第2話「沈黙という制裁」
深夜二時。俺は静まり返った自宅の玄関をくぐった。
寝室からは、美咲の安らかな寝息が聞こえてくる。
不貞を働いた日でも、彼女はこうして平気な顔をして眠れるのだ。
その図太さに、以前なら呆れていただろうが、今は好都合だった。
俺は書斎に入り、コンビニで大量にコピーしてきた「あの写真」を取り出した。
さらに、パソコンを立ち上げ、以前美咲のスマホから抜き出しておいたバックアップデータ――新田翔太とのLINEのやり取りのスクリーンショットもプリントアウトする。
『翔太くん、大好き』
『旦那さん、今日も残業? ラッキーじゃん』
『早く会いたい。あの人のご飯作るの面倒くさいよ』
吐き気を催すような文面の数々。
俺はハサミとテープを手に取り、作業を開始した。
怒りはなかった。
あるのは、淡々とした事務作業の感覚だけ。
これから始まるのは、夫婦喧嘩ではない。
一方的な「処分」なのだから。
***
翌朝、六時半。
俺はいつものように起床し、リビングでコーヒーを淹れていた。
トースターがチンと鳴り、香ばしい匂いが漂う。
その日常の音に混じって、寝室から悲鳴が上がった。
「きゃあああああああっ!!」
けたたましい叫び声と共に、美咲がリビングに飛び出してくる。
彼女の顔は蒼白で、目は極限まで見開かれていた。
それもそうだろう。
彼女が目覚めて最初に目にした天井には、新田とホテルに入る瞬間の写真が貼り付けられていたのだから。
「こ、恒一……!? な、なにこれ……何なのよこれえぇっ!?」
美咲はパジャマ姿のまま、震える手でリビングの壁を指さす。
そこにも、写真。
テレビの画面にも、写真。
冷蔵庫の扉には、LINEのやり取りの拡大コピー。
リビングは、彼女の裏切りの証拠で埋め尽くされていた。
「誤解よ! 違うの、これ、合成写真か何かでしょ!? 信じないで、恒一!」
美咲が俺に詰め寄ってくる。その目には涙が浮かんでいた。
演技なのか、本気で焦っているのか。どちらでもいい。
俺は彼女の方を見ることなく、焼けたトーストにバターを塗り始めた。
「ねえ、聞いてるの!? 答えてよ! こんな悪趣味なことやめて!」
美咲が俺の肩を掴んで揺さぶる。
俺はコーヒーカップを置き、ゆっくりと彼女の手を見下ろした。
汚いものでも見るような、無機質な視線で。
そして、無言のまま、自分の肩から彼女の手を振り払った。
「っ……」
その拒絶があまりに冷たかったのか、美咲が息を呑んで後ずさる。
俺は一度も彼女と目を合わせない。
言葉も発しない。
ただ、目の前の朝食を咀嚼し、嚥下する。
まるで、この部屋に俺一人しかいないかのように振る舞った。
「恒一……怒ってるの? ねえ、怒ってるなら言ってよ! 怒鳴ればいいじゃない! なんで無視するのよ!」
美咲が泣き崩れる。
普段の俺なら、彼女の涙を見るとオロオロして慰めていただろう。
彼女はそれを知っている。だから泣くのだ。涙が武器になると信じているから。
だが、今の俺には雑音にしか聞こえない。
俺は食器をシンクに運び、軽く水ですすぐと、鞄を手に取った。
玄関に向かう俺の背中に、美咲がすがりついてくる。
「待って! 行かないで! 話を聞いて!」
俺は立ち止まり、靴を履く。
玄関の鏡には、新田と抱き合う美咲の写真が貼られている。
その鏡越しに、泣きじゃくる現実の美咲と目が合った。
俺は鏡の中の彼女に向かって、生理的な嫌悪感を隠さずに一瞥をくれ、そのままドアを開けた。
「恒一っ!!」
バタン。
重い金属音と共に、ドアを閉める。
鍵をかける音が、断絶の合図だ。
ドアの向こうから、何かが壊れるような泣き声が聞こえてきたが、俺は振り返らずに歩き出した。
まず一つ目。
安息の場所であるはずの「家」を、針の筵に変えた。
あの写真は剥がしても無駄だ。
俺が帰るたびに、何度でも貼り直す。彼女が精神的に擦り切れるまで。
駅へと向かう俺の足取りは、不思議と軽かった。
次は、彼女の逃げ場である「実家」だ。
「……さて、剛と啓介に連絡するか」
スマホを取り出し、俺は次のフェーズへと移行する。
復讐は、まだ始まったばかりだ。




