それいけ!我らブラックコーポレーション
自動ドアが鳴いて、僕は夢見た社会人生活へと最初の一歩を踏み出した。
新しいスーツはまだ肩にぎこちなく、靴底は光沢を残している。受付のプレートには堂々たる筆致で——ブラックコーポレーション。
出迎えたのは、やたら歯が白い先輩だった。肩章みたいな名札にはでかでかと「班長」。肩書きが名札のフォントよりも主張している。
開口一番、班長は晴れやかに宣言した。
「おはよう新人!我が社はギンギンのブラック企業だ!辞めるなら研修期間が終わる三ヶ月以内をオススメするぞ!もちろんその時は給料なんか出ない!……まあ、辞めなくても給料が出ないことはザラにあるがな!あっはっは!」
僕は「……え?」としか言えなかった。口の中に入れたはずの言葉は、すべて喉の手前でUターンした。
「では、新人の入社を歓迎して——社歌斉唱ッ!」
班長の号令で、フロアの椅子が一斉に引かれ、社員が直立する。誰かがピアニカを鳴らし、誰かがスネアを叩き、誰かが空気を読まずタンバリンを振った。拳が天へ突き上がる。
♪ 残業は愛だ 休日は敵だ
眠気を捨てろ 血肉を捧げろ
我らブラック! ブラックコーポレーション! ♪
「いや歌詞ぃぃ!?」
思わず声が出た。
「いいぞ新人!その声量だ!歌う時は腹から声を出せ!」
班長が僕の背中をどん、と叩く。
腹から出したら魂まで出そうだ。僕は渡された歌詞カードを裏返す。裏面には二番があった。読むのをやめた。
——こうして、僕の最悪最低な“社畜生活”が始まってしまったのだった……。
***
入社一時間後、僕は会議室に連行された。「新人歓迎会議だ」と班長。
長机を囲んで、見たことのない種類の真顔が八つ並ぶ。ホワイトボードの中央には太字で【議題】次回会議の開催日。
「……え、今日は何を?」
「次回会議の開催日だ!」
と班長は笑顔で答えた。
この人はずっと笑顔なのが逆に怖い。
「次回、ですか」
「うむ。今日の目的は“次”だ」
もう目的が未来に逃げた。
「では、まずは各自の翌週以降の空き状況を——」
その瞬間、隣で腕を組んでいた先輩が手を挙げた。
「僕、今月は会議で忙しいので会議の予定が立て込んでまして、会議のための会議が——」
「つまり空いてないということだな!」
班長が頷く。
「では次回の会議は——一旦保留!」
開始三分で到達する保留。何かの最速記録を樹立した気がした。
***
「では、次の議題に移る!」
班長がそう宣言すると、上座に座る人——面接の時に見た。社長だ——が、僕を見る。
「ここはフレッシュで斬新な意見が欲しい。新人君、何か意見はあるかな?」
「い、意見というか……そもそも、議題が“次回の会議”って、働く前に会議で会議の予定を……」
言い終わる前に社長が勢いよく手を叩いた。
「いい指摘だ!では新人、君が責任者だ!」
「え、えっ?」
「責任者権限で次回会議の日程を決めておいてくれ。今日中にな」
先輩が親指を立てる。
「出世早いな」
早い、というより、飛び級というか、これはワープだ。落とし穴に。
「安心しろ!」
と班長。
「うちでは発言=責任が基本だ。黙っていると“やる気がない”で責任になる」
責任から逃れるための選択肢が、どれも責任に通じている。迷路の壁が全部責任でできている。
***
「それから議事録は新人に任せよう。素早く一人前になる為に、タスクを任される経験が必要だ」
社長がさらりと言う。
「はい」と反射で返事が出た自分を、未来の僕がきっと恨む。もう分かる。絶対に恨むことになる。
数時間後、議事録の初稿を提出。すると班長が一行目で首を傾げた。
「おや、明朝体だな」
「はい。読みやすいかと」
「ゴシックがうちの伝統だぞ新人!」
フォントで伝統は築けるらしい。
先輩が身を乗り出す。
「余白も詰めよう。一行に魂が入りきっていない」
「魂に行間が関係するんですか?」
と僕が言うと、班長が頷いた。
「もちろんだ!そして最重要なのは根性だ!」
結局、僕は余白を0.5ミリ狭め、行間を0.2縮め、ページ番号の位置を右から左に、左から中央に、中央から右下に、そして元に戻した。
「いいぞ、だいぶ可読性が下がった」
と班長が満足げに言う。
「可読性を下げる目的は何ですか」
「真剣に読んだ者だけが理解できる」
宗教か。いや、これは宗教なんだろう。
概念が理解できない。
夕方、最終稿を出すと、班長は親指を立てた。
「完璧だ!では締切は一時間前だったことにする!」
「は?」
先輩がまた身を乗り出した。
「え!いいな!俺の時は三時間前だったんすけど!」
「今の時代、過剰なパワハラは不味いからな!」
「いや既にこれ過剰なパワハラですよね⁉︎」
「部長に最終チェックを任せると、六時間前だった事になるぞ!」
「守られてるなぁ。新人は羨ましいぜ!」
守るの定義が行方不明だ。
時間が過去に向かって走り出す音がした。たぶん、僕の心拍だ。
***
会議室を出る頃には、外はもうオレンジ色に傾いていた。
「いい滑り出しだな。次は実務だ」
と、班長が肩を組む。
実務。待ってたその言葉。ようやく仕事らしい仕事が——
「定時だ!タイムカードを切れ!」
班長の号令で、社員が整然と列を作る。ピッ、ピッ、と鳴るカードリーダー。
カードを戻した瞬間、社長が書類の束を各社員の机にどさっと乗せた。
班長は腕まくり。
「では、ここからが本番だ!」
「帰るんじゃないんですか⁉︎」
「帰ったことがある者だけが、帰れる」
班長は禅僧のように微笑む。
先輩が笑いながら肩をすくめた。
「俺なんか入社後三日連続で“ここからが本番”だったぞ」
***
夜九時。フロアの照明は半分に減光、でも人間の目はギンギン。僕の目の下はパンダ。
「新人、腹は減ってないか」
班長がそう言って、冷蔵庫を開ける。夢見たサンドイッチは無く、並んでいたのはエナドリと缶ビール。
「どっちだ」
「どっちもおかしいです」
「酒は燃料!仕事は肴!」
班長が開栓すると、先輩も続く。
いつの間にか社員全員が酒を手に取っていた。
「かんぱーい!」
いや乾杯と開票を間違えてる?僕の心の民主主義はすでに敗北した。
***
「新人、VLOOKUPは分かるか」
「分かります。酒飲みながらは分からないです」
先輩がゲラゲラ笑って背中を叩く
「大丈夫、慣れたら関数が踊って見えるぞ!」
「見えた時点で終わりです」
***
十時半。Excelのセルが正方形の盆踊り会場になってきた頃、班長が唐突に立ち上がった。
「社歌、二番!」
また拳が上がる。
♪ 締切は昨日 納期は明日
今日という日は 根性で伸びる♪
伸びちゃダメなものが伸び続けている。僕の常識の腱もブチブチいってた。
***
零時。
「タイムカード切った後に働くって、法律的にアウトでは」
「法律は愛。我々は家族だ!」
「じゃあ養育費ください」
「それは経費では落ちないのさ!」
家族の概念、壊れてる。
***
午前三時。
床に寝袋が敷かれる。引き出しからは膨張したカップ麺。コクの代わりに虚無が濃い。
「ここで寝ると腰が楽なんだ」
と先輩が床に寝転がる。
「布団の方が楽では」
「人は弱さに負ける!」
弱さに勝ってほしい場面もある。
***
朝方。シャッとブラインドが上がり、ビル街が灰色に滲む。
「おはよう」「おやすみ」「はじめまして」全部同時に成立する時間。
そこへ班長が腕を組む。
「新人、有給の取り方は知ってるか?」
「もちろん。申請して——」
「新人は妖精とか信じるタイプか?」
「え、何の話ですか?」
「有給は都市伝説だぞ!」
班長は笑いながら言った。有給は不可視系モンスターだった。
***
昼前。社長が颯爽と現れ、机の上に小さな紙袋を置いた。
「ボーナスだ!」
「え、今期もうですか」
「うむ。全員分ある」
紙袋の中、缶コーヒー一本。ラベルにマジックで「Thank you」。
「これは……福利厚生?」
「心の栄養さ!」
心の胃が荒れてる。
***
日が落ちると、再び酒は燃料の号令。
先輩は缶を掲げて武勇伝を始める。
「俺なんか先週、一週間会社に泊まったからな!もう立派な社畜だぜ!」
「それは普通だな。一年振りに家に帰ろうとして、家の場所が分からなくなって初めて社畜だ!」
普通の定義を再インストールしてほしい。
僕はノートに殴り書く。
《辞める。辞めたい。辞めよう。辞められない。社歌が怖い。Excelが踊る。班長は強い。》
それでも、笑いは出る。ツッコミは呼吸。息を止めたら死ぬ。だから喋る。
***
「新人。辞めたいと思ったら言え」
「今です」
「おめでとう!これで新人も一人前だ!」
「凄いぜ!期待の新人だな!」
パチパチと社員一同から拍手。何の認定式だよ。胸に「社畜」のタスキでも掛けるのか?
尚、拒否権はない模様。サイズはSでお願いします。
***
イベントという名の強制行軍、社員旅行。
バスに乗り込んだ瞬間、班長がマイクを握る。
「観光はない!移動中に議事録を詰める!到着後は絆を深める会議!夜は社歌二十五番までだ!」
「二十五番もあるんですか」
「安心しろ!サビは“我らブラック!”で共通だ」
何も安心できない。
作詞家が泣いてる。
***
夜。温泉の湯気の代わりに、会議室の熱気。乾杯、議事録、Excel、乾杯。
僕の中のなにかが、静かに音を立てて折れた。
「もう無理です」
ぽつりとこぼれた本音。自分の声が自分の耳に刺さって痛い。
班長は少しだけ優しい顔をした。
「大丈夫だ、新人。慣れたら戻れん」
優しさの仮面、怖すぎる。
***
ある日の会議中、会議室のドアが勢いよく開いた。
そこにいたのは一週間ぶりに出社した社長。
ネクタイが斜め、額には冷や汗。
「……すまん!」
全員の視線が吸い寄せられる。
「会社の金、夜の街とギャンブルで全部溶かした!」
静寂。聞こえる心拍音は僕の物なのか、それとも——。
「ブラックコーポレーション、本日をもって倒産だ!」
五秒の沈黙。次の一秒で爆発が起きた。
「やっぱりなーー!!」
班長が笑いながら立ち上がり、先輩が手を叩き、どこからともなくタンバリン。
「記念に社歌いくか!」
「やめろおおお!」
僕の制止は空を切り、拳が天に伸びる。
♪ 残業は愛だ 休日は敵だ
会社は消えた でも俺らは行く
我らブラック! ——転職サイトへ! ♪
即興二十五番。完成度高いのやめろ。
「じゃ、次のブラック探すか!」
班長がスマホを掲げ、先輩は鼻息を荒げる。
周りの社員もノリノリだ。
「おい!A社は残業代ゼロが文化だってよ!こことかウチに近いんじゃないか⁉︎」
「待てよ!B社もトイレ申請制らしいぞ!分かりやすくていいな!」
「C社は社歌が英語対応!俺らだったら簡単に溶け込めるぞ!」
「はっはっは!全部我がブラックコーポレーションと一緒じゃないか!」
そこ、押すとこじゃない。
笑うな班長。何で楽しそうなんだあんた。
***
「おい新人」
班長が笑って僕の肩を叩く。
「お前はもう立派な社畜だ。一緒に行くぞ。次の戦場へ」
気づいたら、僕は名刺入れを開いていた。輪の中、笑顔、名刺交換。
口角だけが勝手に上がる。心は床に置き忘れたまま。
ビルの外は、昨日までと同じ朝の色。違うのは、看板が外されて、風が少しだけ自由なこと。
班長が手を叩く。
「では、解散!各自、次のブラックで集合!」
「集合場所、地獄の三丁目ですか」
「いや、本社だ!」
本社、地獄にあったのか。納得だな。
みんなが笑って散っていく。僕も笑って、足を前に出す。
笑い声が風に混ざって飛んでいく。飛んでいけ。戻ってくるな。頼むから。
——こうして、僕は社畜仲間として認められ、次のブラックを探し始めた。
朱に交われば赤く染まるという諺がある通り、僕は真っ黒な闇に染められて、ブラックな社畜になったのだった。
そう、この物語はギンギンにブラックなバッドエンド——いや、ブラックエンドだ。
おしまい。




