第4話「見せしめの代償」
あの日から、ちょうど一か月が過ぎた。
我が家は、死んだように静かだった。
リビングの壁に貼られた写真は、美咲が何度剥がしても、俺が翌日には貼り直すといういたちごっこを繰り返した末、今はもう誰も触れなくなっていた。
風景の一部と化したその写真は、この家がもはや「家庭」ではなく「牢獄」であることを無言で主張している。
「……恒一、お願い。もう許して……」
夕食の席。
俺がスーパーで買ってきた惣菜を一人で食べていると、向かいの席で美咲が掠れた声を漏らした。
一か月前とは別人のように痩せ細っていた。
頬はこけ、目の下には濃い隈ができている。かつて俺が好きだった艶やかな黒髪は、手入れもされずにパサついていた。
「お父さんも、お母さんも……電話に出てくれないの。『お前が悪い』って、そればかりで……」
美咲が涙をこぼす。
当然だ。俺が釘を刺してある。
実家に助けを求めた美咲に対し、義両親は俺の「脅し」を恐れて突き放したのだ。
『恒一さんに許してもらえるまで帰ってくるな』。それが彼らの回答だったらしい。
「新田くんとも……別れたわ。もう連絡も取ってないし、ブロックした。仕事も辞めるつもり。だから……」
美咲が椅子から崩れ落ち、フローリングに手をついて頭を垂れた。
「もう一度だけ、やり直させて……。一生かけて償うから……この家から追い出さないで……」
懇願。
プライドも何もかも捨てた、哀れな姿。
俺の足元で、かつて愛した女が震えている。
これが見たかったのか?
俺を裏切った女が、全てを失って泥にまみれる姿を。
ざまあみろ、と笑うために俺は動いてきたはずだ。
だが、俺の心に湧き上がってきたのは、爽快感などではなかった。
どす黒く、重い、鉛のような澱だった。
(……汚いな)
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。
それは美咲に対してであり、そして何より、こんな状態の人間を冷静に観察している自分自身に対しての感情だった。
人間が壊れていく過程を、特等席で見ている。
彼女の精神を削り取っているのは俺だ。言葉の刃物で、無視という暴力で、俺は彼女を解体している。
これは「正義」なのか?
それとも、ただの「破壊」活動なのか?
ふと、吐き気を覚えた。
だが、俺は表情筋を一つも動かさず、冷めきった惣菜を口に運んだ。
ここで手を緩めれば、今までの苦痛が無駄になる。
それに、まだ「片方」しか終わっていない。
「……別れたのか」
一か月ぶりに、俺はまともに美咲に話しかけた。
美咲が弾かれたように顔を上げる。その目には、微かな希望の光が宿っていた。
「う、うん! 別れた! 二度と会わない!」
「そうか」
俺は箸を置き、ナプキンで口を拭う。
そして、残酷な事実を告げた。
「だが、遅い」
「え……?」
「お前が別れたと言っても、過去の事実は消えない。それに、あっちの男はまだ何の代償も払っていない」
美咲の顔から血の気が引いていく。
俺は立ち上がり、彼女を見下ろした。
「一か月、よく耐えたな。おかげでこちらの準備も整った」
「じゅ、準備って……恒一、何をする気なの?」
美咲が俺のズボンの裾を掴もうとするが、俺はそれを避けて書斎へと向かう。
手には、分厚い封筒を持っていた。
中に入っているのは、探偵を雇って調べ上げた「新田翔太」に関する興信所の調査報告書だ。
実家の住所。家族構成。
父親の勤務先。妹の通う高校。
そして、新田自身の会社での立ち位置。
すべて、丸裸だ。
「美咲。お前への制裁は、これで終わりじゃない。これからは『共犯者』として、あいつが落ちていく様を特等席で見てもらう」
俺は美咲を残し、書斎のドアを閉めた。
ドアの向こうで、美咲が「やめて、もうやめて」と泣き叫んでいるのが聞こえる。
新田を守りたいからではない。これ以上、事態が大きくなることへの恐怖だろう。
俺はデスクの椅子に深く沈み込み、天井を仰いだ。
胸の奥の違和感は消えない。
空しい。ひたすらに空しい。
それでも、俺は止まれない。
この空虚な穴を埋めるには、相手からも同じだけのものを奪い取るしかないのだと、自分に言い聞かせた。
スマホを取り出し、啓介にメッセージを送る。
『美咲の方は終わった。次のフェーズに移る』
すぐに『了解』のスタンプが返ってきた。
ターゲット変更。
次は、人の家庭を破壊しておきながら、のうのうと日常を謳歌している間男――新田翔太だ。




