雪歌さんの猫の話
私は猫を飼っている。
猫の名前はジンタ。子猫の頃から育てているかわいい男の子。一人暮らしの私。ジンタはそんなちょっと寂しい日々を過ごす私にとっての話し相手。
・・といっても、何もしゃべらないけど。ただの独り言? いや、それでも話せば想いが通じている気がする。気がするだけかもしれないけれど。とにかく、私にとって猫のジンタはかけがえのない存在。
私の名前は雪歌。仕事をしている会社員の女性。今日も残念ながら残業。そんな仕事で疲れて帰ってきた私を出迎えてくれるのが大好きな猫のジンタ。
・・だと、思っていたら、ジンタの反応はない。ジンタは大好きなヒヨコの人形とじゃれ合っている。帰ってきた私を見すらしない。
「ただいま~。帰って来たよ~。」
「・・・」 (ヒヨコの人形を転がしている。)
「た・だ・い・ま!」
「・・・」 (気持ちよさそうに寝転んでいる。)
「もう~『おかえり。』くらい言ってよ。」
いつものことである。
雪歌は疲れた体からソファーにカバンを置いて、テキトーにねこじゃらしを揺らしながら、ジンタにつぶやいていた。ジンタはねこじゃらしが見えると獲物が現れたように目の色を変え、ねこじゃらしの動く方へと顔を動かして、飛びついていた。
やっとかまってくれた。
時々、雪歌はそんなジンタを見て、魔法の杖を持った魔女のように微笑んでいた。
「ジンタも私のねこじゃらしの魔法には敵わないでしょ。」
その言葉通り、魔法にかかったようにねこじゃらしに夢中だった。とてもかわいい。
雪歌はそんなジンタと遊んで少しだけ仕事で疲れた心が癒された。
とある休日、
雪歌はいつもと同じようにジンタと遊んでいた。
「ジンタ~。ほら、新しいねこじゃらしだよ! どう? 楽しい?」
「いや、ジャンプ力高っ!」
「気に入ったみたいだね!」
「あっ! 痛いっ! ちょっと爪があっているよ~。」
「あ~。 ほら、傷になっちゃった。」
「爪切るから、こっちおいで。」
「逃げないの~。」
「もう~。次はなんで私の靴とじゃれているの? バカな子、なんだから~。」
雪歌は楽しそうに話していた。しかし、ジンタはしゃべらない。そんなジンタとの一方通行の会話が日常のことである。そんな会話でも、ジンタと話せば何気ない時間が笑顔になった。雪歌にとってジンタとの時間は恋人とゆっくりお話をしているような安らぎの時間だった。そんな安らぎの時間がずっと続けばいいな・・と思っている。
雪歌はジンタの爪を切るために、ジンタを抱っこした。重い。こうしているとジンタの温もりを感じることができる。あたりまえだが、生きているんだな~と思う。たくさん撫でてやった。そのおかげか、爪を切る時、大人しくしていた。
「いい子だね~! ジンタ~!」
雪歌はジンタの爪を切り終えた。
その後、宅配ボックスに荷物が届いた気がしたため、ジンタをリビングに残し、玄関へ向かった。
外が晴れているので、小さい窓から柔らかい太陽の光が漏れている。光がゆらゆらとダンスを踊っているみたいである。雪歌は華やかな気持ちで玄関のドアの鍵を開けドアを開いた。
完全に気を抜いていた。
そのまま雪歌は外に出ようとした。
その瞬間、
まるで流れ星が流れたように何かが一瞬で横を通り抜けた。そして、ドアの外へと消えていった。
なに?
一瞬、映った残像。
コンマ数秒前の記憶。
猫の形のシルエット。
猫?
もう答えは一つしかない。
それは紛れもなくジンタだった。ジンタが勢いよく部屋の外へ飛び出していた。
ものすごい速さで。
「ちょっと! ジンタ!! 待って!」
状況を理解した雪歌は慌てて叫んだ。
その声はどこにも届かず、受取人不在。ジンタは目で追う隙もないくらいあっという間にマンションの駐車場を走り抜け、道路の方まで走っていた。姿が見えなくなりそうだった。雪歌は走り去るジンタのあとを必死で追いかけ始めた。
「大変!! ジンタが逃げ出しちゃった・・。外は危険がたくさんなのに・・。車にひかれちゃったらどうしよう・・。どこかの穴に落ちちゃったらどうしよう・・。もう帰ってこなかったらどうしよう・・。ジンタ~!!」
雪歌は全力ダッシュでジンタを追いかけた。
不安、焦り、暑さのせいで額から汗が溢れ出した。
ジンタは突き当りの曲がり角をノーブレーキで曲がっていた。
雪歌はそんなジンタを追いかけながら思った。
「なんで、ジンタは外へ飛び出しちゃったんだろう? 部屋が窮屈だったから? 爪を切ったから? 遊び足りなかったから? それとも、私との生活が嫌だったから? 子猫の頃から育てているのに・・。もう・・。ジンタを早く捕まえて、真相を聞かなきゃ!」
雪歌は素早くかつ慎重に曲がり角を曲がり、さらに全力で追いかけた。走ることに慣れていない靴が軋んでいた。
もう走れないと息が切れそうなとき、ジンタが目に映った。
ジンタは道路の脇の塀の上にいた。
「何をしているの?」
塀の上にいるジンタは走り疲れて苦しそうな雪歌と対照的に、ゆったりとくつろいでいた。優しい陽の光を浴びて、穏やかな風に吹かれ、あくびをしながら優雅に寝転んでいた。
無事で安心はしたが、心から呆れた。こんなに汗を搔いたのに、ジンタは気持ちよさそうにしている。
怒りに近いため息が漏れる。ため息交じりにジンタを叱った。
「ジンタ! 外は危ないんだから! 勝手に出ていったら駄目でしょう! 分かっているの! ねぇ! 本当に? 反省しているの?」
「・・・」 (寝転がってしっぽを動かしている。)
「 あ~! そのしっぽの動き! 絶対、分かってないよね? もういいよ。いうこと聞かない駄目な子は、今日のおやつ、抜きだからね!」
怒られたジンタは塀の上でまるい目をして雪歌の方を見ていた。
「そんなに見つめたって、許さないよ。それよりあんなに素早く脱走して、そんなに逃げたかったの? あの部屋の生活が嫌だったの? 私のことが嫌なの? どうなの? 私のことが好きなら、塀から降りてきて、私のところに来てよ。」
雪歌は早口で言った。
猫に言葉は通じない。
ジンタはしばらく塀の上にいた。置物のような状態である。しかし、何かを感じたのか、いきなり塀の上から降りてきて、塀の下あたりをうろつき始めた。
「何しているの? 私のところに来て。」
雪歌は怒った様子で塀の下でうろつくジンタを見ていた。なぜか、ずっと右往左往している。何かを伝えたいみたいである。さらによくジンタを見た。
すると、その足元に珍しそうなものがあることに気づいた。地面をもっとよく見てみた。そこには、命のハートが溢れるように生える植物があった。
それは四つ葉のクローバーである。
「あっ。四つ葉のクローバーだ! ほら、ジンタの足元! もう、踏もうとしないの。」
雪歌はジンタの足元に生えている四つ葉のクローバーを大切そうに拾い上げた。そして、ビデオゲームの中でレアアイテムをゲットしたみたいにジンタに見せつけた。
「ほらっ! 幸福の四つ葉のクローバー。ラッキー! とても素敵でしょ? もしかして、ジンタはこの四つ葉のクローバーを私にプレゼントしたかったの?」
「ニャー。」
「もう、嘘つかないの! そんなこと言っても、脱走したこと許さないよ!」
そう言った雪歌は怒った表情から笑顔になっていた。
四つ葉のクローバーのおかげである。
その後、雪歌はジンタを抱っこして、家まで連れ戻した。重い。本当はもっと叱りたかったが、腕の中で眠そうにしているジンタがあまりにもかわいくて、撫でていた。
「もう二度と逃げ出したりしないでよ。」
雪歌はジンタとともに春夏秋冬を過ごした。
春には桜舞い散る穏やかな風をともに浴び、
夏には風鈴を飾って短冊に猫パンチした。
秋には少しもの悲しい風にジンタを恋しく思い、
冬にはせっかく飾ったクリスマスツリーを倒されて怒った。
どれも楽しい想い出である。
雪歌はジンタに悩みを真剣に話すこともあった。
「ジンタ、今度のプレゼンテーション、うまくできるかな? 私、とても不安なの。」
当たり前だが、どれだけ一緒にいてもジンタは何もしゃべらなかった。それでも雪歌は一方的に話していた。なんだか、真剣に話せば理解してくれているような気がした。本当に理解しているかは別だけど。
いや、いるだけでいいのよ。
「ニャ~。」
ジンタはあくびをしていた。
雪歌はいつか、こんなことも話していた。
「そうだ! ジンタ、思ったことがあるの。
口先が上手いだけの人間を信用したら駄目だよ。その人が誠実であるかを見なくちゃ。
でもね、私のことは信用していいんだからね。
え~と。
だから、ジンタ。私がジンタのこと、最後まで面倒みるからね! 約束だよ! 絶対に!」
雪歌はジンタの目を見て言った。
その日のジンタはまるい目で雪歌を見つめていた。
とある休日、
今日は快晴で、心地が良い陽気である。外に出かけたくなるような日である。天気予報でも今日はピクニック日和だと言っている。日頃の暗いニュースを感じさせないような穏やかな時間が流れていた。
「平和だな~。」
雪歌は澄みきった青い空を見ながらつぶやいた。ジンタは相変わらず、ヒヨコの人形とじゃれていた。
「そうだ、ちょっとジンタと一緒に散歩にでも行こう!」
雪歌は思った。
そして、ジンタに言った。
「ちょっと、一緒に日向ぼっこでもしよっか!」
雪歌はジンタを優しく抱きあげた。重い。玄関にある猫用の籠のところまで運ぶことにした。重たいジンタを大切に抱きしめて玄関まで歩いた。そして、猫用の籠の扉を開き、籠の中に入れた。
「いい子にしてね。」
ジンタは何の抵抗もなく籠の中に入り、とても大人しく寝転んでいた。あまりに大人しいので、雪歌は安心した。はやく外に出かけたくなって、玄関のドアを開けた。ドアの隙間から太陽の光が眩しいくらいに溢れ出した。太陽の光はエネルギーを感じる。
すると、籠の中で寝転んでいたジンタが太陽の光に反応するように突然動き出した。雪歌はそれに気づいていない。雪歌は何も考えず、ジンタのいる籠を持ち上げようと後ろを振り向いた。
その瞬間、スタートの号砲がなったように勢いよくジンタがドアの外へ走り出した。猛烈なスタートダッシュ。もし、ライバルがいたらいっきに追い抜きそうである。雪歌の横を風が吹き抜けたように通り過ぎていった。まるで、前に家の外へ脱走した時みたいに。
気付けば、もうそこにいなかった。鍵をかけ忘れた籠だけが淋しそうに残っていた。冷たい汗が流れる。
「ちょっと! ジンタ!! 待って!」
その声も虚しく、ジンタはもう道路の近くまで走っていた。追いかけるしかない。またあの塀の上を目指しているのだろうと思った。雪歌は脱走したジンタを全力で追いかけ始めた。籠も持たずに。
「また、脱走しちゃうなんて。二度目? あの時に、もっと叱るべきだった。外は危険がたくさんあるのに・・。」
心配する雪歌をよそに、ジンタは勢いよく突き当りの曲がり角を曲がっていた。カーブミラーにうつらないくらい素早く。雪歌は必死で追いかけた。
「これでまた、塀の上で呑気にくつろいでいたら、次はなんて叱ってやろうかしら。籠から勝手に抜け出して脱走するなんて! 許さない!」
雪歌は急いで曲がり角を曲がり追いかけた。
雪歌が曲がり角を曲がると、その先には視界を塞ぐように一台の車が止まっていた。そのため、見通しが悪く、ジンタがどこにいるのかまるで分からなくなった。雪歌は立ち止まり、少し不安になった。
「えっ。もしかして、見失っちゃった・・?」
「いや、たしか、前はそこの塀の上に・・。」
雪歌は周囲を見渡した。塀の上を重点的に探していた。
すると、雪歌の目にジンタの姿が映った。
そこにいたジンタは・・
「あ~。やっぱり! もう、何しているの!」
そこにいたジンタは前と同じように塀の上で風を浴びながら、日向ぼっこをしていた。走ってやって来た雪歌の方を上から目線でゆったりと見ている。
雪歌は呆れを通り越した。
「ジンタ! あれだけ外に飛び出したら、ダメって言ったでしょ。分かっているの? 私は本気で言っているの! 遊びじゃすまないくらい、外は危ないんだから!」
雪歌は感情が溢れて涙交じりに叱った。雪歌の目は潤んでいる。
そんな真剣な雪歌にさすがに反省したのか、ジンタは塀を降り雪歌の方へ来て、頬を摺り寄せてきた。こんなジンタは初めてである。本当はもっと叱りたかったが、そのかわいい態度に叱るのをやめた。
「まぁ~。分かったならいいよ。おやつは抜きだけど。本当、二度とこんなことをしたら駄目だよ。分かった? じゃ~ はやく家に帰るよ!」
雪歌がそういうとジンタは突然落ち着きなく塀の下をうろつき始めた。
「もう、はやく帰るよ!」
それでも塀の下をうろついている。
雪歌はそんなジンタを見て、無意識に地面に何かを探していた。また、あの時みたいに四つ葉のクローバーがあるのではないかと思ったからだ。地面をじっくりと見てみた。
しかし、探すだけ虚しく、そこには四つ葉のクローバーはなかった。それどころか、枯れた草しかなかった。雪歌はちょっとだけ残念な気持ちになった。
「ジンタ、もう、四つ葉のクローバーはないよ。そう簡単にあるものじゃないからね。でも、あの時見つけた四つ葉のクローバー、実は私、お守りとして持っているんだ。ほら。」
雪歌はジンタの写真がプリントされた小さいポーチから、あの日に見つけた四つ葉のクローバーを大切そうに取り出した。
しかし、そこに幸福の四つ葉のクローバーの面影は残っていなかった。出てきたのは破れたハートの形のゴミくずみたいなものだけだった。見ていないうちにバラバラになってしまっていたのである。
雪歌はそれを見て、悲しくなった。
「もう、形も残ってなかったね・・。」
その散り散りになった四つ葉のクローバーのかけらが風に舞った。
とてもいい天気なのにくすんで見える青空。
そのかけらがジンタの足元に落ちてきたとき、ジンタは何かを感じたのか、霊にとりつかれたように暴れ始めた。
「ン~、ニャア~、ギ、ギ、ギ。」
雪歌はそれに気づいて、またどこかに行ってしまうのではないかと思い、すぐに暴れるジンタを抱き上げた。
それでも暴れている。
雪歌は優しく撫でて落ち着かせようとした。
それでも雪歌からどうにかして降りようとしている。
「もう! ジンタ、じっとしてよ! どうしちゃったの? なんだか変だよ。変な感じがするからすぐに家に帰るよ!」
雪歌は暴れるジンタをどうにか抑えて、家まで帰ろうと急いだ。なんだかはやく帰らないと、ジンタがおかしくなりそうな気がした。暴れるジンタの重さになんとか耐えながら歩いた。路上に止まっている車の横を通り抜けて、曲がり角まで来た。
カーブミラーには何も映っていない。
しかし、曲がり角を曲がったとき、雪歌の目の前に恐ろしいものが映った。
なんで?・・
前方から狂気を纏ったような車が猛スピードでこちらに向かって来ていた。スピードを全く落とすことなく。運転手は意識があるようには見えず、こちらを見ていない。
雪歌は一瞬で全身の感覚がなくなるほどの死の恐怖に直面した。
世界がゆっくりと歪んでいく。
このままではひかれて死んでしまう―
雪歌は恐怖のあまり動けなくなっていた。
体全体が固まってしまった。
しかし、暴走車は迫り来ている。
動かなければひき殺されてしまう。
雪歌は死を覚悟した。
そんな雪歌に強い衝撃が走った。
まるで、雪歌を蹴り飛ばすように。
これで終わりだと思った。
しかし、暴走車とぶつかったわけではなかった。
それはジンタの足だった。
ジンタの足が雪歌の腹にあたった。
みぞおちにとても強く。
その勢いとともに雪歌は何歩か後ろにふらついて倒れた。
その倒れた瞬間、かすりそうなくらいの目の前を暴走車が走り去っていった。
とてもぎりぎりである。
雪歌は紙一重で助かった。
でも安心なんかできない。
スローモーションに映る世界の中で探していた。
しかし、探しものは目の前にはいない。
腕の中にはいない。
ジンタを探していた。
ジンタはどこへ?
車が突き当りの壁にぶつかる激しい音が鳴り響く。
その衝撃に雪歌は気を失った。
でも、その直前に一瞬だけ、
映画フィルムの一コマ分くらいだけ、
ジンタが目に映った気がした。
現実だろうか。夢だろうか。
ジンタは血を流してぐったりとしていた―
それからの記憶はあまり覚えていない―
とある平日、
雪歌は時計の音で目を覚ました。朝の日差しが部屋に差し込んでいる。今日もいつもと同じように一日が始まる。
雪歌は布団から出て、いつものようにジンタを呼んだ。
「ジンタ!」
いつも通り、返事はない。
「ジンタ!」
ゲージの中、ジンタはいない。
「ジンタ・・」
雪歌も本当は分かっている。
「ジンタ・・」
ジンタがもうこの世にいないことを。
「ジンタ・・・・」
それでも、あの事故は夢でジンタはまだ生きていることを望んでいた。
「ジンタ・・・・」
たとえ、車ではねられたモノだと扱われても、ジンタは大切な家族だ。
「ジンタ・・・・・・」
雪歌はジンタのことが頭に溢れ出した。
まるい目でみつめてきて、あくびをしているジンタが浮かんだ。
その記憶の中のジンタも涙で滲んでいく。
ジンタはもういない。
雪歌は悲しみを堪えることができなくなった。
ついに泣き崩れた。
あの事故から冷静を装って、ここまで過ごしてきたのに、ついにどうしようもない気持ちに襲われてしまった。
雪歌の頭の中で後悔が渦巻いていた―
あの日、晴れじゃなくて嵐だったら・・。
あの日、私が籠の鍵をかけていれば・・。
あんな車がいなければ・・。
前に、もっと外が危ないことを教えておけば・・。
もっと、強くジンタを握りしめていたら、ジンタと離れずに済んだのに。
『私がジンタのこと、最後まで面倒みるからね!』
私は嘘つきだ―
雪歌はその日、仕事に行く気力が起きず、休みをもらってどこか当てもなく歩いていた。ジンタが好きだった塀の上のようにくつろげる場所などどこにもなかった。ジンタのいた美しい景色を思い出すたびに、ジンタのいない世界が醜く見えた。家に帰っても、何もする気になれなかった。光が眩しく感じてカーテンを閉めていた。ただ、雪歌は会社にこれ以上迷惑をかけたくないと思って、泣き疲れて痛い頭を我慢しながら明日の仕事の準備をした―
とある休日、
雪歌は実家に帰っていた。実家の部屋にはギターが飾ってある。なんとなく、そのギターを手に取った。雪歌はギターが弾けるわけではない。しかし、なぜか手に持っていた。ギターを持っていると自然と過去のことを思い出していた。
「そういえば、中学生の頃、今の私みたいにとても暗い気持ちで悲しい表情を見せる女の子がいたな・・。その女の子がギターを弾くのが好きだって言っていたっけ。ギターにのせて、想いを叫んでいるんだって。あの子は今も元気にしているかな。
一方で中学生の頃の私は、小説を書くことが好きだったな。猫が主人公の小説も書いていた。猫が飼い主の危機を救っていく小説。その小説を書き終わった後に、ジンタを飼い始めたんだっけ。
あれから、小説は書かなくなっちゃったけど。あれがジンタを飼うきっかけだったな・・。」
雪歌は手に持っているギターを弾いてみた。
弾き方は分からない。とりあえず、弦を抑えてそれっぽく弾いてみた。
当然のように綺麗な音は鳴らず、弾けなかった。
弦を抑えた指はまるでジンタの爪で引掻かれたような痛みが走った。音はまるでジンタがあくびしているみたいな間の抜けた音である。
「ジンタ・・」
雪歌は自然とジンタを思い出していた。
なぜか、心の中でジンタが鳴いているような、ジンタが私のことを見つめているような、不思議な気持ちになった。
「心の中にいるんだね・・。」
突然、そう思った。
そう感じた雪歌は徐にペンを取り出し、紙に文章を書き始めた。
思いつく言葉をとにかく書いていた。手が止まらなかった。涙も止まらなかった。
涙で滲む文字をひたすらに書いていた。その走り書きの文章の最後にこのように書き記した。今の自分に向けたような言葉である。
「あなたがいない世界でも、あなたが心の中にいると信じて前を向いて生きていく。」
雪歌はこの言葉を書いて、背負っていた荷物を降ろせたように少し心が楽になった。
自分の想いを文字にして書くことで自分とジンタに向き合えた気がした。
心の中で話せた。雪歌はジンタにこう言った。
「私は前を向いて生きていくよ。心の中で応援してね。ジンタ・・。」
それから5年後―
雪歌の生活は大きく変わっていた。
雪歌は幸仁という男性と結婚した。
先日、結婚式が行われ、ウエディングドレスを着た雪歌は「美しい」といろんな人に褒められた。家族は泣いて喜んでくれた。雪歌も感動で泣いた。新郎新婦入場の音楽に、好きなアーティストの音楽を流してもらうことが憧れだったので、大好きな音楽で入場できて感極まってしまった。ジンタと一緒にうつる写真もスクリーンに映し出された。懐かしく愛おしい気持ちになった。その後に映し出されたのは雪歌と新郎である幸仁のラブラブな写真。ジンタ、嫉妬していないかな、、
そんな雪歌と幸仁の出会いは、ジンタがいなくなってちょうど1年がたった時である。
その時、雪歌は心のどこかでずっとジンタのことを後悔していた。そんな時に、立ち寄った書店で偶然出会ったのが幸仁である。
幸仁は雪歌に「上の棚の本、良かったら取りましょうか?」と声をかけてきた。雪歌はそんな幸仁に普通に対応しようと思っていたが、幸仁の笑顔がどこかジンタに似ているがした。
それで思わず、幸仁に『ジンタ?』と呼んでしまった。
幸仁は急に『ジンタ』という謎の名前を呼ばれて驚いていた。しかし、幸仁は嫌な顔を一つせず、「私は幸仁といいます。」と笑顔で名前を言った。その瞬間から雪歌はフワッとした不思議な感情を持った。
そこから・・
「あ~。すみません。」と雪歌。
「1年前にジンタという猫を飼っていて・・」という説明。
「寂しい想いをされたんですね。」と会話は進展。
「喫茶店で話をしませんか。」でお互いの悩みを打ち明け。
「また会いましょう。」と連絡交換。
そんなこんなで、雪歌と幸仁の交際は始まった。
そして、結婚。
とても、気が合う仲の良い夫婦である。
今、雪歌が暮らす家には、雪歌と幸仁、そして、雪歌と幸仁の間に生まれた赤ちゃんがいる。子育ては大変だが、とてもかわいい息子である。雪歌は母になったということである。家族はそれだけではない。息子ととても仲がいい家族がいる。新しく飼っている猫のマーナである。マーナもジンタと同じくらい遊ぶのが好きな猫である。今もねこじゃらしを噛みちぎろうと暴れている。
時は巡り、今、私は幸せに暮らしている。
大好きなジンタとはとても悲しいお別れになってしまったけれど、きっと今も見守ってくれていると思う。
だから改めて、ジンタに伝えたい。
「ありがとう。」
私が寂しい時に一緒にいてくれて、たくさん話をした。
そのおかげで今の生活がある。
・・いや、これからも一緒に話そうよ。
きっと、いつものように何も返してくれないかもしれないけれど、あくびをしながら聞いてくれたらいいよ。
また話そう。
次は新しい家族と一緒にね。
(おわり)
読んでくださって、ありがとうございます!!