第5話「標的変更」
郵便局の窓口で、俺は三通の封筒を差し出した。
『内容証明郵便』。
それは法的な宣戦布告であり、相手に「もう逃げられない」と突きつけるための凶器だ。
「……本当に出すんだな」
付き添ってくれた啓介が、確認するように尋ねてくる。
俺は迷わず頷いた。
「ああ。これがあいつの日常を壊すスイッチだ」
宛先は二箇所。
一つは、新田翔太の実家。彼の両親宛てだ。
もう一つは、新田翔太が勤務する会社の代表取締役、および人事部長宛て。
封筒の中身は、単なる慰謝料請求の通知書ではない。
不貞行為の事実を詳細に記した書面と、あの証拠写真のカラーコピー。そして、俺が受けた精神的苦痛と家庭崩壊の経緯を記した陳述書だ。
特に会社宛てのものには、『貴社社員による不貞行為に伴う、業務時間内の私的交流(LINE履歴)および公序良俗に反する行為の告発』という名目をつけた。
名誉毀損のリスク? 承知の上だ。
あいつが失うものに比べれば、俺が負うリスクなど微々たるものだ。
窓口の職員が淡々と事務処理を進める。
ポン、ポン、と消印が押される乾いた音が、処刑執行のカウントダウンのように響いた。
***
その日の夜。
俺はリビングのソファに座り、スマホをテーブルに置いていた。
美咲は寝室に閉じこもっている。
来るなら、この時間帯だ。
午後八時過ぎ。
予想通り、俺のスマホが震えた。
登録のない番号。だが、末尾四桁に見覚えがある。新田翔太だ。
俺はワンコール置いてから、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『あ、もしもし? 神谷さんの携帯で合ってますか?』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、やけに若く、軽い声だった。
切迫感はあるが、まだ事の重大さを理解していない、学生気分の抜けない声。
俺の腸が煮えくり返りそうになるのを、理性が氷漬けにする。
「神谷ですが。新田翔太さんですね」
『あ、やっぱりバレてます? いやー、まいったな。あのさ、今日いきなり実家に変な手紙届いたんですけど。親がパニックになってて。あれ、神谷さんが送ったんすか?』
変な手紙。
あいつにとって、他人の家庭を破壊した事実の通知は、その程度の認識らしい。
「私の代理人名義で送付した、慰謝料請求および事実通知書のことなら、私が送りました」
『いやいや、そういうの困るんすよね。美咲さんとはもう別れたし、遊びだったんで。つーか、会社にまで送るとか反則でしょ? 名誉毀損で訴えますよ?』
遊びだった。
その一言が、俺の中で何かのスイッチを完全に焼き切った。
美咲はこの一か月の地獄で、少なくとも罪の重さは自覚した。
だが、この男は何も分かっていない。
俺たちの結婚生活も、積み上げてきた信頼も、すべて「遊び」の一言で粉砕したのだ。
「……新田さん」
俺の声のトーンが一段階下がったのが自分でも分かった。
電話の向こうの空気が、ピリッと張り詰める。
『あ、なに? お金なら少しは払うからさ、示談ってことで――』
「勘違いしないでください。これは交渉ではありません」
俺は言葉を被せた。
「あなたが『遊び』で壊したのは、私の家庭だけじゃない。あなた自身の人生もだ」
『は?』
「明日、会社に行けばわかりますよ。あなたのしたことが、社会的にどう評価されるか。そしてご両親が、息子の不始末をどう受け止めるか」
『ちょ、待てよ! 脅しかよ! 美咲さんがどうなってもいいのかよ!』
今さら美咲の名前を出して盾にしようとする卑劣さ。
俺は鼻で笑った。
「美咲なら、もう壊れていますよ。あなたのおかげでね」
『……え?』
「次はあなたの番です。震えて待っていてください」
相手の返事を待たずに、通話を切った。
すぐに着信があったが、着信拒否に設定する。
LINEの通知も来たが、既読もつけずにブロックした。
リビングの静寂が戻ってくる。
俺はスマホを握りしめ、深く息を吐いた。
軽い男だった。
想像以上に、中身のない男だった。
あんな男に、俺の人生は狂わされたのか。
そう思うと、悔しさよりも、やはり虚しさが募る。
だが、賽は投げられた。
明日の朝、彼が出社した時、そこはもう彼が知っている「職場」ではない。
白い目で見られ、噂され、居場所を失う。
その光景を想像すると、俺の心の暗い部分が、確かに歓喜の声を上げた。
「……さあ、始めようか」
俺は明日、有給を取っていた。
会社を休んで何をするか。
もちろん、彼の職場への「ご挨拶」だ。
郵便だけでは終わらない。直接、引導を渡しに行く。




