引退聖女は癒されたい 〜旅とゴハンと溺愛従者〜
先日、二十年も務めた聖女を引退しました。
なかなか後任の聖女が現れず、引き留められるままズルズルと三十路半ば。
ようやく見出された新聖女はぴちぴちの十八歳で、私が最初の数年は上手く使えなかった「祝福」──女神の奇蹟の代行も、すでに自由に扱える。
しかも私と違って殿方の心をくすぐる術を心得ているものだから、またたく間に大人気。上目遣いの甘い声で捧げる祈りを聞くために、大聖堂に行列ができる毎日です。
かつては私も癒し系聖女としてけっこうな人気だったんですけどねー。
これからはあざと聖女の時代のようです。
あのころ「何があっても最後まであなた様をお守りします」とのたまっていた同世代の聖騎士団長殿も、先日まったく同じセリフを五倍ニヤけたヒゲ面で新聖女に囁いていました。
でもね、もうそんなことどうでもいいの。二十年間ひたすら人々を癒し続けてきたのだから、これからの引退生活は、自分が癒されることだけ考えて生きていく。
──というわけで私、癒しを求め旅に出ます。二十年ぶりに王都という鳥籠の外へ!
「メイベルさまー! お待ち下さいメイベルさまー!」
走り出した乗合馬車の小刻みな揺れのなか、私の名を呼ぶ声が聞こえます。
声の主は、聖騎士団が従者として押し付けてきたトマスくん。まだ二十代前半の、顔立ちから素直さと人の好さが滲み出るような好青年です。
亜麻色の短髪がよく似合う美形で目の保養にはなるけれど、向こうは十歳も年上の女なんて興味ないでしょう。その上でいろいろ気を使わせる申し訳なさと、こっちから気を使う面倒くささもあって、丁重にお断りしたのですが聞き入れてもらえず。
そこで私は昨晩、腰まであった銀の長髪───自由に切ることも許されなかった「聖女の証」をばっさり首上までカット、毛先を外ハネさせたりしてみました。そもそも銀に見えるのは特殊な精油でツヤを増していたおかげなので、本来の灰色髪になっています。
もはや、ぱっと見だけで元聖女とは誰も気付けないでしょう。
ちなみに服装も、毎日着ていた無意味にヒラヒラの重なる法衣ではなく、旅の治癒士さんが着るような象牙色のケープとスカートのセットアップ。めちゃくちゃ動きやすくて感動してます。
これで馬車に乗る直前、同行する気満々で待ち受けるトマスくんを素知らぬ顔で颯爽と通過する……つもりだったのですが。
「メイ……ベル……さま……?」
けっこう離れた位置から、こっちをしっかり捕捉するトマスくん。意外と手強い。ただ、ちょっと様子がおかしい。
「かっ……髪……切られたのですね……」
やむなく彼の方に歩み寄る私を見て、呆然と大きく口を開け、なぜか両手で目を半ば覆うようにしています。
「ええ、まあ。旅に合わせてイメチェンです」
「ああ、なんてことを……聖女の証をそんな、そんな短く……あまりに、あまりにも……」
目の前まで来ると、彼はぶるぶると震えています。そんなの別にいいじゃない、私はもう聖女じゃないのだから。
「あまりにも似合いすぎるッ! 尊すぎるッ! あとお衣装もキュートすぎるッ! ああだめだもう直視できない……」
そう言うと両目を塞いでしゃがみ込んでしまいました。なんだろう、ものすごくオーバーなお世辞でしょうか。だから、そういうのが嫌なんですけどね。
とにかく好機と彼をその場に放置して、私は馬車に飛び乗ったわけです。
「……メイベルさまあぁぁ……」
遠ざかっていく彼の涙声に胸がチクリとするものの、私は気ままな一人旅がしたいのです。ごめんあそばせ。
──そうして馬車に揺られること、半日ほど。
辿り着いた小さな町に、私は軽やかな足取りで降り立ちます。
手にはいつもの聖なる金錫杖でなく、荷物をまとめた四角い革製カバンだけ。美しい艶のあるワインレッドのそれは、王都で一番の革職人さんが餞別にと贈ってくれた、見た目よりたくさん入ってとっても軽い魔法みたいなカバン。
威厳アップの効果しかないくせにやたら重たい錫杖より、遥かに頼れる旅のお供です。
さて、それでは本題に移りましょう。こちらの町には、名産品の甘酸っぱいトゥマの実に、強烈な風味と旨味が同居するガリーを併せたソースで食べる「ンマトゥーマ」なる肉料理があるらしいのです。
以前、大聖堂で私の祝福を受けた女性が「聖女さまに食べてほしい」と話していて、ずっと気になっていたの! そう、癒しと言えばまずは美味しい食事!
人通りまばらな大通りをきょろきょろしつつ進んで行くと、日の翳り始めた空を刺すように、白い尖塔が目につきました。大聖堂の縮小版めいたその建物が、この町の教会のようです。
一応「引退した元聖女が立ち寄るかも」と大聖堂から各地の教会に余計な通達を出したようですが、私はあくまで一介の治癒士として気ままに旅がしたい。なんなら冒険者さんのパーティーに紛れ込んでダンジョンとか潜ってみるのもいいかも。
ただし治癒士は、エリアを管轄する教会から免許を付与されないと、治癒を使った仕事ができません。教会の権威を示すためだけの無意味な制度ですが、それでもルールはルールです。
尖塔を目印に歩を進めて行くと、何やら言い合う男女の声が聞こえてきました。
「何度も言うが、これから大切な儀式の時間だ。明日、出直しなさい」
「でも! こんなに苦しそうなんです!」
教会の白い扉の前で、法衣をまとった恰幅のいい男性に食い下がるのは、おそらく私と同世代だろう女性です。彼女のスカートには小さな女の子がしがみついて「けほけほ」と咳込み、息をするのも苦しそう。
男性はこの町の教会を管轄するハモンド上級司祭でしょう。数年前に着任の挨拶で大聖堂を訪れたときは、とても礼儀正しく腰の低い方だった記憶がありますが。
「ほう、ではその娘は儀式より優先されるべき、つまり女神さまより尊い存在だとでも? いずれは聖女様にでもなられるのかな」
「え!? ……いえ、決してそのような……ですが……」
だぶついた顎をさすりながら詰める司祭に、女性は言葉を飲み込む。苦しげな少女の咳が重なるのを聞いて、私は早足で歩み寄りつつ口を開きます。
「──いいえ。目の前で苦しむ幼な子より優先すべき儀式などありません」
思わず、大聖堂に説法を響かせる時と同じ発声になっていました。ビクンと全身を震わせた司祭は、呆然とした顔で私の姿を見詰めます。
「……どちら様かな? ……見たところ旅の治癒士のようだが」
相手が一介の治癒士に過ぎないことを確認すると、彼は「やれやれ」とばかりに肩をすくめました。
「……はい。治癒免許をいただきたくて参りました。ええとあれです、私の浅い知識の中にそのような儀式はないけどなあ、という意味で……」
「教会のおこぼれで稼いでいる治癒士の知識など所詮その程度だろうさ。知りたくば修道女にでもなって、しっかり神にご奉仕することだ。なんなら私が洗礼を授けてやろう」
ひたすら見下してくる司祭。その間にも激しくなる少女の咳に、母親は泣きそうな顔で背をさすっています。
「ちょうどいい。免許はくれてやるから、お前がその娘を治癒しておけ」
「え……お待ち下さい、この咳は司祭様の治癒でなければ抑えられないと先日……」
不安そうな母親の言葉に、ハモンド司祭は露骨なため息を漏らします。だいぶ苛立っている様子だけど、いったい何の儀式があるというのか。
「凡人の治癒でも咳を軽くするぐらいできるはず。お前、その歳なら十年はやってるだろう?」
「一応、十代から始めて二十年ほどになります」
経験を聞くのにわざわざ年齢の話をする必要もなかろうと思いつつ、面倒なので素直に答えます。
「ふん、思ったより上だったな。なら、年だけ食った無能ではないところを見せてやれ」
彼は鼻で笑いつつ、懐から取り出した親指ほどの白い木札を放り投げました。私の足元に。
「……ええ、お任せください」
もはや怒る価値もない。内心で呆れながら恭しく頭を下げ、木札を拾ってケープの内側に収める。
それを一瞥し、司祭は背を向けそそくさと教会の白扉の向こうに消えてゆきます。薄暗がりで彼を迎え入れた女性の唇が、修道女にしてはずいぶんと紅く艷やかでした。
──さて。
変わらず苦しげな咳が響いています。カバンを傍らに置きつつ、母親のすがる視線に微笑み返した私は、少女の胸元に手のひらをかざす。
なるほど、よくない感触が伝わってきます。かなり根を張っている。
「ちょっとだけ苦しいかも知れないけど、頑張れますか?」
目線を合わせ問いかければ、少女は咳き込みながらもうなずき返してくれました。うん、強い子。なら大丈夫。
「宿す光は女神の慈愛──」
祈りと共に私の全身が白い光に包まれ、髪がふわりと広がる。
「──聖癒」
それらすべての光が手のひらに集い、少女の胸の中に吸い込まれてゆきます。
「……ッ!? ゲホッ、ごほッ……」
彼女は一瞬だけ息を呑んで、それからこれまで一番激しく咳き込む。たまらずしゃがみ込んだ口元から血のような液体がぼとぼと地面にこぼれ落ち、黒い染みが拡がります。
「ちょっ!? 何をしたのっ!」
「けふっ、こほっ……待って、お母さん……ちがうの」
今にも私に掴みかからんばかりの母親を制したのは、少女の言葉でした。
「え……その声……?」
「喉も胸もすごく軽いの! 治ったみたい!」
すっかり咳の収まった少女が、朗らかな声と共に微笑みます。母親は困惑しながらも、彼女を抱きしめる。
それを確認した私は、地面に拡がる黒い染み──いまも輪郭がもぞもぞと蠢いているその瘴気を、ブーツの踵で踏みつけます。
「浄滅」
私の呟きに続いて靴底から漏れる一瞬の白光に、キキィーと甲高い音が重なり、染みは跡形もなく消滅しました。ちょっとお行儀よろしくありませんが、まあ私もう聖女じゃないし。
「……司祭様の治癒はもっとずっとお祈りが長くて、それに咳が収まっても声は枯れたままで……完治には何年も掛かるから、定期的に寄附しなさいと……なのに、あなたは一体……」
祈りの基本形は女神聖典に記されていますが、そこに修飾詞を付け足したり他の祈りと組み合わせれば、強化したり拡張したり特化したりできます。私のそれは逆に、二十年間で余分な言葉を削ぎ落とし限界まで研ぎ澄ませた祈り。
「お母さん知らないの? 聖女さまだよ!」
「……え?」
「さっきおねえちゃんが光ったとき、髪が銀色に見えたもん! 絵本の聖女さまといっしょ!」
母親に向かって力説する小さな名探偵に、私は苦笑しながらシーっと人差し指を立てて見せる。そして彼女の頭を優しく撫でながら「もう聖女じゃないの」と小声で囁き、呆然とする母親にも声を掛けます。
「まだ咳は出るかもだけど、すぐにこの子が勝ちます。とっても強くて優しい子だもの」
そしてカバンを手に立ち上がったとき、教会の扉の方角から視線を感じました。小さく開いた隙間から、いっぱいに見開かれた目がこちらを覗いていて、私と視線が合った瞬間に扉をバタンと閉じる。儀式とやらは、どうしたのでしょうね。
「あの、どうお礼をすれば……」
「それじゃあ、ひとつ教えて欲しいのですが」
──こうして私は、町で一番のンマトゥーマを出すというお店の情報を入手したのです。
◇ ◇ ◇
大通りから少し外れた路地をしばらく歩いた場所に、その宿屋兼酒場はひっそり佇んでいました。夕食にはまだ少し早い時間帯ですが、一階の酒場ではもう何人かの客が酒を酌み交わしていて、香ばしい料理の香りが鼻孔をくすぐります。
「いらっしゃい、お嬢さん。お一人ですか?」
店の奥から現れたエプロン姿は、白髪交じりの髪をオールバックにしたダンディな男性です。端正なお顔に柔らかな笑顔が浮かび、目尻に刻まれた皺は彼の人生の深さを物語っているよう。
「はっはい、一人です……」
お嬢さん呼びもあって微かに熱を帯びる頬を自覚しつつ、辛うじて目的を思い出しました。
「あの、こちらでンマトゥーマはいただけますか」
その問いに「もちろん」と即答する店主。「うちで出すのが町一番と評判でね」と自慢げに続けます。ヨシ、と拳を握りしめる私。ここでまちがいない。
「ちょうど、仕込みが終わったところですよ」
案内されたカウンター席に腰掛けて、待つことしばし。「お待たせしました」と目の前に供された白いお皿には、鮮やかな赤いソースをたっぷりまとい、こんがり焼き目の付いたひき肉のかたまりがでんと鎮座! そして白い湯気と共にたちのぼるのは強烈に食欲をそそるガリーの香ばしさ……!
「どうぞ、めしあがれ」
「いただき……ます」
カウンター越しに見守る店主の前で、思わずゴクリと生唾を飲み込みつつ、私はナイフとフォークを手に取ります。ナイフを吸い込むような柔らかさのお肉を、ひとくちぶんに切り分けて、たっぷりソースまみれにして口の中に運びます。
──こっ、これは!?
みずみずしいトゥマの実と強烈な風味のガリーが織りなすソースが、柔らかいお肉の旨味を最大限に引き出している。
「おいっ……しいっ……!」
店主のおすすめで追加注文した白米がまた怖いくらいにはかどる!
「……はふぅ……」
何度目かの恍惚の溜め息。もうすぐ食べ終えてしまうのが切ない。
他のお客さんの応対から戻った店主は、そんな私をカウンター越しで満足げに眺めています。
気になって表情をチラ見すると、彼は何か気付いたように目を見開きました。そしてカウンター越しに身を乗り出し、私の耳元で「つかぬことをお伺いしますが」と囁いたのです。
──まま待ってお顔が近い! あと耳元に触れる微かな吐息がこそばくて、なんだかそのぅ!
頭の中がンマトゥーマみたいに赤く蕩けかける私ですが、かまわず店主は続けます。
「もしや、聖女さま……いえ失礼を……先代聖女のメイベルさまではございませんか?」
「……え!? ええ、よくおわかりで……」
あ、しまった! 勢いで認めちゃった!
「もう十年以上前になります」
お顔を離した彼は、懐かしげに語りはじめました。
「重病を患っていた妻を、王都の大聖堂で『祝福』していただいたのです。あなたに」
見詰める熱い眼差しに、私の鼓動は高鳴ります。
「私は付き添いで少し離れた場所におりましたが、あの時の女神さまのように慈しみで満ちたご尊顔、忘れはしません。少しだけ、雰囲気がお変わりですね」
今のお姿も素敵です。付け足してにっこり微笑むと、続けて静かに彼──マシューは昔語りを聞かせてくれました。
祝福を受けた後、彼の妻は見違えるように元気になり、本来の明るい性格から繰り出される彼女の接客術もあいまって、店の評判はうなぎ上り。ついには「町一番のンマトゥーマの店」とまで言われるようになったのだと。
「ただ、そのせいで無理をさせてしまったのかも知れません。二年ほど前に病が再発して、そのまま眠るように静かに、女神さまの元へ……」
「そう、だったのですね」
治癒士や司祭のような聖職者たちが扱うのは、女神さまに祈りを捧げることで対象の回復力を高める癒術です。対して聖女だけが扱える『祝福』は、女神さまの代行者として授かった権能であり、奇蹟と呼べるような効果が期待できます。
たとえば、戦いの中で両目に傷を負った若い聖騎士がいました。同行していた治癒士さんの治癒で傷口はすぐに塞がったけれど、残念ながら彼の視力は失われてしまった。騎士としての未来のみならず、もうすぐ生まれる我が子の顔さえ見れなくなってしまった。
けれど彼は私の祝福によって、片目の視力を取り戻すことが出来ました。隻眼の騎士は今、父親としても、聖騎士団長の右腕としても、立派に役割を果たしています。
祝福はその者の人生で一度きり、ひとつの事柄だけ。だから治せたのは彼の片目だけ。そして店主の奥様も、再発した病を治すことはできない。
「ほんとうに感謝しております。今この店があるのも、メイベルさまのおかげです」
──だいぶ、店内が賑わってきました。給仕の若い女の子が、私の前からなかなか離れようとしない店主を睨みつけています。
「そうだ、今宵の宿はお決まりですか? よろしければ当宿はいかがです? お代は結構ですから」
断る理由もありません。私はありがたくその申し出を受けることにしました。もちろんお代はしっかり払わせていただきます。
ぶっちゃけ聖女は衣食住の生涯保障以外は無償奉仕で、収入と言えば大聖堂の売店で販売している、私自身が祈りを込めた聖護符の売り上げぐらい。でも使い道がなかったので、二十年分の塵が積もってけっこうな金額になっています。
もうすぐ新聖女版が入荷するということで半額以下で在庫処分されてた私の聖護符を、思わず大量に買い取ってしまったけど、それでもまだ余裕あり。
あとは免許も入手したことですし、治癒士として路銀を稼ぎながら旅していこうと思っています。
すっかり賑やかな店内から階段を上って、あてがわれた廊下のいちばん奥の部屋へ。小ぎれいで、ひとりが寝泊りするには十分すぎる広さでした。
ケープを外して大きめのベッドに腰掛け、地図を広げてこれからの旅程を詰めます。
明日は隣町まで街道を歩いて、逗留しているはずの商隊に合流、そこから北の港町──私の生まれ故郷の近くまで同行させてもらう計画。
隊を率いるサーリャとは幼なじみです。故郷の隣町のバザーで初めて会ったころは、お互い何者でもない子供同士だったなあ。
──そんなこんなと想いを馳せるうち、気付けばベッドに突っ伏して眠っていました。
慣れない旅でさすがに疲れたのかも知れない。なんとなくよくない夢を見て目覚めた気がするけど、内容は思い出せません。こういうときは大抵……。
コンコン
控えめなノックの音が聞こえて、心臓が跳ねあがります。
「……はい?」
小さく返事をすると、一拍置いて聞こえたのは店主マシューの声でした。
「こんな時間にご無礼を。ランプの灯りが漏れていたもので」
「いいえ、うたた寝してしまって、ちょうど目が覚めたところです」
しばしの沈黙。
「メイベル様に、お願いがあるのです」
聞こえたのは店主としての彼とは違う、どこか寂しげで弱々しい声。聖女としての二十年の経験で、それが助けを求めるひとの声だと知っています。
私はベッドから降り、内鍵を外してそっとドアを開きました。廊下の暗がりに浮かぶお顔に浮かぶのは、思い詰めた余裕のない表情です。
「ときどき、眠れなくなるのです。死んだ妻のことが、忘れられず……」
エプロンを外した彼の、少しくたびれたシャツに包まれた胸板が、私の目の前で呼吸に合わせ上下しています。二人を隔てていたカウンターは、もうない。
「だから欲しいのです。メイベル様、あなたが」
──え!? そそそれは「妻を忘れさせてほしい」的なあれですか!? さささすがに心の準備がまだですし、あとお口もきっとガリーの匂いがするからアレがソレですし、どっどどうしたらいいですか女神さまッ!?
「あなたの心臓が……!」
──はい?
ぽかんと口を開ける私の視界の端で、背に隠されていた彼の右手に、ランプの灯りを反射して短剣の刃がぎらりと光る。
「聖女の心臓を黒女神に捧げれば、妻が生き返るんだ……!」
まるで自分に言い聞かせるような言葉と共に、彼は大きな体で覆いかぶさって刃を突き出します。胸に迫る鋭い切っ先。でも彼の目が迷子のこどもみたいに見えたから、私は両腕を広げ迎え入れていました。
「とても、哀しくて寂しいことですが」
胸の真ん中を突く衝撃ごと、受け止めるように彼を抱きしめる。そして広い肩に顔を埋めながら、語りかけます。
「どうしたって、失われた命は戻らない。魂は不滅だとか、あんなの嘘っぱちです。人は死んだらそこまでだと、聖女を二十年続けてよくわかった」
黒女神。それは私を聖女として選んだ白女神と対を成す、表裏一体の姉妹神の片割れ。
その信者──黒の使徒たちの扱う禁術のひとつに、聖なる力を宿す者の心臓を捧げ死者の肉体を蘇らせる儀式があります。けれど、それは。
「黒女神が作り出すのは、泣きも笑いもしない空っぽの肉人形。見た目が故人と同じだけのまがいものです。あなたは、そんなものが欲しいの……?」
「……まがい……もの……」
彼は呆然として、私の言葉をなぞる。
「でもね、不滅なものも確かにあります。このお店は、奥様と二人で作り上げたのでしょう? そこには彼女の意思が生きてる。お客さんに愛されるお店を見て、奥さまの人柄が思い浮かんできました」
──私はそっと目を閉じる。
「そう、笑顔のまぶしいすてきなひと……名前はたしかエライザでしたね」
マシューが息を呑みます。
「……覚えて、おいでなのですか……?」
「ええ。私に、ンマトゥーマを絶対に食べてほしいと言ってくれたひと。それが彼女の心からの言葉だったから、私は引退して最初の目的をンマトゥーマにしたの」
カラン、と店主の手から短剣が床に転がる。
「わかって、いたんだ。あいつらに、都合よく利用されるだけだってこと。でも……もしかして……万に一つもあいつが元通りで戻ってきてくれるなら……その考えを、どうしても消せなくて……」
彼の懺悔に私はうなずく。ゆるし難きは、人の哀しみに付け入る黒の使徒たちです。
「ああ……俺はなんてことを……しでかして……」
「いいえ、大丈夫。あなたは何もしていない」
言って私は、足元の短剣に目を向けます。
そこには血の一滴も付いていないし、私の胸元も同じ。首に下げていたペンダントを胸元から取り出して、彼に見せる。それは白く小さな雫型のお守り──私が自ら祈りを込めた聖護符。そう、在庫処分品を買い取ったあれです。中央に短剣の切っ先を受け止めた傷のあるそれは、役目を果たしさらさらと砂になって崩れてゆきました。
「少し、使徒のことをお聞きしたいのですが」
問いかけた、そのときでした。足元でカタカタと音がしたかと思えば、短剣が禍々しい黒色のオーラをまとって、ふわりと浮かび上がったのです。
そして切っ先をまっすぐ私の心臓に向け、高速で飛来する短剣。
次の瞬間その凶刃は、割って入った店主の背中に深々と突き刺さっていました……。
「ご無事ですか、メイベル様……」
呆然と首を縦に振るしかできない私に、彼は店に迎えてくれた時の柔らかな笑みを浮かべつつ、膝から床に崩れ落ちるのでした。
◇ ◇ ◇
──宿屋の扉から一歩踏み出す。見上げた空は、まだ薄暗かった。
正しさだけが人を救うとは限らないと、知っています。
慈愛と秩序の白女神、欲望と解放の黒女神、両者が均衡を保ちつつ人間を見守る。かつては、それが本来の世界の形だったのかも知れない。けれど。
ほんの数歩進んだところで、路地の至るところから飛び出してきた黒衣の集団が、私の周りを取り囲んでいました。数はざっと十人います。
「……何か、ご用でしょうか?」
「しくじったか。秘蔵の『聖女殺し』まで貸してやったのに、まったく無能な男だ」
正面に立つ黒い法衣に黒覆面の男が、私の問いを無視して吐き捨てます。店主のことを指しているのでしょう。そして「聖女殺し」とは、おそらくあの短剣のこと。
つまりこの集団こそ彼をそそのかした者たち──黒の使徒。空気にはどす黒い殺気が漂います。
「──いいえ、彼の料理は素晴らしい。技術と創意工夫と真心が凝縮された逸品です。無能呼ばわりは、私が許さない」
ゆっくりと、幹部と思しき黒法衣の言葉を否定する。これだけは絶対に譲れないことだから。
「は? 命を狙われた相手さえ庇うとは、なんともお優しいことだな聖女よ。これから貴様の心臓を抉り出そうとも、我らのために祈ってくれるのか?」
「ええ、もちろんです」
私の淀みない即答に、一瞬たじろぐ幹部。
「……ッ……強がりをッ!」
「あ、ちなみに私、もう聖女は引退して普通の女の子になったのですが……」
それとこれも伝えておきます。黒の使徒の皆さんにも情報共有しなくては。
周囲から、小声のざわめき。どうやら知らなかったメンバーもいるようですが、幹部はこれには動じません。
「新しい聖女など恐るるに足らん。だが聖女メイベルよ、貴様は二十年に渡って一日も休まず民を癒し続けた化け物だ……」
気のせいか、すごく賞賛されてる気がします。
「この二十年で貴様の存在がどれだけ白女神の信仰を深めたことか! ゆえに貴様の命を奪い、心臓を黒女神に捧げ、信仰を絶望に変えるッ!」
なんだか自己肯定感が上がっちゃう。黒の使徒の立場から出た言葉なら、お世辞抜きの本心からの賞賛(?)ですからね。
「そうですか。ただね、新しい聖女のことは甘く見ないことです。つい先日も刺客をひとり篭絡したと、あの子から聞いたばかり」
まったくもって頼もしい後輩です。
そしてあの子を見ていると、聖女に選ばれる素質って治癒術の才だけでなく、奇蹟の代行者という重荷を背負っても平気なメンタルの強さかも……と思えてきます。私はあんまり自覚ないのですが。
「これからは癒し系でなく、あざと聖女の時代なのですよ、ハモンド上級司祭どの」
「……なっ!? 何を言ってる! 私はそんな名前ではないッ!」
その刺客さんが、あの子にべらべら喋ってくれたようです。自分に暗殺を指示した人間の正体を。
もう、あの子に任せておけば安心です。それに、王都には彼がいる。数年前の使徒による大規模襲撃以降、何処からとなく現れては助けてくれる灰衣に仮面の剣士さま。聖騎士団に属さない隠密騎士──怪騎士ファントムと呼ばれるお方です。
これからは彼がきっと、私にそうしてくれたように彼女を守ることでしょう。
王都に未練はありません。ただ彼にだけは最後に伝えたかった。ありがとうと、さよならと、そして叶うことなら一緒に……いえ、それは困らせてしまいますね。
「もういい! 殺してしまえ!」
あくまで正体を認めない幹部のヒステリックな号令で、周囲の黒衣が一斉に武器を構えます。
聖護符は新しいのを付けていますが、さすがに相手が多すぎる。とりあえず女神様に奇蹟を祈ってみましょうか……などと思った瞬間のこと。
「──天誅」
冷たく静かな声とともに、黒衣のひとりが前のめりに倒れます。
その背後にゆらりと立つ灰色のコート姿。フードの下には目元を覆う銀仮面、片手にすらり美しい曲線を描く東方由来の片刃剣。
「貴様はまさか……なぜ、ここにいる……」
幹部の声が震えています。
ああ、そうだ見違えようがない。幻のように佇む灰色の姿がフッと消える。ほぼ同時に少し離れた場所の一人の胸から銀の刃が生え、膝をついて倒れます。その背後で剣を引き抜くと、真横から切りかかった一人を無造作に斬り捨て、血しぶきに紛れるように再び姿を消す。
「クソッ、どこ行った!? 速すぎる!」
「落ち着け無能どもッ! 私を守れッ!」
「後ろ! 後ろー!」
「ぎゃあ」
「おい話が違うぞッ、女をいたぶるだけじゃ無かったのか!?」
「ぎえええ」
黒の使徒たちに動揺が拡がり、一人また一人その場に倒されてゆく。この戦い方も間違いなく、私の知るあの方です。
「ファントム……なぜ、ここに……」
「聖騎士団より、貴女をお守りする命を帯びております」
瞬く間に幹部以外の使徒全員を無力化した彼は、私を背にかばって立ちながら問いに答える。
「もう聖女ではないのに?」
「団長殿は、それが貴女との『約束』だと申しておりました」
へえ、団長、覚えててくれたんだ。「何があっても最後まであなた様をお守りします」という、かつての約束を。
「ええい! どいつもこいつも無能ばかりッ」
苦々しく吐き捨てたハモンドが、両手を頭上に掲げると、全身からゆらりと黒いオーラが立ちのぼります。
そして法衣の裾から頭上に放出されたのは、禍々しい黒色のオーラをまといながら私へと切っ先を向ける五本の短剣──そう、あの「聖女殺し」です。
「ファントム、ちょっとだけ凌いで!」
「──御意に」
私の心臓をめがけ次々と高速で飛来する短剣を、ファントムの舞うような剣戟が弾き、空にはね上げ、地面に叩き付ける。刃を掻い潜ったものは、コートの裾を翻しはたき落とす。
けれど短剣はそのたびにまた私に切っ先を向け、襲い来る。
「メイベル様、これ結構きついです。長くは持ちませんよ」
あくまで冷静に泣き言を漏らすファントム。剣風にはためくフードから、ちらりと覗いた彼の前髪が、綺麗な亜麻色だとこの日はじめて知りました。
「名高き怪騎士ファントムもそこまでか! この私が十余年の歳月を費やし編み上げた禁術武装『聖女殺し』の生成儀式──いずれは対象を治癒士にまで拡張し、白女神の使徒ども全員に絶望をくれてやる! 私を無能扱いした大聖堂の枢機卿どもは、泣いて許しを乞うがいい!」
「──いいえ、そうはならない」
ハイテンションな幹部のまくし立てを、一言できっぱり否定します。
「なッ……何を根拠にッ!」
覆面の下で目を剥く幹部。答え代わりに私がケープの内側から取り出したのは、乱れ飛ぶ聖女殺しと全く同じ見た目の短剣です。
それは私を殺めるためマシューに与えられた聖女殺し──ただし、まとうのは清浄な白きオーラ。
「……なんだ、それは……?」
私の手から白の短剣がふわり舞い上がります。
そしてファントムの真横をすり抜ける寸前だった黒の短剣の切っ先を、刃の腹で受け弾き飛ばす。弾かれた側の黒いオーラは霧散して、代わりに白いオーラが刀身を包んでゆきます。
「白女神と黒女神は表裏一体の姉妹神。ゆえに聖女を殺す呪いなら、聖女を護る祈りに容易く反転する」
「な……容易い!? ふざッ……ふざけるな! そんな出鱈目な芸当、貴様にしか出来ぬわッ!」
あら、また褒められた気がする。
続々と聖女殺しから聖女護りへと転じた短剣たちは、私の周囲にふよふよと浮遊しています。そして今、最後の短剣の攻撃を阻止し、すべての短剣は白いオーラに包まれ、私の頭上でゆっくり旋回して白い光の輪を描きはじめました。
「あれが……聖女……」
「見ろ……光の輪に照らされて、髪が銀色に……」
「なんと神々しい……」
まだ意識のある黒の使徒たちが、地に這いながら囁く声が聞こえます。
「そのまま大人しくしていたら、あっちのファントムには内緒で治癒してあげますね」
しゃがんで目線を合わせつつ人差し指を唇の前に立てると、彼らは目を見開き、あるいはそこに涙を浮かべて私を拝んでくる。
相変わらず、拝まれるのだけはどうしても慣れない。思わず困った顔をしてしまい、いつも枢機卿のおじいちゃんたちからネチネチ注意されていました。
当のファントムは、おそらく苦笑を浮かべながら、呆然と立ち尽くす幹部に歩み寄ります。
そして手にした刀を、彼の頭上から躊躇なく振り下ろしていました。
「ひィ……」
情けない声を漏らしながら座り込んだ幹部の、覆面と法衣だけが綺麗に両断されて、その下のふくよかな顎と下腹がぷるんとあらわになります。
まちがいなくハモンド上級司祭です。完全にバレバレでしたが一応確認。上級司祭クラスの背信行為、相当な厳罰が下されることでしょう。
「私は聖女でもなんでもないので、あなたの処遇は、あなたの大嫌いな枢機卿のおじいちゃん達に任せます」
それを聞いた彼は、情けなくも泣き崩れるのでした。
◇ ◇ ◇
平原をまっすぐに隣町まで続く道、歩く二人を朝日が優しく照らします。遠くには透明な空に美しい山々が連なって、清涼な空気が流れます。
「きれい……」
こんな景色を見るのも、子どものころ以来。思わず足を止めて見入ってしまう。
王都に閉じ込められてきた私にとって、旅先で出会う世界のありのままの美しさだけでも癒しになるのです。
「はい、本当に!」
私の少し後ろに付き従うトマスが、朗らかに同意します。
「でも、あの稜線よりメイベル様の横顔のほうが遥かにお綺麗です」
だから、そういう取って付けたようなお世辞は要らないんだけどなあ。あまりに淀みなく自然に言うので、本気にしか聞こえなくてつい嬉しくなってしまうけど。
ちなみになぜ彼が一緒にいるのかと言えば──あの後、襲撃者たち全員の傷を「大人しくしていれば死なない」ぎりぎりに治癒し終えたタイミングで、ちょうどよく町の駐留騎士を連れて現れたのです。夜中にこの町に追い付いて、私のことを探し回っていたのだとか。
そしてファントムの姿は、現れたときと同じく幻影のように消えていました。
「ところで、メイベル様。僕を旅の従者にしていただくお話──どうなりましたか?」
「うーん、そうねえ」
早足で私の前に回り込んだトマスが、問いかけてくる。町を出てからこれで五回目、さすがにそろそろはぐらかすのも可哀想になってきました。
「ちなみにだけどトマスくん、私に何か隠し事はありませんか?」
「えっ……いや……そんなことは……」
「その反応、やっぱり何かありそうですね。隠し事のある従者かあ、どうしようかなあ」
「ううっ……」
彼は観念したように小さくうなずくと、下を向いたまま話し始めます。
「やっぱり、メイベル様はお見通しなのですね。たしかに僕には、どうしてもご一緒したい理由があります」
理由? 聞きたかったのはそれじゃない気がするものの、彼の言葉からこれまで以上の真剣さが伝わってきたので、静かに耳を傾ける。
「──僕の両親は、狂信的な黒の使徒でした。そして彼らは幼い僕を、禁術の儀式の供物として捧げた。でも儀式自体は失敗したらしくて、聖騎士団が地下教会に踏み込んだとき、祭壇に放置された僕は全身を黒い瘴気に蝕まれ死にかけていた」
それは、朗らかで人当たりのよい今の彼からは想像だにできない過去。
「そんな僕を救ってくださったのがメイベル様でした。あの時の温かい手、優しいお言葉は、今でも鮮明に覚えています」
──ああ、そうか。私も覚えています。
聖女になって数年目、ようやく慣れてきたころ。まだ髭をたくわえる前の一介の騎士だった聖騎士団長殿が、深夜に泣きそうな顔で担ぎ込んできた少年。
あのとき初めて私は、自分の意思で女神の権能──「祝福」を使うことができた。
でもその少年は言ったのです。どうして助けたのですか、生きたくなんかなかったのに。生きる意味なんかないのに、と。まるで感情が抜け落ちたように虚ろな目で。
両親に捨てられ、殺されかけたのだから、無理もないでしょう。
自分勝手でごめんなさい。それでも私はあなたに生きてほしかった。だから、もし生きる意味が見つけられないのなら、私のために生きて下さい。震える小さな背中を抱きしめて願ったことを、覚えています。
「──メイベル様は僕の命の恩人。そして、初恋のひとです」
告白したトマスの顔は、耳の先まで真っ赤になっていました。釣られて私も頬が熱くなる。
でも勘違いしてはいけない、それはあくまで「初恋」の話。彼が恋したのは十七歳の癒し系聖女メイベルちゃんであって、三十路の引退聖女じゃない。
「だから僕は、聖騎士になってメイベル様を守ると決めました。団長の家にお世話になりながら、そのためにひたすら文武を磨きました。……でも結局、黒の使徒の血を引く僕では騎士団に入れなかった」
聖騎士団には、由緒正しい血筋でなければ入団できない縛りがある。高貴さの義務と言えば聞こえはいいけれど、きっと治癒士免許のように権威やら既得権益やらしちめんどくさい色々があるのでしょう。
団長は自分の代でそれを変えようと頑張っているようです。がんばれヒゲ、応援してるぞ。
「ええと……それから、まあなんだかんだありまして……団長の口利きもあって、メイベル様の従者をさせていただく機会を得たわけです」
「急に大雑把になりましたね……」
自分にはどうにもできない血筋のせいで、すべての努力が無駄になった。そこに葛藤がないはずないし、絶望していてもおかしくない。大雑把にしか語らないのは、私に重荷を持たせないための、彼の優しさなのかも知れません。
──と、それは置いといてトマス。本気でバレていないと思ってるの?
髪の色、背格好、現れたタイミング、口調やトーンを変えても似通った声色。どう考えたって、ファントムとトマスは同一人物。
右肩に荷袋と一緒に背負った細長い包みの中身も、きっと彼の愛刀でしょう。というかそれを包んでる灰色の布も、例のフード付きコートにしか見えない。
おそらく、黒の使徒の活性化による人材不足に直面していた騎士団が、彼の実力に目を付けて非正規の隠密騎士として迎え──怪騎士ファントムが誕生した、というところでしょう。
正直なところ、ファントムの正体はもっと渋くて影のある流浪の剣士様(年上)を妄想していたのだけど。……あ、もしかして私の夢を壊さないために、ファントムの正体を隠そうとしてる……?
「これが僕の、メイベル様を従者としてお守りしたい理由です」
聞きたかったのとはちょっと違うけど、でも確かに知っておきたかった事実を話し終え、顔を上げた彼は両目をギュッと閉じて私の言葉を待っています。何その忠犬ムーブ、さすがに可愛すぎる。
「さてと、十人ぶんも重傷者を治癒してさすがに疲れました。おんぶして下さい」
「え!? 僕は九人しかやっ……じゃない、たしか怪我人は司祭を除いた九人だった気がしますが……」
おっとしまった、その前に店主の傷を完治させた件は秘密でした。
「……そのくらい疲れてるってことです! ほら、はやくして下さいな従者どの」
「はっはい! ……え!? いま『従者どの』って……」
「言いました。従者と認めたからには、遠慮なくこき使いますからね」
「はいもうそれは望むところです! さあ、どうぞ僕なんかの背中でよろしければ……」
心底から嬉しそうなトマスは、肩の荷袋を横に寄せ、しゃがんで両腕を後ろに差し出す。私はカバンを持ったまま両腕を彼の首に回して、体を預けます。
「……失礼いたします」
スカートが捲れないよう気を使いながら、両腕で私の両足を抱え、彼は慎重に立ち上がる。ふわりと体が浮かぶ感覚。視界がいつもより少し広い。
「どう? 重くない?」
「あっ、ええとその……し……しあわせです……!」
「なにそれ、答えになってないじゃない。またお世辞?」
あの日、震えていた小さな背中が、今はこんなに大きくなって私を守ってくれる。胸の奥にじんわり拡がっていく温かな愛しさは、母性とは違うものの気がします。
でも、それはきっと迷惑だよね。
「え? 僕は女神さまに誓って、メイベル様にお世辞なんか言ったことないです。だって、おんぶですよ。初恋から今日までずうっと好きだったメイベル様を」
──ん? え? ずうっと好きだった? ……これまでの言葉もぜんぶ、お世辞じゃない……?
彼の言動を思い出して、いっきに顔が火照ります。たぶん、耳まで真っ赤になってる。顔が見えない体勢で良かった。
「そんなの、最高の幸せに決まってるじゃないですか」
淀みなく言い切る彼の言葉に、胸が震える。旅に出て二日目、私は早くも最高の癒しを見つけてしまったようです。
最後までお付き合いありがとうございます。
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