第3話「親という名の盾」
週末の昼下がり。
都内から電車で一時間ほどの場所にある、閑静な住宅街。
そこに、美咲の実家がある。
手入れの行き届いた庭木、品の良い表札。
かつては俺も笑顔で招かれ、義父と酒を酌み交わした場所だ。
だが今日は、手土産の代わりに、絶望を持参していた。
「……恒一、録音の準備はできてるぞ」
「俺は睨みを利かせてりゃいいんだな?」
左右を固めるのは、啓介と剛だ。
スーツ姿の啓介はICレコーダーのスイッチを入れ、大柄な剛は黒いTシャツから太い腕を覗かせている。
まるで借金の取り立てのような布陣だが、これからやることはそれ以上に残酷かもしれない。
ピンポーン。
インターホンを押すと、すぐに「はーい」と明るい声がして、義母が出てきた。
「あら、恒一さん! 今日はどうしたの? 美咲は……あれ、お友達もご一緒?」
義母は俺たちの異様な雰囲気に気づかず、笑顔で招き入れてくれた。
リビングに通されると、新聞を読んでいた義父も眼鏡を外して立ち上がる。
「やあ、いらっしゃい。珍しいな、急に来るなんて。まあ座ってくれ」
出されたお茶からは湯気が立ち上っている。
俺は一口もつけず、背筋を伸ばして座り直した。
その緊張感に、ようやく義父たちも異変を察知したようだ。
「……何か、あったのかね?」
義父の声が僅かに硬くなる。
俺は一礼してから、口を開いた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。本日は、お義父さんとお義母さんに、ご報告とお返ししたいものがありまして」
「報告? 返すもの?」
俺は鞄から、例の茶封筒を取り出した。
そして中身をぶちまけるのではなく、一枚一枚、丁寧にテーブルの上に並べていく。
トランプのカードを配るように。
一枚目、路上での抱擁。
二枚目、ホテル街での笑顔。
三枚目、ホテルへの入室。
並べられるたびに、義両親の表情が凍りついていく。
義母が口元を手で覆い、義父の顔が朱に染まった。
「な、なんだこれは……。美咲、なのか……?」
「はい。先週の金曜日、僕が残業している間に撮られたものです。相手は彼女の職場の同僚です」
俺は淡々と事実だけを告げた。
感情を込めない言葉は、怒鳴り声よりも深く突き刺さる。
「そ、そんな……まさか、あの子が……」
「恒一さん、これは何かの間違いじゃ……」
義母がおろおろと俺に縋るような目を向ける。
だが、すかさず剛が低い声で唸った。
「間違いじゃねえですよ。俺たちが見て、証拠も撮ったんですから」
剛の威圧感に、義母がビクリと肩を震わせて黙り込む。
義父は写真を見つめたまま、小刻みに震えていた。
恥辱と、娘への怒りと、俺たちへの申し訳なさがない交ぜになった震えだ。
「……すまない」
長い沈黙の後、義父が頭を下げた。
床に額がつくほどの土下座だった。
「娘の教育がなっていなかった。私の責任だ。本当に……本当に申し訳ない」
「ごめんなさい、恒一さん……ごめんなさい……」
老いた両親が、俺の前で頭を垂れている。
彼らに直接の罪はない。今まで俺によくしてくれた、善良な人たちだ。
胸の奥がチクリと痛む。
だが、俺はそれを「甘さ」だと切り捨てた。
ここで情けをかければ、美咲は必ずここへ逃げ込んでくる。
「親なら守ってくれるはずだ」と甘え、泣きつき、ほとぼりが冷めるのを待つだろう。
そんな逃げ道を、俺は許さない。
「頭を上げてください。謝罪が欲しいわけではないんです」
俺は冷徹に言い放った。
「ただ、事実をお伝えしに来ただけです。美咲さんは、僕の信頼も、家庭も、すべて壊しました。僕はもう、彼女を妻として見ることはできません」
そして、持参したもう一つの書類――記入済みの『離婚届』をテーブルに置いた。
ただし、まだ提出はしない。
これは宣戦布告の旗印だ。
「近いうちに、美咲さんはここに泣きついてくるでしょう。家には彼女の居場所をなくしましたから」
「そ、それは……」
「その時、決して彼女を庇わないでください」
俺は義両親の目を見て、はっきりと告げた。
「もし庇うようなら、お義父さんたちも『敵』と見なします。慰謝料の請求はもちろん、この写真を親戚中に配ることになるかもしれない」
「ッ!?」
義父が息を呑んだ。
脅しだ。卑劣な脅迫だ。
だが、これは戦争なのだ。
美咲が孤独になり、己の罪と向き合うまでは、誰一人として味方は作らせない。
「……恒一さん。君は、そこまでするのか……」
義父の目から、親愛の色が消え、畏怖の色が浮かぶ。
それでいい。
理解される必要はない。
「ええ。奪われたものの代償は、きっちり払ってもらいます。……復讐は感情じゃない。構造なんです。罪を犯せば罰が下る。その当たり前のシステムを、彼女の人生に構築するだけです」
俺たちは席を立った。
お茶は冷めきっている。
玄関を出る時、背後から義母のすすり泣く声が聞こえた。
その声は、美咲が家で上げていた泣き声とよく似ていた。
やはり親子だな、と俺は心のどこかで冷ややかに感想を抱いた。
外に出ると、夕焼けが空を赤く染めていた。
一つ目の退路を塞いだ。
「次は、一か月後だ」
俺は呟く。
これから一か月、美咲には「針の筵の自宅」と「事実を知った実家」の間で、地獄を味わってもらう。
精神が十分に摩耗した頃合いを見て、本丸――間男への攻撃を開始する。
「……恒一、お前、顔色が悪いぞ」
啓介が心配そうに言った。
俺は自分の頬を叩いた。
「大丈夫だ。まだ、終わってない」




