第6話「職場という裁きの場」
翌日の午前十時。
俺は都内のオフィス街にある、とある中堅商社の受付に立っていた。
濃紺のスーツに、地味なネクタイ。
どこから見ても、ただの取引先の営業マンだ。
だが、内ポケットにはICレコーダー、鞄には分厚い資料が入っている。
「――お約束の神谷です。人事部の佐伯部長にお取次ぎをお願いします」
受付の女性が内線を入れる。
数分後、現れたのは眉間に深い皺を刻んだ、初老の男性だった。
昨日の内容証明郵便が効いているのだろう。彼の目は警戒心で満ちていた。
「……神谷さん、ですね。こちらへ」
通されたのは、社内の奥まった場所にある応接室だった。
ガラス張りのパーティションの向こうでは、社員たちが働いている。
その中には、新田翔太もいるはずだ。
席に着くと、佐伯部長は単刀直入に切り出した。
「単刀直入に伺います。昨日の書面……あれは事実なのですか?」
「すべて事実です。証拠もここにあります」
俺は鞄から追加の資料を取り出し、テーブルに置いた。
美咲との不貞の証拠に加え、興信所が掴んだ『新田が会社の経費(タクシー代)を使って美咲と密会していた可能性』を示唆するデータも混ぜてある。
「……新田を呼んであります。本人に確認させましょう」
部長が内線で呼び出す。
数分後、ノックの音と共にドアが開いた。
入ってきた新田翔太は、昨日の威勢の良さが嘘のように顔色が悪かった。
目の下には隈があり、視線が泳いでいる。
「失礼しま……あッ!?」
俺の姿を認めると、新田の顔が引きつった。
「な、なんでアンタがここにいるんだよ!?」
「新田君! 言葉を慎みなさい」
部長の叱責が飛ぶ。
新田はビクリと肩を震わせ、渋々対面の席に座った。
俺は彼に向かって、営業スマイルのような薄い笑みを向けた。
「初めまして、新田さん。妻がお世話になりました」
「ふ、ふざけんな……! 部長、これプライベートな問題ですよ! 会社に持ち込むなんて営業妨害だ! 警察呼んでくださいよ!」
新田が喚く。
予想通りの反応だ。
俺は冷静に、部長に向き直った。
「おっしゃる通り、不貞行為自体は民事であり、プライベートな問題です」
「だろ!? だったら帰れよ!」
「ですが」
俺は新田の声を遮り、一枚のリストを提示した。
「これは、新田さんと妻がやり取りしていたLINEのログと、その送信時刻の一覧です。平日の一〇時から一七時……つまり、御社の就業時間内に、月間で二百通以上の私的なメッセージを送り合っています」
「は……?」
「さらに、この領収書の日付と時間。彼が『外回り』と称して会社を出ていた時間帯に、妻とホテル街のカフェにいた目撃情報と一致します。これは単なる不倫ではなく、御社に対する背任行為、あるいは給与泥棒と言えるのではないでしょうか?」
部長の顔色が、警戒から激怒へと変わった。
その怒りの矛先は、俺ではなく、隣で縮こまっている新田に向けられている。
「に、新田君……。これはどういうことだね?」
「い、いや、それは……たまたま休憩中に……」
「一日に何十回も休憩を取るのか? それに、この経費の件はなんだ。説明したまえ」
新田が言葉に詰まる。
脂汗が額を伝い、視線が泳ぐ。
助けを求めるように俺を見てくるが、俺は無表情で見返すだけだ。
「神谷さん、申し訳ありませんでした」
部長が深々と頭を下げた。
「社員の監督不行き届きです。この件は、社として厳正に対処いたします」
「えっ、ちょ、部長!? 俺、クビですか!? たかが不倫で!?」
新田が叫ぶ。
その「たかが」という言葉が、火に油を注いだ。
「たかが、だと……? 会社の看板に泥を塗り、取引先のご家族を不幸にし、業務をサボっていた人間が何を言うか!」
部長の怒号が応接室に響いた。
ガラス越しに、オフィスの社員たちが何事かとこちらを見ている。
新田翔太という男が、どんな人間なのか。好奇の視線が突き刺さる。
これで、彼の社内での立場は終わった。
クビにならなくとも、窓際か、地方への左遷か。
少なくとも、今までのようにのうのうと「遊び」を語れる環境ではなくなる。
「……新田さん」
俺は最後に、彼に声をかけた。
「君は昨日、『遊びだった』と言いましたね。私の家庭を壊したことを」
「っ……」
「その『遊び』の代金は、高くつきますよ。まずはその席、そして社会的信用で支払ってください」
俺は席を立ち、部長に一礼して退室した。
背後で、新田が部長に詰め寄られ、泣きそうな声で弁解しているのが聞こえる。
だが、もう遅い。
会社を出ると、真昼の太陽が眩しかった。
コンクリートの照り返しが熱い。
一つ、重荷を下ろしたような気がしたが、まだ胸のつかえは取れない。
会社という外殻は壊した。
次は、彼が最後にすがりつくであろう場所。
実家だ。
「……まだ、終わらせない」
俺は駅へと向かった。
そこには、もっと繊細で、残酷な真実が待っている。
妹という存在だ。




