第1話「裏切りの証明」
日常が崩れ去る音というのは、案外静かなものらしい。
ガラスが割れるような派手な音も、悲鳴も聞こえない。
ただ、水が一滴、水面に落ちるような静けさで、俺の世界は決定的に変質した。
「……恒一。落ち着いて、よく見てくれ」
新橋駅近くの個室居酒屋。
普段なら仕事の愚痴や野球の話で盛り上がるはずのその場所は、葬式のような重苦しい空気に支配されていた。
向かいに座る二人の親友、黒田啓介と沢村剛。
大学時代からの付き合いになる彼らが、これほど険しい顔をしているのを俺は見たことがない。
啓介がテーブルの上に、茶封筒を滑らせる。
中身を見る前から、俺の胃のあたりが冷たくなるのを感じていた。
剛はさっきから貧乏ゆすりを止めず、ジョッキの縁を指が白くなるほど強く握りしめている。
その視線は、俺ではなく、テーブルの木目を睨みつけていた。
まるで、俺の顔を見るのが忍びないとでも言うように。
「……なんだよ、これ」
俺の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「見ればわかる」
啓介の短く、だが有無を言わせない声。
俺は震えそうになる指先を意識して押さえつけ、封筒を手に取った。
中に入っていたのは、数枚の写真だ。
一枚目。
見慣れたコートを着た女性が写っている。
俺の妻、美咲だ。
隣には、俺より少し若そうな、背の高い男がいる。
二人は腕を組み、楽しそうに笑い合っていた。
美咲が俺に見せる笑顔よりも、ずっと甘く、とろけるような表情で。
二枚目。
場所が変わっている。派手なネオンサインの前だ。
男の手が美咲の腰に回され、美咲はその肩に頭を預けている。
看板には『REST』『STAY』の文字。
三枚目。
二人がその建物――ラブホテルの中へと吸い込まれていく瞬間。
「ッ、ふざけんなよ……!」
ダンッ! と剛がテーブルを叩いた。
個室の外のざわめきが一瞬遠のく。
「俺たちが先週の金曜、偶然見かけたんだ。見間違いかと思ったよ。でも、どう見ても美咲さんだった。だから……啓介が機転を利かせて、証拠を残した」
金曜日。
俺が急な残業で、帰宅が深夜になると連絡した日だ。
美咲からの返信は、『お疲れ様。ご飯先に食べて寝てるね』だったはずだ。
俺が会社で泥のように働いている間、彼女はこの男と、ホテルで肌を重ねていたのか。
「……男の名は、新田翔太」
啓介が淡々と、しかし残酷な事実を積み上げる。
「美咲さんのパート先の社員だ。まだ24歳。独身で実家暮らし。以前から噂はあったらしいが……これで確定だ」
情報屋のような冷静さを持つ啓介らしい仕事ぶりだった。
俺は写真をテーブルに戻し、深く息を吐いた。
怒り?
いや、違う。
体中を駆け巡ったのは、灼熱のような怒りではなかった。
もっと冷たく、重く、鋭利な感覚。
心臓が早鐘を打つのとは逆に、頭の中が急速に冷却されていくのがわかる。
ここ数ヶ月の違和感。
新しい下着が増えていたこと。
スマホを伏せて置くようになったこと。
俺との会話で、ふと見せる上の空な返事。
それら全てが「不倫」という二文字で繋がり、すとんと腑に落ちた。
ああ、そうか。そういうことだったのか。
俺は、裏切られていたのか。
平凡に、真面目に、家族のために生きてきた俺の人生を、彼らは嘲笑いながら踏みにじっていたのか。
「恒一、どうする?」
剛が身を乗り出してくる。
その目には、俺への同情と、裏切り者たちへの激しい怒りが宿っていた。
「弁護士を紹介するか? それとも、今すぐあの家に乗り込んで問い詰めるか? 俺もついて行ってやる。こんなこと、許されていいわけがねぇ!」
剛の熱さが、今は少しだけ心地よかった。
だが、俺の口から出た言葉は、彼らが予想したものとは違っていたようだ。
「……問い詰めないよ」
「はあ!? お前、まさか許すつもりじゃ――」
「違う」
俺は静かに遮った。
目の前にあるおしぼりで手を拭き、温くなったウーロン茶を一口飲む。
不思議なほど、味を感じなかった。
「今、感情に任せて怒鳴り込んでも、言い逃れされるか、逆ギレされて終わるだけだ。『寂しかった』とか『一度だけ』とか、そんなふざけた言い訳を聞かされるのは御免だ」
俺は写真の中の美咲を見る。
幸せそうに笑う彼女の顔が、今はただの「標的」に見えた。
「終わらせるよ。美咲とも、その新田という男とも」
「離婚、ってことか?」
啓介の問いに、俺は首を横に振った。
俺の中に生まれた黒い感情が、形を成していく。
それは、法律的な解決だけでは到底収まりきらない、もっと根源的な渇望だった。
「ただ離婚して、慰謝料をもらって終わり? ……そんな綺麗事じゃ済ませない」
俺は二人を見据え、はっきりと告げた。
「全部、奪う。家庭も、仕事も、社会的信用も。俺が味わった屈辱以上のものを、彼らの人生に刻み込んでやる」
俺の声は低く、震えてはいなかった。
啓介が少しだけ目を見開き、そして微かに口元を緩めた。
剛は呆気にとられた顔をしていたが、やがてニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「……そうこなくっちゃな」
平凡な会社員だった神谷恒一は、この夜、死んだ。
代わりに生まれたのは、冷徹な復讐者だ。
手始めに、家に帰ったらどうするか。
俺の頭の中では既に、残酷で完璧なシナリオが組み上がり始めていた。




