最終話「復讐の果てに」
引っ越しの段ボールが片付いたばかりの、新しい部屋。
以前のマンションよりも少し狭くなった1LDK。だが、空気は澄んでいた。
ここには、あの忌まわしい記憶も、染みついたカレーの匂いもない。
あるのは、新品の家具の匂いと、真っ白な壁だけだ。
俺はベランダに出て、缶ビールを開けた。
プシュッ、という軽快な音が、夜の静寂に溶けていく。
全てが終わってから、二週間が経った。
離婚は成立し、慰謝料の入金も確認した。
家は売却手続き中だが、立地が良いのですぐに買い手がつくだろう。その金でローンを精算し、残りは折半する手はずだ。
手元に残ったのは、三百万円の慰謝料と、独身という肩書き。
そして、少しの虚無感。
「……やりすぎだったか?」
夜景を見下ろしながら、ふと自問する。
新田翔太は職を失い、社会的な信用を失墜させた。妹や両親にまでトラウマを植え付けた。
美咲は精神を病み、実家という閉鎖された世界で、針の筵に座り続けている。
俺がやったことは、彼らの人生を再起不能に近い状態まで破壊する行為だった。
――いや。
俺は首を横に振り、ビールを煽った。
苦味が喉を通り過ぎていく。
あれは、必要だったのだ。
もし、中途半端に怒鳴って、少しの慰謝料で許していたらどうなっていただろう。
俺はずっと「被害者」という惨めな立場に甘んじ、彼らは「一度の過ち」として記憶を薄め、また笑って生きていただろう。
裏切られた側が泣き寝入りし、裏切った側がのうのうと生きる。
そんな理不尽を、俺は許せなかった。
だから、徹底的にやった。
彼らの記憶に、骨の髄まで恐怖と後悔を刻み込んだ。
「裏切りには、人生を棒に振るだけのリスクがある」と教え込んだ。
それは復讐であると同時に、俺自身が「尊厳」を取り戻すための戦いだったのだ。
ブブッ。
テーブルに置いたスマホが震える。
『LINE』の通知。
剛からだ。
『引っ越し落ち着いたか? 週末、啓介と飲みに行くぞ。祝いだ』
続いて、啓介からも。
『いい店を見つけた。お前の好きな日本酒がある』
ふっ、と口元が緩んだ。
俺は一人になったわけじゃない。
妻というパートナーは失ったが、損得なしに俺のために怒り、動いてくれる友人がいる。
それだけで、俺の人生は彼ら(裏切り者たち)よりも遥かに豊かだ。
『了解。楽しみにしている』
返信を打ち、俺はスマホを閉じた。
風が吹いた。
春の匂いがする風だ。
あの写真を見た時の、凍りつくような冬は終わったのだ。
胸の奥にあった重い鉛は、もうない。
空っぽになったかもしれないが、それはこれから埋めていけばいい。
新しい趣味、新しい仕事、もしかしたら新しい出会い。
この白い部屋のように、俺の未来は白紙だ。何を描くのも自由だ。
「……さて、明日も仕事だ」
俺は空になった缶を握り潰した。
美咲や新田が過去の罪に囚われて生きている間、俺は前を向いて歩いていく。
二度と振り返らない。
それが、俺のできる最後の、そして最大の復讐だ。
俺はベランダから部屋に戻り、窓を閉めた。
鍵をかける音は、もう「断絶」の音ではなく、「守り」の音に聞こえた。
俺の新しい人生が、ここから始まる。
(完)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
本作は、「もし絶対に許せない裏切りに遭ったとき、感情に任せるのではなく、冷徹にすべてを奪う復讐ができたらどうなるか」というテーマで執筆いたしました。
主人公の恒一が、最後は前を向いて新しい一歩を踏み出せたことに、作者としてもホッとしています。
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