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白灯の風にて

作者: 夢月紅葉

風が強く吹く岬の先端に、その灯台はある。

名前はもう誰も覚えていない。ただ人々は「白灯しらともし」と呼ぶ。

潮風にさらされ、時に嵐に揺れるその古びた塔には、一人の男が住んでいた。


彼の名は アオト。

灯台守だ。


誰に頼まれたわけでもない。

とっくに海運のルートは変わり、灯台は必要とされていなかった。


それでもアオトは、毎夜欠かさず灯りを灯し続けていた。

まるで、誰かに向けて「ここにいる」と言い続けるように。


アオトには、かつて妻がいた。

ユイという名の、笑うと潮騒のようにやさしい声の人だった。


ユイとアオトは、かつてこの灯台を二人で守っていた。

嵐の夜には背中を合わせて風を防ぎ、晴れた日には手を取り海を見た。


だが、ある年の春の終わり。

ユイは病に倒れ、そのまま静かにこの世を去った。


灯台には、彼女の笑い声だけが、波に混じって残された。


それからアオトは一人で灯台に住み、風を聴き、空を仰ぎ、ただひたすらに灯を灯し続けた。


「この光は、帰れなかった船の目印になるかもしれない」

「もう誰も見ていなくても、誰かが思い出してくれるかもしれない」


そう言って、彼は一度も灯りを絶やさなかった。


ある晩、嵐が来た。

風は唸り、雨は海のように降り注ぎ、白灯の塔は悲鳴を上げるように軋んだ。


老いたアオトは、それでも風の中に立ち、レンズを磨き、火を灯し続けた。

その姿を見た村の少年が、翌朝こう語った。


「あの灯り、きっと奥さんに見せてたんだよ」


翌春、白灯に花が咲いた。

誰も植えていない花が、潮風の中で咲いていた。


「ユイ」の好きだった、白い風鈴草だったという。


今も、白灯の塔には灯りが点る。

いつ誰が灯しているのか、もう誰も知らない。


でも夜になると、海に白い光が揺れている。


まるで――

今も誰かが、誰かを待っているように。


夜明け前の空は、灰色と藍色が溶けあうように静かだった。


アオトは寝台からゆっくりと起き上がり、古びたマントを肩にかける。

足元に、ユイが生前編んだ羊毛のスリッパがある。もう片方のかかとは擦り切れていた。


灯台のてっぺんまでの階段を、今日も一段ずつ確かめながら上っていく。

壁には潮風に焼かれた写真立てが掛かっていた。

二人で笑っている写真。その向こうの窓の外には、波打ち際を歩く白い鳥の姿。


「……風が少し強いな」


アオトは呟き、灯火の台座に手をかける。


小さなランプが音もなく灯る。

今日もまた、どこかにいる誰かのために。


そこへ――

塔の下から、誰かの足音が響いてきた。


そこに訪れたのは村の少年だった。

「アオトさん、この灯台はもう誰も使っていない。そろそろ村に戻ってきたらどうなんだい?」


アオトは首を振る。


「今は誰も使っていないかもしれない。けれど、いつかこの灯台を導に寄港する船があるかもしれない。だから灯台の整備は続けるよ」


少年はしばらく黙っていた。

手にしていた包みをぎゅっと握りしめ、目を伏せる。


「……じゃあ、せめてこれ。母さんが持たせたんだ。あったかいうちに食べてよ」


包みの中には、湯気の立つ雑穀パンと、干した鯖の焼き身が並んでいた。

アオトは一瞬、目を細めた。ユイがよく作った、懐かしい朝の匂いがした。


「……ありがとうな」

そう言って、アオトは少年の手から包みを受け取る。


だが、その声にはどこか寂しさも混ざっていた。


「戻る気は……やっぱりないんだね」

少年がそう呟いたときだった。


ごぉぉぉ……


低く、遠くで、海鳴りのような音が響いた。

それは風の音とも、波の音とも違う――警告のような震えを帯びていた。


アオトは、灯台の窓の外に目を向ける。

薄明の水平線に、黒く、のろのろと進む影があった。


「……船だ」


それは定期航路では見たことのない、古びた貨物船だった。

ボロボロの帆、錆びた船体、そして――船の舳先には、壊れたような灯りがかろうじて灯っていた。


「難破船かもしれない。一等強く東大の灯りを灯そう。ハヤト、手伝ってくれ」


頼まれた少年、ハヤトは慌ててアオトの後に続く。


灯台は今でもなお明るさを保っている。


しかしそこに更に灯りをともすともなると重労働だった。


アオトは古びた灯火台の傍らに立ち、慎重に古式の反射鏡を回転させていく。

真鍮の歯車が軋みながらもゆっくりと動き、内部の構造が徐々に露わになっていく。


「そこだ、ハヤト。風防の脇に、薪の束がある。乾いた松の芯を選んでくれ」


「う、うん……これでいい?」


「それで十分だ。火は俺がつける。お前は吹き抜けの通風口を開けてくれ。煙がこもると目がやられる」


ハヤトは言われるまま、梯子を駆け上がり、細いレバーを引いた。

ギィ……と鈍い音とともに、小さな換気窓が開く。

潮風が吹き込み、灯火の炎が一瞬揺れる。


アオトは芯に火を点けると、やがて炎が大きくなり、

白灯の塔にふたたびまばゆい光が満ちていく。


それは、岬の夜を押し返すように遠くまで届いた。


やがて、黒い船が――光に反応するように、わずかに舵を切った。


「……見えてるぞ」


アオトの小さな呟きは、誰に届くでもなかった。

けれど、彼の瞳には確かなものが宿っていた。


少年ハヤトは、まだ息を弾ませながらも、アオトの横顔をじっと見ていた。


この人は、ずっとこうして誰かを待っていたんだ……。


結論から言って、船は村に寄港した。


実は幽霊船だった、なんて話はあるわけなく、単に航路を外れて遭難したとのことだった。


船の船長は、こんなところに灯台があるおかげで難破しないで済んだと大喜びだった。


村には久々の客船がやって来た。

何人もの乗員が降り立ち、感謝と安堵の声が波の音に混じって響く。

小さな浜辺が、にわかににぎやかになる。


船長は立派な髭を揺らしながら、アオトの手を何度も握った。


「本当にありがとう、灯台守さん。もしあんたの光がなかったら、我々は……」


アオトはただ小さく頷くだけだったが、その瞳にはわずかな笑みが浮かんでいた。

遠い記憶の中、ユイもまた、こうして人々の言葉に微笑んでいた――


ハヤトは、灯台の入り口に立ってその光景を見つめていた。


その夜、白灯の上で、二人はいつも通り静かに灯りを点けた。

だが、どこかいつもとは違っていた。


「なぁ、アオトさん」

「ん?」


「……僕さ、この灯台を継いでもいいかな」


アオトは驚いたように少年を見つめた。


「今はもう、使われない灯台だって知ってる。

でも……誰かの帰りを、待つ場所って、大事なんだって思った」


沈黙。

そのあと、アオトはゆっくりと口を開いた。


「……お前がそう思ってくれるなら、きっと、ユイも喜ぶよ」


それから季節は巡り、岬にも春の風が吹き込んだ。


アオトはあの日のまま、灯台にいる。けれど、以前と少し違うのは、

階段を駆け上がってくる若い足音が、もうひとつあるということだ。


ハヤトは日ごとに作業を覚え、灯火の扱いも慣れてきた。

失敗すれば、アオトが静かに苦笑する。それが嬉しかった。


「……お前に、任せる日が来るかもしれないな」


ある日、ぽつりとアオトが呟いた。

ハヤトは照れくさそうに頭をかいたけれど、胸の奥が温かくなるのを感じた。


夜、波が静かに灯台を洗う。

灯りは今日もゆっくりと、確かに、遠くを照らし続けていた。


かつて、ユイと二人で守っていた光。

今、それは新たな誰かの手へと受け継がれようとしている。


――誰かの帰りを、待つ灯りとして。

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