離縁された公爵夫人は図書館長として第二の人生を満喫したい
王都の外れにある古びた煉瓦造りの建物の前で、私は立ち止まった。
白い息がふわりとほどけていく。冬の終わりだというのに、風はまだ冷たい。
けれど、胸の奥は不思議と静かだった。
(今日から、私はここで生きていく)
王立図書館サード・ブランチ──通称「はずれ分館」。
街の誰もがそう呼んで憚らない、小さな図書館。そこが、三日前に離縁されたばかりの元公爵夫人である私、クラリッサ・アーデルハイトの、新しい職場だった。
ドアの上に掲げられた銘板は、風雨に晒されて文字がかすれている。
「王立図書館第三分館」と辛うじて読めるが、金の箔はほとんど剥がれ落ちていた。
「……少しは、ましになったかしら」
思わず小さく笑う。
初めてここを訪れたのは昨日だった。
総館長に連れられて顔合わせと簡単な打ち合わせをし、その帰り際に、あまりにもひどい銘板の状態が気になって、雑巾を借りてざっと磨いたのだ。
今朝は出勤して早々、昨日の続きとばかりに磨き上げた。
そのせいで、ところどころ地金まで露わになってしまった気もするが、少なくとも、埃と蜘蛛の巣まみれだった頃よりは、だいぶましだ。
そう、私はこの図書館の「館長」に任命された。
公爵家を離れた後、王立図書館の総館長が示してくれた奇妙な好意のおかげで。
──クラリッサ公爵夫人。あなた、数字と紙の管理にかけては右に出る者がいないと、各所で評判ですよ。
離縁の手続きが終わったその日に、ひょっこり現れた老総館長は、そう言って笑ったのだ。
──夫人、失礼。元・夫人、でしたかな。
もし行き場にお困りなら、ひとつ提案があります。“はずれ分館”の立て直しを、あなたにお願いしたい。給与は高くはありませんが、住居付きです。
行き場──。
離縁された時点で、私には「実家」と呼べる場所はほとんどなかった。アーデルハイト公爵家に嫁ぐ際、家門の格に耐えられなかった旧姓の家は、既に別の貴族に吸収されている。
前夫であるルドルフ公爵は、「いつでも戻ってきていい」と言い残してくれた。
だが、あれは優しさであって、本気で戻るべき場所だとは私には思えなかった。
(お互いに、別の道を選んだのだもの)
夫婦仲が冷えきっていたわけではない。
むしろ、私たちは「良き共同経営者」だった。公爵家の財政管理、領地経営、社交の調整。私は淡々とこなし、彼は淡々と信頼してくれた。
──だが、愛しているのは誰かと問われれば、きっと彼は別の名を挙げただろう。
彼には幼い頃から想っていた令嬢がいた。
けれど、その令嬢の家門は弱く、公爵という立場からどうしても婚姻は難しかった。
だから彼は、「政治的に正しい相手」として、私を選んだ。
私は、それを恨んではいない。
最初から、互いに「愛情ではなく役割のための結婚」であると理解していたのだから。
ただ、十年も共に過ごすうちに、彼の中で抑えていた想いが、どうしようもなく膨らんでしまったのだろう。
そして──私自身もまた、「このまま公爵夫人という役割だけを続けて終わるのか」と、自分の中に燻る違和感に気づいてしまっていた。
だから、離縁を切り出されたとき、私は驚かなかった。
──クラリッサ。君には、もっと別の人生があるのではないかと思う。
──今さらそんなことを言うのね、公爵様。
──……済まない。君を縛っているのは、私のほうだと、ようやく自覚した。
その顔は、十年間見慣れた穏やかな表情のままだった。
私は静かに頷き、条件の交渉を始めた。慰謝料、名誉、部屋に残した本の一部。
淡々と、公爵夫人として最後の仕事を終えた。
そして今、私はここにいる。
「さあ、館長。お仕事の時間ですよ」
自分に言い聞かせるように呟いて、私はドアを押した。
◆ ◆ ◆
第三分館の内部は、思っていた以上に静かだった。
高い天井から吊るされた魔導灯は、半分ほどが点いていない。
古い木製の本棚が、長い年月の埃をまとって並んでいるが、ところどころ棚板が歪み、本が傾いている。
入口近くのカウンターには、若い娘が一人座っていた。
栗色の髪をひとつに結んだその娘は、私を見るなり椅子から飛び上がった。
「お、おはようございますっ! 館長さま!」
「おはようございます。昨日も今日も、そんなに跳ねなくてもいいのよ」
思わず口元が緩む。
彼女の名前はミーナ。第三分館の唯一の常勤職員であり、私にとって最初の部下だった。
「だって、まさか本当に館長がいらっしゃるなんて、最初は夢だと思ってたんですもの。私がここに来てからは、館長席、ずっと空席でしたから」
「“館長席が空席”という状況は、あまり望ましいものではないわね」
「ですよね! でも、総館のほうも人手が足りないらしくて、『はずれ分館には、とりあえず司書一人で』って……」
ミーナは口を尖らせて肩をすくめた。
「だから、館長が来るって聞いたとき、『総館がとうとうこの分館を閉める気になって、最後の片づけ役として誰か送り込まれるんじゃないか』って噂まで立ったんですよ」
「閉館……」
嫌な単語に、私は眉をひそめた。
確かに、この分館の現状は、褒められたものではない。蔵書の整理は進んでおらず、利用者も少ない。
王都の中心部にある第一分館、第二分館に比べれば、ここは「採算の合わない場所」と見なされても仕方がないかもしれない。
けれど──。
「総館長は、『立て直してほしい』と仰っていたわ。少なくとも、すぐに閉めるつもりはなさそうよ」
「ほ、本当ですか?」
「私としても、“閉館作業のためだけに”ここに来た覚えはないもの。せっかく与えられた場所なら、ちゃんと生かしたいわ」
そう言うと、ミーナの顔がぱっと明るくなった。
「よかったぁ……! ここ、古くてボロいですけど、いいところもいっぱいあるんですよ。
大通りから外れてるから、じっくり本を読みたい人には落ち着くって言われますし、古い蔵書も残ってますし……」
彼女の言葉は、決して誇張ではない。
昨日、初めて館内を一巡りしたとき、私はいくつかの棚で目を見張った。
古い王朝時代の地誌。
地方の小さな村で編纂された民謡集。
既に絶版になって久しい、小説家崩れの貴族が自費出版した回想録──。
第一・第二分館には、確かに華やかな最新刊が並ぶ。
だが、この第三分館には、「忘れられた宝物」が静かに眠っているように感じられた。
(ここを閉めるなんて、惜しすぎる)
その思いが、胸の奥からじわりと広がる。
「ミーナ、今日は何人くらい利用者が来そうかしら?」
「えっと……いつもなら、午前中はほとんど来ないんですけど、午後には近所の子どもたちが五人くらい、それから、夕方に常連のご婦人が一人か二人……っていう感じです」
彼女は指折り数えながら答えた。
数字としては心許ない。
だが、いきなり何十人も押し寄せられても、この状態の館内では対応しきれないだろう。
「今日は、午前中は蔵書の棚卸しと、館内の配置の把握に使いましょう。
午後は、子どもたちが来る前に、児童書の棚だけでも整理したいわね」
「はいっ!」
ミーナが元気よく返事をする。
その声を聞きながら、私はカウンターの内側に回り、館長用の机に座った。
机の引き出しには、古びた鍵束と、使いかけのインク瓶、それから分館の帳簿が一冊突っ込まれている。
表紙には、「王立図書館第三分館 予算決算帳」と手書きで記されていた。
「……まずは、あなたの中身を知るところからね」
私はそう呟き、帳簿を開いた。
◆ ◆ ◆
公爵夫人としての十年間、私は資産と数字に囲まれて生きてきた。
膨大な領地の収支を管理し、季節ごとの税収と支出を調整し、宴の予算と人件費をやりくりする。
それは「華やかな夫人」というイメージからは程遠い仕事だったが、私には性に合っていた。
数字には嘘がつけない。
誰かが何かをごまかそうとしても、それは必ずどこかの桁に歪みとなって表れる。
それを見つけて正す作業には、妙な充実感があった。
第三分館の帳簿を開いたとき、その感覚が久しぶりに蘇った。
「ミーナ、この帳簿、普段は誰がつけているの?」
「えっと、それは……前の、前の館長がつけていたらしいんですけど、その方がご病気で辞められてからは、総館の事務方が年に一度まとめて書いているみたいで……」
「年に一度」
私は思わず瞬きをした。
帳簿には、確かに年に一度、数行ずつの記録がある。
「書籍購入費」「魔導灯維持費」「建物修繕費」「人件費」──どれもざっくりとした額が書かれているが、細目はほとんど抜けていない。
「普段の細かい支出は?」
「ここの小さな出費は、総館の方から渡された封筒の中のお金を使ってて、領収書をまとめて送るようにって言われてます。でも、どういうふうに計上されているかは、私には……」
「なるほどね」
私は帳簿の端に指を滑らせながら、頭の中で数字を組み立て直した。
予算規模は、公爵家のそれに比べれば小さなものだ。
だが、それでも毎年それなりの金額が、「ここ」に割り当てられている。
──これだけの予算を使っているのに、棚はこの状態で、魔導灯は半分しか点いていない。
どこかで無駄が出ているか、あるいは本来ここに回るべきものが別の場所に流れている可能性がある。
(今の私には、“姑息な細工”を見逃す必要はないわね)
かつての生活なら、「家のため」「家門の都合」が優先された場面だろう。
だが、今、私は「どこの家門の誰でもない」。
第三分館の館長として、この場所を守ることだけを考えていればいいのだ。
「ミーナ、倉庫の鍵を貸してくれる?」
「はいっ。えっと、これと……あ、この大きいのもです」
彼女から鍵束を受け取り、私は帳簿と一緒に立ち上がった。
「どちらへ?」
「数字の合わないところには、たいてい物が隠れているの。
倉庫の中身を見れば、この分館がどんな使われ方をしてきたのか、少しは見えてくるはずよ」
「さ、さすが館長……!」
目を輝かせるミーナに、私は軽く苦笑した。
「大したことじゃないわ。ただの、癖よ。数字と倉庫を覗きたくなるのは」
◆ ◆ ◆
第三分館の倉庫は、館の裏手にあった。
重い扉を開けると、ひんやりとした空気と、紙と木の混ざった匂いが鼻をくすぐる。
壁沿いの棚には、古い書類箱や予備の備品が積まれていた。
「ここ、私、一人じゃあまり奥まで片づけられなくて……」
後ろからついてきたミーナが、申し訳なさそうに言う。
私は無言で棚を見回し、箱のラベルを読み始めた。
「“古い図書目録”“前年度決算書類(写し)”“予備魔導灯水晶”“予備椅子部材”……」
そこまでは、普通だ。
だが、その横に積まれている箱に書かれた文字を見たとき、眉がぴくりと動いた。
「“未使用書架金具(使用禁止)”“返却不要書物”……?」
「それ、総館の方が持ってきた箱です。『ここに入れておいてください』って」
「……“返却不要”というのは、どういう意味かしらね」
箱の蓋を開け、中身を覗く。
そこには、まだ十分に使える魔導灯の水晶や、ほとんど新品に見える椅子のクッションが詰め込まれていた。
他の箱も開けると、同じようなものが出てくる。
どう見ても「不要」とは言えない備品が、「ここに置きっぱなし」にされていた。
(なるほど。ここは、“余剰物資の置き場”にされていたわけね)
総館や他の分館で出た「余り物」を、この第三分館に運び込み、「使われている」ことにして帳簿に計上する。
実際には、ここは半ば倉庫として使われているだけ。
……そうすれば、紙の上では予算が消化されたことになり、どこか別の場所で浮いた分を流用できる。
(公爵家の中でも、似たようなことはあったわね)
私は苦笑した。
貴族も役人も、人間である以上、数字をごまかしたくなる誘惑には抗えないことがある。
だが、その結果生じるひずみは、どこかに必ず溜まっていく。
今、そのひずみが溜まっている場所が、この第三分館なのだ。
「ミーナ、この箱の中身、どれくらい前からあるか分かる?」
「えっと……私がここに来たのが三年前なんですけど、そのときにはもう……」
「三年以上」
私は帳簿に視線を戻した。
箱に貼られた小さな札に、かすれた字で年度が記されている。
そこには、五年前、六年前といった数字も含まれていた。
「ということは、“ここに計上されている支出”の一部は、“実際にはこの分館のために使われていない”可能性が高いわね」
「ど、どういう意味ですか?」
「簡単に言えば、“第三分館の予算”という名目で出されたお金が、別の場所の足しにされている。
その代わりに、ここには“余り物”が送りつけられて、“使ったことにされている”」
ミーナが目を丸くする。
「そ、そんな……! じゃあ、この分館は……」
「“予算を削りやすい場所”として扱われてきたのかもしれないわね。
実際、利用者が少なくて、閉館しても誰も困らないと判断されれば、“数字の上から消す”には都合がいいでしょう」
口に出してみて、改めてこの分館の危うさを実感した。
総館長が「立て直してほしい」と言ったのは、単なる善意ではないのかもしれない。
おそらく彼は、既にこの状況に気づいている。
そして、「このまま放置すれば、この分館は本当に閉められてしまう」と危惧しているのだろう。
(ならば、やるべきことははっきりしている)
私は倉庫の中身を頭の中で分類しながら、静かに息を吸った。
──帳簿を整理し、実態を明らかにすること。
──この分館の必要性を数字と現場の声で示し、「削りやすい場所」ではないと証明すること。
それは、公爵家で何度もやってきた仕事だ。
ただし、今回は「家門」のためではなく、「この小さな図書館」のために。
「ミーナ、今日から少し忙しくなるかもしれないわ」
「はいっ! 忙しいの、大歓迎です! 今まで、暇な日が多かったので……」
彼女は笑った。その笑顔に、少しだけ救われた気がした。
「まずは、蔵書と備品の現状を全部洗い出しましょう。
次に、この分館を利用している人たちの声を集めたいわ。『ここがなくなると困る』という声を、きちんと形にしておく必要がある」
「意見箱、作りますか?」
「そうね。できれば、常連さんたちと直接話をしたいわ」
具体的な作業が見えてくると、不安よりもむしろ軽い高揚感が湧いてきた。
私にはもう、「公爵夫人としてこうあらねばならない」という枠はない。
だからこそ、「図書館長としてやりたいこと」を、遠慮なくやってみることができる。
(第二の人生の始まりとしては、悪くないかもしれない)
そう思いながら、私は倉庫の扉を閉めた。
◆ ◆ ◆
第三分館の変化は、思ったより早く現れた。
まず、館内の掃除と棚卸しを徹底した。
魔導灯の水晶を倉庫から持ち出し、点いていない灯りを一つひとつ調整する。
歪んだ棚板には、倉庫に眠っていた予備の金具を使って補強を施す。
次に、蔵書の並び順を見直した。
ミーナと二人で、「子どもたちが手に取りやすい本」「職人たちが仕事帰りに読みたがる実用書」「ご婦人方が好む恋愛小説」といった分類を作り、入口から見えやすい場所に配置し直していく。
「この本、前からありましたっけ?」
「ええ、ずっと奥の棚で眠っていたのよ。
表紙は地味だけど、内容はとても丁寧な料理本ね。近所の奥さまたちに喜ばれそうだわ」
「じゃあ、このあたりに並べて……。あ、このお菓子の本も隣に置きましょう!」
ミーナはすっかり楽しそうだった。
さらに、私は館内に小さな黒板を設置した。
そこに、「今週のおすすめ」「館長の一冊」などと書き、短い紹介文を添える。
初めて黒板を出した日、午後にやってきた近所の子どもたちが、黒板の前で足を止めた。
「“魔法のない冒険譚”? なにそれ」
「ふつうの子どもが、村の外に出て旅をするお話よ。魔法は出てこないけれど、その分、知恵と勇気がたっぷり出てくるの」
「ふーん……読んでみてもいい?」
「もちろん」
差し出した本を、少年は少し照れたように受け取った。
その後ろで、別の少女が黒板の端を指でなぞる。
「“館長の一冊”……」
彼女は小さな声でその文字を読み上げてから、こちらを見上げた。
「館長さん、本が好きなんだね」
「ええ。とても」
その一言に、嘘は少しもなかった。
こうして、日々の小さな工夫を積み重ねるうちに、第三分館の利用者は少しずつ増えていった。
ある日、カウンターの前に、中年の職人風の男が立った。
大きな手には、木屑がついたままの痕跡がある。
「ここ、木工の本とかあるか?」
「はい。この棚の奥に、椅子や棚の組み立て方が載った本がありますよ」
「ほう。……前に来たときは、こんなところには置いてなかったような」
「少し、並べ替えましたので」
私は控えめに答えた。
「そうか。……前は、暗くて埃っぽいだけの場所だと思ってたが、だいぶ変わったな」
彼はそう呟いて、本棚に向かった。
その背中を見送りながら、私は心の中で小さく拳を握った。
(変化に気づいてくれる人がいる。それだけで、救われる)
◆ ◆ ◆
だが、順調な変化は、いつも長くは続かないものだ。
第三分館が少しだけ賑やかになり始めた頃、総館から一通の通達が届いた。
封を切ると、中には事務的な文面が並んでいる。
「『王立図書館経営合理化の一環として、各分館の予算および利用状況を再評価することになりました。
第三分館においても、近々視察および聴取を行います』……」
読み上げる私の声が、わずかに硬くなる。
「視察……ということは、この分館が“残す価値があるかどうか”を見極めるってことですよね」
ミーナが不安げに呟く。
「恐らくは」
私は通達の末尾に目を走らせる。
──“評価の結果によっては、第三分館の統廃合、もしくは業務縮小を検討する可能性があります”。
露骨な一文だった。
(やはり、そう簡単にはいかないわね)
合理化。
その言葉の裏には、「数字の上で効率が悪いものから切り捨てる」という冷たい論理がある。
貴族の屋敷でも、同じことが繰り返されてきた。
「不要な召使い」「客の少ない応接間」「収入に見合わない宴会」──。
公爵夫人として、私は何度も「削るべきところ」を選び、時には恨まれながらも決断した。
だからこそ分かる。
(数字だけを見れば、第三分館は真っ先に削られる候補だ)
利用者数は、増えたとはいえ、まだ他の分館には遠く及ばない。
建物も古く、維持費が嵩む。
効率だけで見れば、「ここを閉めて、蔵書を第一・第二分館に移したほうが得」だという結論も出るだろう。
だが──。
私はカウンターの端に置かれた意見箱に目をやった。
そこには、利用者たちが書いてくれた小さな紙片が、いくつも入っている。
『仕事帰りに静かに本を読める場所があるのは嬉しい』
『子どもがここで初めて本を読めるようになりました』
『体が弱くて大通りまで出られないので、ここがなくなったら困ります』
どれも、紙の上では一行二行の短い言葉だ。
だが、その背後には、それぞれの生活がある。
(数字の上で「小さな端数」に見えるものが、誰かの世界の中心であることもある)
私はそう信じている。
「ミーナ、視察の日程は?」
「来週の、火曜日だそうです」
「一週間」
短くはない。だが、長くもない。
「視察に来るのは、誰か分かる?」
「えっと……事務室の人が言っていたのは、『財務監査官の方と、図書館評議会の委員が一人』って……」
財務監査官。
予算の使途と効率に目を光らせる役人だ。
(そういえば、王立図書館の財務監査、担当は……)
私は記憶を辿った。
公爵家の経理として総館とのやり取りをしていた頃、何度か名前を聞いたことがある。
冷静で、数字に厳しく、情で動かされない人物──。
「ミーナ、評議会の委員の名前は?」
「えっと……たしか、『アーデルハイト公爵』と……」
その瞬間、私の手の中の紙が、かすかに震えた。
「アーデルハイト……?」
私の旧姓ではない。
前夫の、今の肩書だ。
ルドルフ・アーデルハイト公爵。
私が十年間、夫として支えてきた人。
「公爵様が、ここに?」
「はい。なんでも、『王城の文化振興担当として、図書館評議会に名を連ねておられる』とかで……。
館長、ご存じなかったんですか?」
「……ええ。知らなかったわ」
離縁してからの彼の動向など、知るべきでないと思っていた。
彼もまた、新しい人生を歩み始めているのだから。
(まさか、その新しい人生の一部が、こんな形で交わるなんて)
妙な巡り合わせに、少しだけ眩暈を覚える。
だが、だからといって、やるべきことが変わるわけではない。
「ミーナ、とにかく、“この一週間でできること”を全部やりましょう。
蔵書の整理、備品の確認、利用者数の記録、意見箱の整理。
視察の場で、きちんと数字と事実を示せるように」
「はいっ!」
ミーナの返事は、今度は少し緊張を含んでいた。
私自身も、不思議な緊張を覚えていた。
元・夫と、第三分館の運命を巡って向き合う。
その場で、私は「公爵夫人」ではなく、「一人の図書館長」として、彼に数字を突きつけることになるのだろう。
(悪くないわね)
心の中で、私は静かに笑った。
◆ ◆ ◆
視察の日は、淡々とやって来た。
朝から私とミーナは、館内の最終チェックを行った。
掃除、配置の確認、帳簿のコピー、意見箱の整理。
すべてを終えた頃、館の入口のベルが鳴った。
扉の向こうに立っていたのは、見慣れた顔だった。
「お久しぶりです、クラリッサ」
ルドルフ・アーデルハイト公爵。
髪にわずかな白いものが混じり始めているが、その眼差しは相変わらず穏やかだ。
隣には、眼鏡をかけた細身の男が立っている。
灰色の上着に身を包んだその男は、書類の束を抱え、周囲に鋭い視線を巡らせていた。
「王立図書館財務監査官、エルンスト・カールソンです」
彼は短く名乗り、軽く頭を下げた。
「ようこそ、第三分館へ」
私は、微笑みを浮かべて挨拶した。
ルドルフの目が、一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに平静を取り戻す。
「……館長として、君に会うことになるとは思わなかった。
だが、嬉しく思うよ」
「私も、図書館評議会の委員としての公爵様にお会いすることになるとは、想像していませんでした」
互いに、肩書きで相手を呼ぶ。
それで十分だった。
エルンスト監査官が、無駄のない動作で書類を開いた。
「本日は、第三分館の利用状況と予算の使途を確認し、合理化の観点から継続の可否を判断するために参りました。
事前にお渡しした項目に沿って、ご説明をお願いできますか」
「もちろんです」
私は準備しておいた資料を取り出した。
利用者数の推移、蔵書構成、近隣住民の意見、備品の実態、倉庫に眠っていた余剰物資──。
それらを、できるだけ簡潔に、しかし隠し立てなく説明していく。
エルンストは黙って聞きながら、ときおり鋭い質問を投げた。
「この三ヶ月で利用者数が増えていますが、要因は?」
「蔵書の配置換えと、黒板での紹介、それから近隣の工房や学校に簡単なお知らせを配ったことが挙げられます。
特に、子どもと職人の利用が増えました」
「“返却不要書物”とラベルされた箱の中身については?」
「ご覧の通りです」
私は倉庫に案内し、余剰物資の箱を開けて見せた。
「これらは、他の分館や総館で出た“余り物”をこの分館に送り込み、帳簿上では“第三分館のために使われた”ことにしている物と思われます。
この分館が実際に使っている備品は、これとは別にあります」
「つまり、“数字の上では第三分館に支出された”費用の一部は、実質的には他所で消費されている、と」
「その可能性は高いと考えています」
エルンストの目が細くなった。
ルドルフは、黙って倉庫の棚を眺めていた。
その瞳に、一瞬だけ懐かしさのようなものが宿る。
「君は昔から……こういうところを見逃さなかったね」
ぽつりと漏れたその言葉に、私は肩を竦めた。
「癖ですから」
「公爵家の帳簿でも、同じような箱を見つけられたときは、怖ろしいと思ったものだ」
それは、半分冗談で半分本気だったのだろう。
エルンストは咳払いをして、話を戻した。
「つまり、第三分館は“予算を浪費する場所”というより、“予算をごまかすための隠れ蓑”的に使われてきた可能性がある、と」
「そこまで断定するのは控えますが、少なくとも、“この分館の非効率の一部は、意図的に作られたもの”だと言えるかもしれません」
エルンストは、無言でメモを取った。
「次に、利用者の声について伺いましょう」
私は意見箱から取り出した紙片を整え、いくつか抜粋を読み上げた。
「……『身体が弱くて大通りまで行けないので、この分館がなくなったら本が読めません』──これは、近くの路地に住むご婦人の声です。
『ここで本を読むようになって字が読めるようになりました』──これは、先日初めて借りた本を抱えて帰っていった少年の言葉です」
紙片を読みながら、私は目を上げた。
「この分館は、確かに数字の上では効率が良いとは言えないかもしれません。
ですが、ここでしか本を手に取れない人たちがいます。
それは、“大通りに出られる人”の視点からは見えにくいものです」
エルンストの視線が、私の横顔をじっと見つめているのを感じた。
「……率直に申し上げますと、私はこの分館の統廃合も選択肢に入れていました」
彼はそう言った。
「数字だけを見れば、“非効率な施設”であることは否定できません。
ただし、今日拝見した倉庫の状況と、利用者の声、そして最近の利用者数の増加傾向を考えると、少なくとも“現状の数字だけで即座に切り捨てる”のは、監査官としても躊躇われます」
少しだけ肩の力が抜けた。
「では──」
「なお」
エルンストは手を挙げて、私の言葉を制した。
「“このままでよい”とは言いません。
第三分館には、“これまでのごまかし分”も含めて、幾つかの改善すべき点があります」
「それは、承知しています」
「ですので、提案です」
彼は静かに続けた。
「第三分館の予算を、形式上は一部削減します。その代わり、他の分館に計上されていた“余剰物資”の扱いを見直し、真に必要な備品と交換する形で、この分館の設備を整える。
また、一定期間──そうですね、一年としましょう。その間に利用者数と活動内容を改善することを条件に、“統廃合の検討”を棚上げにする」
私は瞬きをした。
「一年の猶予、ということですね」
「ええ。合理化の名のもとに、“今日明日で全てを切り捨てる”ことが、本当に数字の上で最善かどうかは、私も悩んでいました。
ですから、“改善の余地がある場所”については、“改善の結果を見てから判断する”という選択肢を取る価値はあると考えます」
その言葉の裏に、彼の中の慎重さが見えた。
ルドルフが、そこで初めて口を開いた。
「私は評議会の立場から、この案を支持したい。
第三分館が、単なる“余剰物資の倉庫”ではなく、“この街にとって意味のある場所”になり得ることを、今日見せてもらった気がする」
彼の視線が、私のほうに向けられる。
「……クラリッサ。いや、クラリッサ館長。
君はいつも、数字と現場の両方を見ながら、家を守ってくれた。
公爵家という枠から離れても、その目は変わらないのだな」
「目は変わりません。
ただ、今は“守る対象”が違うだけです」
私は静かに答えた。
「第三分館を、“削りやすい場所”ではなく、“守るに値する場所”にするために、私はここに来ました。
そのために、必要な数字と記録は、喜んで集めます」
エルンストの口元が、わずかに緩んだ。
「……では、一年後にもう一度、ここに来ましょう。そのとき、“合理化すべき対象”ではなく、“むしろ拡充すべき対象”になっていることを期待します」
「期待に応えられるよう、努めます」
そう言って頭を下げたとき、胸の奥に小さな火が灯った気がした。
これは、「延命」ではない。
「第二の人生」を、自分の手で育てるための時間だ。
◆ ◆ ◆
視察が終わり、監査官と公爵が帰ったあと、第三分館にはいつもの静けさが戻った。
ミーナは、肩から力が抜けたように椅子に座り込み、ほっと息を吐いた。
「か、館長……すごかったです……!」
「何が?」
「あんな偉い方々を前に、ぜんぜん怯まずに、数字で話して……。
意見箱の紙、読んでても泣きそうになりました……」
彼女の目は、うっすらと涙で潤んでいた。
私は苦笑して、そっと彼女の肩に手を置いた。
「泣くのは、全部終わってからにしましょう。
これから一年、やることは山ほどあるわ」
「は、はいっ!」
ミーナは涙をぬぐい、力強く頷いた。
カウンターの上には、エルンストから渡された書類が一枚残っている。
──「第三分館改善計画書」提出要請。
実質的には、「一年間の猶予」を正式な形にするための書類だ。
そこに、私は自分の計画を書き込んでいくことになる。
(利用者を増やすこと。
蔵書の価値を見えるようにすること。
予算と備品の流れを透明にすること)
頭の中で、次々と項目が浮かび上がる。
ふと、窓の外を見やると、通りを歩く人影の中に、見覚えのある後ろ姿があった。
ルドルフ公爵だ。
彼は一度だけ立ち止まり、振り返って第三分館を見上げた。
視線が窓越しに交わる。
彼は、ほんのわずかに会釈をして、それから踵を返した。
そこに、未練めいたものは感じられなかった。
あるのは、「別々の道を選んだ二人が、偶然にも同じ街を支える側に立っている」という静かな共通認識だけだ。
(あなたは、公爵家を。私は、この図書館を)
心の中でそう呟き、私は窓から目を離した。
◆ ◆ ◆
日が傾き始めた頃、小さな影が館内に駆け込んできた。
「館長さん! この前の本、読んだよ!」
先日、「魔法のない冒険譚」を借りていった少年だ。
「そう。それで、どうだった?」
「おもしろかった! 魔法なくても、冒険ってできるんだね。
ねえ、次はどんな本がいいかな?」
「そうね……」
私は黒板に書いた今日のおすすめを思い出す。
「今度は、“なんでも直す修理屋さん”のお話なんてどうかしら。
壊れた物を直すだけじゃなくて、人の気持ちも少しずつ直していく修理屋さんなの」
「それ、読む!」
少年は目を輝かせ、本を受け取った。
その姿を見送りながら、私は静かに息を吐いた。
──きっと一年後、この分館は今よりずっと賑やかになっているだろう。
子どもたちの笑い声、職人たちの真剣な顔、ご婦人方の柔らかな語らい。
そこに、「図書館長」としての私が、当たり前のように立っている。
公爵夫人として過ごした十年は、無駄ではなかった。
数字を読み、帳簿を整え、人の顔色を読み、時には誰かの不満を受け止める術を学った。
そのすべてを、今、私はこの小さな図書館で使うことができる。
(離縁された公爵夫人は、ひっそり図書館長として第二の人生を満喫したい──か)
自分で心の中でそう言ってみて、少しだけ笑ってしまった。
「満喫」と呼ぶには、まだやるべきことが多すぎる。
けれど、その忙しさは、嫌いではない。
カウンターに置いた「改善計画書」の紙に、私は最初の一文を書き込んだ。
──「第三分館は、“削るための場所”ではなく、“育てるための場所”である」。
その一文は、誰に読まれるとも限らない。
それでも、書かずにはいられなかった。
窓の外で、夕焼けが煉瓦の壁を橙色に染めている。
その光の中で、第三分館は静かに息をしていた。
私は、その息づかいを確かめるように、本棚の間を歩き出した。
ここから始まる第二の人生を、言葉と紙と数字で、少しずつ埋めていくために。




