた。
玄関を出る瞬間、背後から少女の泣き声と、新田を責める父親の怒鳴り声が聞こえた。
外の空気は冷たかった。
俺の手は、震えていた。
ポケットの中で拳を握りしめ、爪が食い込む痛みで正気を保つ。
「……あと少しだ」
これが最後の仕上げだ。
あとは、金を受け取り、法的な決着をつければ終わる。
だが、俺の心に残ったのは、あの少女の怯えた目だった。
その残像は、一生消えないだろう。
それもまた、復讐者が背負うべき業なのかもしれない。




