拝啓愛しい旦那様。私、妹扱いはいやなので実家に帰らせていただきます。
足元に散らばっているのは、旦那様が書いたと思われる、大量のラブレター。
でもこれは、私宛のものじゃない。
私はこんなにあなたを愛しているのに……あなたには、こんな手紙を残すほど想っているお方がいるのね……。
それならばもう、私が旦那様のためにしてあげられることはひとつしか残っていない。
私は、自室でペンをとった。
――拝啓、愛しい旦那様。
「私、実家に帰らせていただきます」
***
「――汝、健やかなる時も、病める時も、永遠の愛を誓いますか?」
抜けるような空の下、神父様の声が響く。
「はい。誓います」
私ははっきりと頷くと、となりに立つ最愛のひとを見つめた。
すうっと通った鼻に、切り立った頬。
この世でいちばん美しいと言ったって過言じゃないお方が、となりで柔らかく微笑んでいる。
やっと、この日が来たのね……!
私は感慨深く思いながら、この幸せを噛み締めた。
私の名前は、メリーベル・ヴィンヤード。
ヴァレンディア王国王都のヴィンヤード伯爵令嬢である。
そして――そんな私は今日、大好きなヴァロン様と結婚する。
ヴァロン様――ヴァロン・ロバート様は、八歳歳上の幼なじみで、今年二十八歳になる。
現在、宮廷で騎士団長とロバート伯爵家のご当主様を兼任されていて、結婚相手として申し分ないお方だ。
だけど、私は身分なんてそんなこと、どうだっていい。
幼い頃から憧れていたヴァロン様。
優しくておだやかで、ずっとずっと大好きだった。
ヴァロン様と結婚できるなんて、夢みたいだわ……!
ヴァロン様とは、いちばん上の兄の幼なじみとして知り合った。
兄と遊ぶために家に来ているにもかかわらず、いつだって私の相手をしてくれた優しいヴァロン様を好きになるのは、息をするより当然のことで。
十五歳の誕生日、私は父に頼み込んで、半ば強引にヴァロン様との縁談を組んでもらった。
そして、私たちの関係は『幼なじみ』から『婚約者』へと名前を変えた。
縁談から五年――。
今日は、私の二十歳の誕生日。そして、私とヴァロン様の結婚式当日だ。
「では、誓いのキスを」
い、いよいよきた……!
五年前から婚約者同士であるとはいえ、私がまだ未成年ということもあって、私たちは現在まで清らかな関係のままだった。
だけど、それも今日でおしまい。
ヴァロン様との初めてのキス……!
どきどき。
緊張が高まっていく。
ヴァロン様が、私の顔にかかったヴェールをそっと上げてくれる。すると、クリアな視界のなかでヴァロン様と目が合った。
ヴァロン様は、相変わらず私が大好きな優しい笑顔で私を見つめてくれている。
「ヴァロン様……」
「メリーベル。目を閉じて」
低い声で甘くささやかれ、私は言われたとおりに目を閉じる。
けれど、緊張のあまり、ぎゅっとまぶたに力が入ってしまった。
すると、
「ふふっ……」
「!」
頭上から、ヴァロン様の小さな笑い声が聞こえてきた。
笑われてしまったわ……!
恥ずかしい。これでは、緊張していることがバレバレだわ。
私だって、もう二十歳。結婚してからは、これまでのような妹扱いはされたくないのに……!
と、そう思っていた時、唇にやわらかいなにかがちゅっと触れた。
「っ……」
目を開けると、とびきり優しい顔をしたヴァロン様がいる。
「これから末永く、よろしくお願いします」
ヴァロン様が、私の腰を引き寄せて微笑む。
きゃぁぁあっ!!
し、幸せすぎて、死んでしまいそう……!!
私は、じたばたしたい気持ちをなんとか抑えて、こくこくと必死にうなずくのだった。
***
――そして、幸せな結婚式から早一年が経った。
私は今、街のカフェでお姉様とアフタヌーンティーを満喫している。
「……はぁああ」
席について早々、大きなため息を漏らす私に、お姉様が呆れた顔をした。
「メリーベルったら、新婚だというのになんて顔をしてるの」
お姉様が、ティーカップを手にしたまま言う。
「そんなこと言われても……」
ヴァロン様との関係のことを考えたら、ため息だってつきたくもなる。
結婚して一年も経つというのに、ヴァロン様は未だに私に手を出そうとしてくださらないんだから。
式当日からずっと同じベッドで寝ているのに、毎日何事もなく朝が来る。
宮廷での仕事が忙しいと言って帰りも遅いから、ほとんど顔を合わせることすらない。新婚なのに。
「まったく……あなたってば、本当にヴァロン様が好きなのね」
「それはそうよ!」
私は身を乗り出す。
「……想いは、私の一方通行みたいだけれど」
しゅんとして言うと、お姉様が苦笑してティーカップを置いた。
「そんなことないわ。ヴァロン様は昔からあなたにとびきり甘々だったもの。まるで、本物の兄妹のようだったわよ」
本当の兄妹の私たちが嫉妬するほどね、と、お姉様は口角をくっと上げながら言う。
「兄妹って……」
たしかにヴァロン様はいつだって私に優しかった。
でも、今は違う。
「私はもう大人で、ヴァロン様の妻。それなのに旦那様に妹扱いされるなんて、悲しいだけだわ」
でも、お姉様の言うとおりなのかもしれない。
歳が離れているせいか、それとも知り合った頃の私があまりにも幼女だったせいか、いまだにヴァロン様は私を小さな妹のようにあつかう。
「そんなに溺愛されておいて、なにが不満なの?」
「なにがって、それは……」
私はため息をつきつつ、「なんでもないわ」と返した。
いくらお姉様でも夫婦の内情は言えないわよね。
「……はぁ」
私はもう一度ため息をついて、自身の唇を指先でそっと撫でた。
「これなら、結婚する前のほうがずっと幸せだったかも」
そうぼやくと、お姉様が「こら」と、私の額をつんと小突いた。
「そんなこと言わないの。あなた、ロバート家との婚約のためにお父様がどれだけ尽力してくださったと思っているの?」
「……分かってるわ。お父様には感謝してる。もちろん、後押ししてくれたお姉様やお兄様にもね」
お父様は、私とヴァロン様の縁談を成功させるために、かなり尽力してくださったみたい。
それに、お兄様やお姉様たちの後押しがなかったら、きっとロバート伯爵家はヴィンヤード家との縁談を了承しなかっただろう。
でも……落ち込むなというのは無理だわ。
「ヴァロン様ったら、今夜も遅くなるから先に寝ててって言うのよ」
ぷんと頬をふくらませる私の態度に、お姉様は苦笑した。
「仕方ないわ。お仕事なんでしょ?」
「それはそうだけど……お仕事だとしても私は寂しいの」
なによりヴァロン様が、私と同じ想いじゃないかもしれないと思うと、不安で胸がつぶれてしまいそうになる。ひとりきりの夜なんて、特に。
「ヴァロン様のことだから、埋め合わせしてくれるわよ」
「……まぁ、今度の花祭りはいっしょに行くって約束してくれたのだけど」
そう言うと、お姉様はにっこりと笑った。
「ほらやっぱり。ちゃんと甘やかしてくれてるんじゃない」
「私は、甘やかしてほしいわけじゃないの! もっと夫婦らしくなりたいのよ」
白い結婚なんて望んでない。私は……。
唇を引き結ぶ私に、お姉様が言う。
「大丈夫よ。焦らなくても、夫婦っていうのは少しずつなっていくものなんだから。……きっと、ヴァロン様はまだ戸惑っているのだわ。ふたりはずいぶんな歳の差があるから」
「……歳の差のことを言われてしまったら、私はお手上げよ」
歳はどうしたって縮められない。そう告げると、お姉様が「あら」と首を傾げた。
「そんなことないわよ?」
「え?」
「あなたは原石。磨けばきっと光るわ」
私は、まばたきをする。
「……どうやって?」
「そうねぇ……」
しばらく考え込んだお姉様は、にこりと微笑み、言った。
「そうだわ。彼に頼みましょ! あなたの魅力をいちばん分かってるのは、家族以外なら彼しかいないもの」
「彼?」
「そう。 彼――クレイよ!」
私は目を見開く。
そうだわ……その手があったじゃない!
幼なじみのクレイは、私のことをだれより知っている人物。
「お姉様……ありがとう! 私、頑張ってみる!」
今度こそ、ヴァロン様に愛される妻になるために!
***
――その日の深夜。
仕事を終えたヴァロンが家に帰ると、愛する妻・メリーベルが出迎えてくれた。
「ヴァロン様、おかえりなさい!」
「ただい――」
いつものように健気に玄関まで出迎えてくれるメリーベル。しかしヴァロンは、妻のすがたを見て言葉を失う。
メリーベルは、ふだんはストレートの金色の長い髪を編み込んでいた。毛先はゆるくカールしていて、どことなく大人っぽい雰囲気だ。
「…………」
ヴァロンはいつもとはちがうメリーベルに息を飲む。
「……あの」
一方でメリーベルは、固まるヴァロンを不安げな顔で見上げる。
「……ど、どうでしょうか? その……気分転換に髪を巻いてみたんですが」
メリーベルは、頬をほんのり桃色に染めて、ちらっと上目遣いでヴァロンを見てくる。
「あぁ……」
髪型だけでなく、仕草までたまらなく可愛いんだが?
ヴァロンは今すぐ彼女を抱きしめたい衝動に駆られるが、ぐっとこらえてメリーベルの頭を撫でた。
「……すごく、似合ってると思いますよ」
努めて冷静な口調でヴァロンが言うと、メリーベルはパッと花が咲いたように笑った。
「本当ですか!?」
「えぇ」
「ふふっ……やった!」
うれしそうにガッツポーズをするメリーベル。つい、ヴァロンの頬もゆるむ。
「それはじぶんで編まれたのですか?」
ヴァロンがメリーベルの髪に触れながら訊ねると、彼女はほんの一瞬、目を泳がせた。
「あ……」
「?」
「いえ、えっと……これは、レティがやってくれました!」
レティが。それは意外だ。
レティとは知り合ってかれこれ十年ほどになるが、彼女は基本的に流行りというものに興味がなく、手先も不器用なほうだと思っていた。
「……そうですか」
ヴァロンは、メリーベルの様子に若干の違和感を感じながらも、それ以上追求はせずに笑顔を向けた。
「……それにしても、急にどうされたんですか?」
「あ、えっと……」
メリーベルは、ふだんから髪や肌は丁寧に手入れしている。だが、ほかの令嬢のように、派手なスタイルを好むような子ではない。
なにか心境の変化でもあったのだろうか?
メリーベルのこととなると、ちょっとした変化でもつい気になって、追求したくなってしまう。
ヴァロンがじっと見つめると、メリーベルはもじもじしながら、またもヴァロンを上目遣いに見上げた。
「その……おとなっぽくなりたくって」
「おとなっぽく?」
これまた急な話だ。
「……私とヴァロン様は、その……歳が離れてるでしょう?」
「……えぇ、そうですね」
「だから、ふたり並んだ時にも、兄妹に見えないように」
「……なんだ。そんなことを気にしていたんですか」
ヴァロンはふっと笑みをこぼす。
「そんなことじゃないです! 私にとってはすごく大事なことなんです……!」
メリーベルが、ムキになったように頬をふくらませてヴァロンを見る。
怒っていても可愛いとはなにごとだろうか。
「ヴァロン様?」
「……あぁ、いえ。すみません、そんなことだなんて言って」
ヴァロンは、メリーベルの頭をぽんと撫でた。
「そ……そうやって撫でてくれるのだって……私はうれしくないんですから!」
「え」
それは少し……いや、かなりショックだ。
ヴァロンはこれまで、ことあるごとにメリーベルの頭を撫でてきた。メリーベルが幼い頃から、ずっとだ。
ショックで固まるヴァロンを見て、メリーベルはハッとした。
「あ、いえ……嫌というわけではないのですが。その……妹扱いをされているような気がして……」
「……それは、失礼しました」
妹扱いというより、女の子扱いをしていたつもりだったのだが。乙女心とは難しい。
ヴァロンが手を離すと、メリーベルが言葉とはうらはらに寂しそうに見上げてくる。
……なんだろう。この可愛い生き物は。
ヴァロンは、もう一度メリーベルの頭に手を置く。すると、まるで気を許した猫のように、メリーベルはうれしそうに目を閉じた。
「……うれしくないんじゃなかった?」
ヴァロンが言うと、メリーベルがハッと目を開ける。
「う……うれしくない! わけではなくて……その、ごめんなさい。やっぱりうれしいです」
ヴァロンは笑いながら、メリーベルの頭を撫でた。
相変わらず、メリーベルの仕草はどんなときも可愛らしい。
メリーベルはさっき、妹扱いがいやだと言ったけれど、ヴァロンはメリーベルを妹扱いしているつもりはなかった。
むしろ、近頃はその横顔にハッとするほど大人びた様子を感じて、戸惑っていたくらいなのだ。
しかしメリーベルは、ヴァロンが日頃そんな思いを患っていることなど、まったく気づいていないらしい。
ヴァロンは、メリーベルの頭に置いていた手をそのままさらりと頬に落とす。
優しく頬を撫でると、メリーベルがぴくっとくすぐったそうに肩を揺らした。
妹扱いなど、もうとうの昔にできなくなっているというのに――。
「ヴァロン様……? あの」
メリーベルの紅潮した頬と潤んだ瞳に、ヴァロンはハッとして、弾かれたように手を引いた。
「……なんでもありません。それより、今日はもう遅いですから、先に休んでいてください」
ヴァロンが言うと、メリーベルは一度なにか言いたげに口を開く。しかし、メリーベルの口から出てきた言葉は、いつもと同じセリフだった。
「……はい。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
メリーベルを見送ったあと、ヴァロンはひとり執務室に入った。
***
「はぁ……」
ヴァロンはジャケットを脱ぎながら、ため息を漏らす。
メリーベルとは、知り合ってもう十年以上経つ。
出会った頃のメリーベルはまだ年端もいかない少女だったこともあり、つい最近まで兄妹のような関係性だった。
だが、そのことにヴァロンは今歯がゆさを感じている。
彼女に触れようとすると、罪悪感がヴァロンを襲うのだ。
ヴァロンはずっと、メリーベルにたいして兄のように接してきた。
そんな相手に突然女として見られたら、彼女が戸惑うのではないかと――そんな思いが過ぎってしまい、ヴァロンはどうしてもメリーベルに触れられない。
しかし、ヴァロンがメリーベルに気を遣う理由は、決してそれだけではなかった。
執務室に入ってしばらくすると、
「――旦那様、失礼いたします」
三度のノック音とともに、メイドのレティが入室してきた。
「本日の報告を、よろしいでしょうか」
「えぇ。お願いします」
ヴァロンは書類に目を通しながらうなずく。
「本日、奥様はお姉様のクローディア様とアフタヌーンティーを楽しまれました」
レティが事務的に一日のできごとを話していく。
ヴァロンは、レティにメリーベルの日中の行動の報告を義務付けている。
愛する妻が危険なことに巻き込まれないよう、守るためだ。
「お姉様とのティータイムのあとは、街のサロンで髪のケアをされました」
書類をめくっていたヴァロンの手が止まる。ヴァロンは顔を上げ、レティを見た。
「……サロンですか?」
「はい」
レティは無表情のまま、うなずく。
「メリーベルの話だと、ヘアアレンジはあなたにやってもらったと言っていましたが」
レティは表情を変えないまま、こてんと首を傾げた。
「いいえ。奥様は今日、クローディア様と別れたあと、突然サロンに行きたいとおっしゃいましたので、わたくしがお連れいたしました」
「どこのサロンですか?」
「クレイ様のところです」
「クレイ……」
ヴァロンは、苦いものを口に含んだ時のような心地になった。
――クレイ・ゴールド。
彼はメリーベルの幼なじみで、現在は親の跡を継ぎ、街で高級サロンを経営している。
昔からメリーベルと仲が良く、結婚前は毎日のように顔を合わせていたようだったが――結婚してからは、ヴァロンを気遣ってか、ほとんど会っていないようだった。
というのも、クレイはまだ結婚していないのだ。クレイが妻を娶らない理由は知らないが、メリーベルへの片想いをこじらせているという噂もある。
そういった噂をメリーベルが知っているかどうかは知らない。だが、今になってわざわざ会いに行くなんて……。
――いったい、どういう心境の変化だ?
だがしかし、そんなことよりも気になるのは。メリーベルがサロンへ行ったことをヴァロンに隠していることだった。
――俺に知られたくないと思った? ただの幼なじみに会いに行っただけなのに……?
ふだんの彼女なら、クレイに会ったらうれしそうに話すはずだ。良くも悪くも、素直な子だから。
ハッとする。
「……そういえば、今度の花祭りの主催って」
「街の商工会だったかと」
と、いうことは……。
「そういえば、当日はクレイ様もマーケットを出すらしいと、奥様が帰りの車でうれしそうにお話しておりましたね」
「…………」
花祭りに誘ったのはヴァロンのほうだ。
あまり交友関係が広いほうではないメリーベルを、少しでも楽しい場所に連れていきたかった。
だが、クレイも花祭りに出店するとなると話は別だ。
醜い嫉妬かもしれないが、夫としては、あまりメリーベルをあの男に会わせたくはない。
焦燥が、ヴァロンの胸を支配した。
***
数時間後、支度を終えたヴァロンが寝室に入ると、メリーベルは既にベッドのなかで寝息を立てていた。
めずらしく街に出たから、疲れたんだろう。
ヴァロンはメリーベルを起こさないよう、慎重にベッドに入る。
すやすやと眠るメリーベルの寝顔を見ていると、自然と表情がゆるんだ。
「……かわいい俺の奥さん」
ヴァロンは、メリーベルの髪にそっと触れる。
もっと深くまで触れたい欲が腹の底からふつふつと湧き上がってくるが、ヴァロンは必死に自身を制した。
金色のやわらかな髪がさらりと落ち、メリーベルの吐息が耳に触れる。
たったそれだけでも、強固にしたはずの理性が簡単に崩れてしまいそうになるのだから困る。
それなのに……。
この美しい髪を幼なじみであるあの男にも触れさせたのだと思うと、嫉妬でどうにかなりそうだった。
「……分かってますか? あなたはもう、俺のものなのなんですよ」
――たとえ、あなたが俺を愛していないとしても……。
***
ヴィンヤード家は、貴族の中では珍しく仲の良い家族だった。
伯爵夫妻は子供たちを心から愛していたし、夫婦仲も円満。
しかし、結婚となれば話はべつだ。
この時代、貴族の娘が政略的な婚姻を結ぶのはふつうのことであり、それは円満家庭のヴィンヤード家といえど例外ではない。
メリーベルとヴァロンの婚姻も、政略的なものにほかならなかった。
家での居場所がなかったヴァロンはもともと、ヴィンヤード家との縁戚関係を目論む父親の命で、ヴィンヤード家に近づいた。
父親は、メリーベルの姉のクローディアとヴァロンの縁談を考えていたようだが、あいにくクローディアには既に婚約者がいたため、やむなくターゲットをメリーベルに移した。
メリーベルとはずいぶんな歳の差があったが、政略結婚に歳は関係ない。ヴァロンはとにかく、ヴィンヤード伯爵夫妻に気に入られるように努力した。この婚姻を決めれば、父がじぶんを認めてくれる。そう信じて。
だが――
正直言って、ヴァロンはメリーベルのことが好きではなかった。
じぶんとは、あまりに違う境遇だったから。
愛されることになんの抵抗もなく、それどころか愛されることを当然だと思っているメリーベル。
無邪気にじぶんを慕ってくるメリーベルに、ヴァロンは笑顔の裏でいつもきらいだと吐き捨てていた。
じぶんは、存在価値を見せないと父に目すら合わせてもらえないのに――。
けれどその感情は、ある日突然真逆の感情へとひっくり返ることとなる。
ヴィンヤード邸に行ったときのことだ。
メリーベルが、庭の窓からこっそりと部屋に入る姿を見かけた。
ドレスは泥だらけで、髪飾りも壊れている。明らかに、他人に害されたようすだった。
もしかして、と、ヴァロンは思った。
――いじめられている? メリーベルが?
驚きのあまり立ち尽くしていると、となりに気配を感じた。
「おや。来てたのか、ヴァロンくん」
「! は、伯爵……!」
メリーベルの父親ヴィンヤード伯爵だ。ヴァロンは慌てて頭を下げる。
「……あの子はね、学校であまり上手くいっていないらしいんだよ」
「え……?」
あんなに溺愛している娘が汚された姿を見て、顔色ひとつ変えないヴィンヤード伯爵に、さらに驚いた。
「彼女がいじめられていること……知っていたんですか?」
「まぁな。だが、メリーベルは私たちにはいじめられていることを隠している。だから私たち家族は、知らないふりをしている」
「そんな……薄情では」
「メリーベルが助けを求めてくるなら応えるが、そうでないならしない。あの子にもプライドがあるだろうからな」
「…………」
そういうものなのだろうか。うちならともかく、こんなに仲の良いヴィンヤード家でも……?
「それに、あの子にはクレイがついてるから、最悪なことは起こらないはずだ」
「クレイ……? ゴールド家の幼なじみですか」
「あぁ。あの子は、良くも悪くもメリーベルにぞっこんだからな。使える子だよ」
「…………」
意外だった。
温厚だと思っていたヴィンヤード伯爵の裏の顔に驚くと同時に、メリーベルへの印象もひっくり返った。
……彼女のどこがおろかなんだろう。
本当におろかなのは、彼女の本質にずっと気づけなかったじぶんのほうだ。
だれにでも愛されていると思っていた彼女の内側は、不器用で、強がりで、繊細で。
笑顔ですべてを覆い隠して、必死に生きていたのだ。
ヴァロンは、泥まみれの彼女を見て、初めてだれかを美しいと思った。
この子を守りたい、と強く思った。ヴァロンにとっての初恋だった。
――しかし。
「時期が来たら、ゴールド家には縁談を申し込むつもりだ」
「え……」
ある日、伯爵にそう打ち明けられた。
「あの家は成り上がりだが、資産はある。メリーベルが苦労することはないだろうし、それに、あの男ならメリーベルを裏切るということもないだろうからな」
「…………そうですか」
このままではいけない。もっと気に入られなければ、クレイ・ゴールドにメリーベルがとられてしまう……。
ヴァロンはさらに努力した。
もう、父のためではなくなっていた。
そして、メリーベルが十五歳になった年、ヴァロンにとって念願のメリーベルとの縁談が持ち上がった。
父親には「よくやった」という言葉をひとことだけもらったが、ヴァロンは素直に喜べなかった。
***
ベッドに入ってしばらく経つが、ヴァロンは眠れそうになかった。
メリーベルの寝顔を見つめながら考える。
結婚してからずっと、メリーベルはなにかを堪えるような笑顔だった。
それはそうだろう。好きでもない男のそばにいるのだから。
では、今日晴れやかな顔をしていたのは、クレイに会ったから?
「……違うよね」
ヴァロンはたまらず、メリーベルの手をにぎる。すると、メリーベルは無意識にヴァロンの手を握り返してきた。
どうしようもない寂寥感と、愛おしさが胸の内側からあふれてくる。
「……愛してます」
メリーベルの吐息に触れて、妙な気分になるじぶんを戒めるように、ヴァロンは目を伏せた。
瞼の裏に、楽しげに話すメリーベルとクレイのすがたが過ぎる。
歳も近く、幼なじみだからか雰囲気も似ていて、しっくりくるふたりだ。
ニセモノの夫であるじぶんなんかより、よほど――。
***
――花祭りまで一週間を切った今朝のこと。
楽しみにしていた花祭りの約束が、なくなった。
『すみません、その日は仕事が入ってしまって……』
朝食中、ヴァロン様が申し訳なさそうに言った。
どうしても外せない仕事が入ってしまったらしい。
「……そうですか」
「申し訳ありません」
「……いえ、いいんです。お仕事のほうが大切ですから」
本当はすごく残念だけど……ヴァロン様は騎士団長。
お忙しい方なんだから、私との約束より仕事を優先するのは当然のこと。だから仕方ない。
そう言い聞かせ、私は強がって笑顔を作った。
「……お仕事、がんばってくださいね」
「ありがとうございます」
ヴァロン様だってきっと、顔には出さないだけで残念なはず。こんなことで落ち込んじゃいけないわ。笑わなきゃ。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
――けれどその日から、ヴァロン様は『仕事が忙しい』といって、ほとんど家に帰ってこなくなった。
そして、いよいよ花祭りが始まる前日の夜。
私はメイドたちの目を盗んで、ヴァロン様の執務室に入った。
ヴァロン様がいつも座っているソファに座り、目を閉じる。こうしていると、少しだけヴァロン様を近くに感じられる気がする。
このまま眠ったら、ヴァロン様と夢で会えるかしら……。
……なんて、バカみたい。
私たち、夫婦なのに……どうしてこんなに距離を感じるの?
暗闇のなかで微睡んでいると、ふっと窓の外に人影が見えた。
ま、まずい……!
もし、家のひとに私が執務室にいることがバレたら、きっと怒られてしまう。
ひとまず隠れようと、執務机の下にもぐる。
その時だった。勢い余って、引き出しにドレスを引っかけてしまった。
引っかかったドレスをひっぱった拍子に、引き出しが半分ほど開き、奥にあった小さな小箱が音を立てた。
……なにかしら?
小箱を取り出し、蓋を開ける。
そこにあったのは、大量の手紙だった。
宛名はないけれど……こんなにたくさん、いったいだれに……?
困惑しつつ、気になってなかをのぞく。そして、すぐに後悔した。
『あなたを、お慕いしております――』
『――今すぐにでも会いたい』
『あなたが恋しくてたまらない――』
『いつか、あなたと結ばれることができたなら――ぜったいに幸せにしてみせるのに』
……これ、恋文だわ。
手紙の内容は、すべてが愛しい人へ宛てたもの。焦がれるような、苦しくなるほどの愛がそこにはつづられていた。
……そういうことだったのね。ヴァロン様が、私に興味を示してくださらない理由は。
私は……ヴァロン様にとって、邪魔な存在だったんだわ。
私はこんなにも好きなのに……彼にとっては、そうじゃなかった。
今回の花祭りも……もし約束していたのがこの方だったら、きっと無理してでも時間を作ったんでしょうね……。
そう思うと、気分がこれ以上ないくらいに沈んだ。
それでも、ヴァロン様は私の前ではいつだって誠実だった。
優しく甘やかしてくださった。
もっともっといっしょにいたい。でも――いつまでも甘えてたら、ヴァロン様はずっと苦しいまま……。
今だって、私の前ではおだやかに微笑みながら、こんなふうに手紙に想いを封じ込めて、じぶんの気持ちを誤魔化してる。
――これまで、ヴァロン様にはたくさんの愛をもらったもの。これ以上ヴァロン様に甘えちゃいけないわ。
翌日、私は起きてすぐ荷物をまとめた。
メイドたちに礼を伝え、出ていく意志を告げる。
「みんなには感謝しかないわ。これまで拙い私を導いてくれて、私に妻としての矜恃を教えてくれて本当にありがとう。これからもどうか、ヴァロン様をよろしくね」
メイド長であるレティには最後まで引き止められたものの、私の意思は変わらなかった。
――この恋から、身を引く。
覚悟は決めたものの、脳内は未練でいっぱいだ。
歩きながら、次の曲がり角からヴァロン様が現れないかな。うまい具合に、なにかを聞きつけて引き止めに来てくれないかななどと、有り得ないことばかり願ってしまう。
けれど、似たような気持ちをヴァロン様もずっと抱いてきたのよね……。
それなのに私は、これまですっかりヴァロン様に甘えて。今でも、別れたくないなんて思ってる。
……なんて自分勝手でひどい妻なのかしら。
こんなんじゃ、疎まれて当然だわ。
「……さよなら、私の大好きな人」
私は、長かった初恋に別れを告げた。
***
実家に帰った私は、自室に引きこもり涙が枯れるまで泣いた。
その翌朝。部屋の扉が鳴った。
「……メリーベル、俺だ。入ってもいいか?」
クレイの声だった。
おおかた、お姉様が連絡したんだろう。
お姉様は、なにかというとクレイを召喚するクセがある。
お兄様とケンカした時も、このあいだヴァロン様との仲が上手くいっていないことを話した時もそうだ。
クレイのサロンで美しくしてもらいなさいと助言をされた。
「メリーベル、入るぞ」
返事をせずにいると、クレイは扉を開けてベッド脇までやってきたようだった。
私は、ベッドのなかに潜り込んだまま、ぎゅっとさらに縮こまる。
「……なぁ、また元気なくしてるんだって? それならさ、サロンに来いよ。また可愛くしてやるからさ」
「……行かない」
私は涙声でそう返す。
「なんでだよ?」
「……だって、もうきれいにしても、褒めてくれる人はいないもの」
呟くと、また涙が出てきた。
「……そんなことないだろ」
「あるよ。私、ヴァロン様と離縁したの。だから、もう私をきれいだなんて言う人はいないわ」
「……俺が言ってやるよ」
「え?」
「俺が言ってやる。可愛いって。何千回でも、何万回でも。もういいって言われても、言い続けてやる」
もそもそとシーツのなかから顔を出すと、ベッド脇の椅子に座っていたクレイと目が合った。
「ひでー顔」
「うるさいな」
ムッとしながら返す。
「でも、もう泣いてはいないな?」
優しい声だった。
「……クレイが変なこと言うから」
「俺のせいかよ」
幼い頃からずっと一緒に過ごしてきたクレイ。私にとっては、もうひとりの兄のような存在。
「……ありがとう、クレイ」
クレイは優しく微笑むと、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「うし。それじゃ行くか」
「……どこへ?」
「決まってんだろ。花祭りだよ」
「……花祭り……」
「もともと今日は花祭りに誘おうと思ってたんだよ。行けなくなったって聞いてたから」
「でも……」
「こんなとこで泣いててもつまんねーって。ほら、さっさと用意しろよ」
私は泣きべそのままもそもそと起き上がり、身支度を始めた。
気分は最悪だが、花祭りは興味がある。
本当はヴァロン様と行きたかったけれど……。
じわりと視界が滲む。
また涙がぶり返しそうになり、私はぶんぶんと首を振った。
いつまでも泣いていても始まらないし、前を向かなきゃ。
今はまだ苦しくて胸が張り裂けそうに痛いけれど、ヴァロン様はどこかに行ってしまったわけではない。お互いが生きている以上、会おうと思えばいつだって会うことはできるのだ。
たとえ、それが現実的なことではないとしても。
***
街に出ると、華やかな音楽と色鮮やかな花々があふれていた。
「なかなか壮観だな」
「……そうだね」
少し前まで、このイベントにヴァロン様と来ようとしていたことを思うと複雑な気持ちになる。
しばらく無言のまま、活気のあるマルシェを歩いた。
「……それで、突然離縁だなんて、なにがあったんだ?」
となりを歩きながら、クレイが訊ねてきた。
「……それは……」
かいつまんで事情を話すと、クレイは眉を寄せて、「そんな男、さっさと別れちまえ」と憤慨した。
「結婚しておきながら、ほかの女にうつつを抜かすなんて許せねぇ」
「ちょっと、口が悪いよ」
縁談を申し込んだのはヴィンヤード家のほうだし、ヴァロン様はこれまでずっと、ほかに好きな人がいながらも誠実な夫を演じてくれていた。
「ヴァロン様はなにも悪くない」
「……悪いだろ」
ぽつりと静かに吐かれた言葉に、私は顔をあげる。
「……クレイ?」
「俺なら、おまえにそんな顔ぜったいにさせない」
「え――」
聞き返す間もなく、クレイに抱きしめられた。ハッとする。
「クレイ、放し……」
「俺は、おまえが好きだよ」
息がとまる。
――今、なんと言った?
「俺は、メリーベルが好きだ」
クレイの言葉は、言葉としてすんなりと頭に入ってこない。抱きしめられたまま立ち尽くしていると、不意に私の顔に影が落ちてきた。
キスされると分かっているのに、逃げられない。
もし……もしクレイを受け入れたら、私は。
どうなるのだろう?
楽になる?
ゆっくり、唇が触れ合おうとしたその時だった。
「……なにしてるんですか」
ハッとして、声がしたほうを見る。
そこには、見たことがないほど険しい顔をしたヴァロン様が立っていた。
「……ヴァロン……様……」
我に返った私は、慌ててクレイから離れる。
「これはいったい、どういうことなんでしょうか?」
ヴァロン様は、静かに怒っていた。
***
「……で?」
花祭りの会場でヴァロン様と出くわしたあと、私はクレイと引き離され、ロバート邸に連れ戻されていた。
空気はぴりぴりしている。
気まずい……。
「突然離縁したいとは、どういうことでしょうか?」
ヴァロン様の声は、いつもより冷たい。
「……まさか、あなたが浮気をするなんて思いもよりませんでした」
「ちがっ……そんなことしてません!」
どうやらヴァロン様は、私がクレイと浮気をしたと思っているみたいだ。
慌てて否定するけれど、ヴァロン様は険しい顔のまま。
どうしよう……。
ヴァロン様は怒りを鎮めるように、ゆっくりと息を吐く。怒っているのは明らかだった。
でも、どうして?
私が別れたいと言ったら、喜んで別れてくれるものと思っていたのに……。
「……浮気じゃないなら、なぜ彼とふたりで? 俺にはふたりが、まるで恋人同士のように見えましたが」
恋人同士、と言われ、ずきんと胸が痛む。
「……クレイはただ、私を心配してくれただけです」
おそるおそる言い返すと、ヴァロン様は「そう」と目を伏せた。
「……大好きなクレイとの花祭りは楽しかったですか?」
「どうしてそんなこと……」
とうとう泣きそうになり、私は必死に奥歯を噛んで涙をこらえる。
その瞬間、ヴァロン様が私を強く抱き締めた。
「!」
驚く私に、ヴァロン様が言う。
「……あなたは、まだロバート家の夫人なんですよ」
分かっている。だから、離縁しようとしたのだ。ヴァロン様を自由にするために……。
「離縁なんてしません。あの男にあなたは渡さない」
――え?
「……あの、ヴァロン様……?」
これは、どういうことなの?
ヴァロン様は私と別れたかったはずじゃ……。
口を開こうとするも、ヴァロン様がさらに強く私を抱き締めてきて、上手く声が発せない。
「……言い訳なんて聞きませんよ」
「あ、あの、ヴァロン様。お願い……聞いてください」
半ばなだめるようにお願いすると、ヴァロン様がゆっくりと私を放した。見上げると、ヴァロン様はうなだれたように私を見下ろしている。
な、なんだかヴァロン様が可愛い……!?
「……そんなに好きなんですか。彼が」
「え?」
「俺を裏切ることに、少しも罪悪感を覚えなかったんですか? 俺だって、あの男に負けないくらいあなたを愛してるのに……」
「!」
想いを吐き出したヴァロン様は、私の肩に顔をうずめる。
私は、ヴァロン様の告白に呆然としていた。
うそ……。
ヴァロン様が、私を好き?
じゃあ、あの手紙は?
宛名はなかったけれど、あれはたしかに恋文だった。あれは、なんだったの?
しばらくして、私が固まっていることに気づいたヴァロン様がゆっくりと身体を放す。
「……す、すみません。つい動揺してしまって……苦しかったですか?」
慌てたように謝罪してくるヴァロン様に、いつものような大人の余裕はない。
「あ、いえ……」
私はヴァロン様をぼんやりと見上げた。
「……メリーベル?」
「あの、それよりヴァロン様……今、愛してるって言いましたか?」
「――は?」
ヴァロン様は困惑顔で私を見下ろしている。
「すみません。だって……信じられないんです。ヴァロン様が、私を好きだなんて……」
どうしよう……。
もし、聞き間違いだったら、今度こそ泣いてしまいそうだ。
私はドレスをぎゅっと握りしめる。頭のなかはパニック状態だった。
「……あの、メリーベル? どうしてそんなに驚くんです?」
「だ、だって……ヴァロン様には、ほかに好きな人がいると思って……だから私、悲しいけど身を引かなきゃって」
言いながら、やっぱり泣きそうになる。
「は? 俺が……? 有り得ません! だって俺は、ずっと前からあなたのことが……」
好きなのに!と、ヴァロン様はそう言った。
「な、ならどうして、私に触れてくださらなかったのですか!?」
私は思わずヴァロン様に詰め寄る。
「それは……俺たちは政略結婚でしたから、あなたのほうが嫌がると思い……すみません。気遣っていたつもりだったんですが……」
うそ。そんな理由?
信じられない。ヴァロン様はずっと、私を気遣って下さってたなんて……。
「……で、でも、じゃああの手紙は!?」
「手紙?」
「見てしまったんです、執務室の棚に、その……恋文を」
うつむきながら言うと、ヴァロン様はバツが悪そうに首の後ろを掻いた。
「あれは」
その表情に、やっぱりあの恋文はヴァロン様が書いたものなのだと察する。
「あれは……全部、あなたに向けたものです」
「…………え?」
耳を疑った。
「言ったでしょう。婚約する前から好きだったと」
「で、でも……私、あんな手紙もらったことないし、宛名だって……」
「出せるわけがありません。俺はずっと、あなたを騙していたんですから」
「……え?」
ヴァロン様は姿勢を正すと、意を決したように私を見て言った。
「メリーベル。俺はずっと、あなたに隠していたことがあります」
「隠していたこと……ですか?」
ヴァロン様はうなずくと、私に言った。
「俺はもともと――孤児だったんです」
***
もともと孤児で、孤児院で暮らしていたヴァロン様は、ある日たまたま視察に来ていたロバート伯爵の目に留まり、その美貌と剣の腕を買われて養子となった。
元孤児のヴァロン様と、令嬢である私では身分が違う。
そのため、ヴァロン様は婚姻後もずっと生い立ちのことを打ち明けることができずにいたという。
ヴァロン様は真実を打ち明けると、深く腰を折った。
「今まで黙っていて、申し訳ありませんでした」
「そんな……顔をあげてください、ヴァロン様。私は、ヴァロン様がどんな身分であろうと気にしません」
それに、ヴァロン様の方から結婚を申し込んでくれていたなんて、知らなかった……!
同じ気持ちだったということが、私は嬉しくてたまらない。
「いえ、そういうわけにはいきません」
「え……」
「身分を知られてしまった以上、あなたからの離縁の申し出はお受けします。俺のような身分のものは、あなたにはふさわしくないから」
そんな……!
「っ……待って……!」
たしかに私は、ヴァロン様に離縁を申し込んだ。だけどそれは、ヴァロン様に好きな人がいると思っていたからだ。
ヴァロン様が私を好きでいてくれていると知った今は、ぜったいに別れたくない……!
「いずれこんな日が来ることは分かっていました。それでも……どうしてもあなたを手放したくなくて……こんな悪あがきをしてしまった」
「ヴァロン様、お願い。待って」
私はヴァロン様の手を引く。
「初めは父に認められたくて、そのためにあなたを利用していました。……ですが、あなたを知れば知るほど、愛おしさがあふれて……好きで好きでたまらなくなって」
「…………」
「あなたとの縁談が持ち上がったときは、死ぬほどうれしかった。たったの一年でしたが……ありがとうございました」
「そんなの……」
そんなの、私は……。
「――いやです!」
私は、ヴァロン様に抱きついた。
「私、うれしかったんです。ヴァロン様が私を好きって言ってくださって」
「……メリーベル」
「私、もう諦めません。二度と、ヴァロン様を離しませんから!」
まるでわがままっ子のように言う私に、ヴァロン様はやがて諦めたようにふっと息を吐くように笑った。
「いいんですか? あなたが憧れていた俺は、正当な伯爵位も血筋もない、ちっぽけな人間なんですよ?」
「だからなんですか」
「……」
「安心してください! 私が養って差し上げますわ!」
つまり、なにが言いたいかというと、である。
「ヴィンヤード伯爵令嬢を甘く見ないで……!」
胸を張って言うと、ヴァロン様がふっと吹き出して笑い出した。
「まったく、あなたって人は……」
呆れたように呟いたあと、ヴァロン様は言った。
「最高の奥さんだ」
そして、ヴァロン様は私を強く抱き締めた。
それが痛いほどうれしくて、私も負けじとヴァロン様にぎゅうっと抱きつく。
「私も大好きです! ヴァロン様」
「っ……!」
ヴァロン様はほんの一瞬驚いた顔をしながらも、私を真っ直ぐに見つめて言った。
「……そんなことを言われたらもう、二度とこの関係を違えませんよ?」
「望むところです」
「本当に……本当にいいんですか?」
「はいっ! もちろん!」
私は、最大の笑顔で頷いた。
「いいお返事です」
ヴァロン様は崩れたように笑うと、私をもう一度強く抱き締めた。




